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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
17/19

第17話 振り向かなかった朝

寝られるわけがなかった。

目を閉じて、眠っているふりをしながら、僕はずっとしおりのことを考えていた。


ブランケットの内側は思ったより冷える。

誰かの寝返りの気配、遠くで軋む船体、規則正しく続くエンジンの低い振動。

それらが眠りを遠ざけて、代わりに時間だけを押しつけてくる。


考えないようにするほど、思考は同じ場所を同じ速さで回った。

甲板での体温。

風の中で跳ねた声。

腕の中で笑った顔。

どれも、もう過去になるのに、まだ今のままだった。


それでも、いつの間にか意識はほどけて、浅い眠りに落ちていたらしい。

気がつくと、窓の外がほんのりと明るみ始めていた。


夜とも朝ともつかない、濃紺と灰色のあいだ。

深海をすくい上げて、そのまま空に広げたような静かな蒼だった。


「この船は、あと30分で大阪南港フェリーターミナルに到着します」


アナウンスが流れる。

妙に輪郭のはっきりした声が、夢の続きに現実を差し込んでくる。

僕は思わず肩をすくめた。


関節が小さく鳴るのを感じながら体を起こす。

隣で、しおりもちょうど目を覚ましたところだった。

寝起きのまま、少しだけぼんやりした目で僕を見る。

トオルと小清水くんは、まだ規則正しい寝息を立てている。


昨夜、眠れなかった時間に、僕はひとつのことを決めていた。

逃げ場のない、情けないほどの“悪あがき”。

でもそれは、格好つけた沈黙を捨てることだった。

最後に、負けを認めるみたいに、素直になることだった。


今やらなければ、きっと一生、後悔する。

その確信だけが、やけに冷静に胸の奥に残っていた。


「ねえ、もう1回だけ、甲板行こう」


しおりは一瞬きょとんとして、それから眉を寄せた。


「え?寒いってば」


「最後に。お願い」


短い沈黙。

しおりは視線を落として、唇の端だけで笑った。


「……しょうがないな」


そう言って、うなずいた。


再び甲板へ出る。

夜明けの空は、さっきより白さを増していた。

風は昨日より柔らかい。

それでも冬の名残を確かに含んで、頬を撫でていく。

船はもう、戻る準備を始めている。

その気配が足元から伝わってきた。


僕はコートのポケットから小さな紙片を取り出した。

指先が少しだけ冷たい。


「約束通り、しおりの連絡先は聞かへん。

でも……もし、しおりが日常に戻って、彼氏とも会って、それでももう1回ちゃんと考えて。

それで、僕を選んでくれる気になったら……連絡が欲しい」


言い終えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

言葉が出たのに、取り返しがつかない気がした。


しおりは何も言わず、紙片を見つめている。

風が2人のあいだを通り抜けた。


「これは、未練の塊の僕の、最後の往生際の悪さや。

カッコ悪いって、自分でも分かってる。

それでも、渡したかった」


しおりは黙ったまま紙片を受け取った。

折り目を確かめるみたいに、ゆっくり丁寧に折りたたんで、ポケットにしまう。


「うん。分かった」


それだけだった。

でも、その一言が、これ以上ない返事に思えた。


僕は泣かないようにするので精一杯だった。

言葉にしようとしていた気持ちを、彼女がちゃんと受け止めてくれた気がした。


「ねえ、最後にもう1回だけ、キスしよう」


白んでいく空の下で、僕たちは静かに、長く、長く、唇を重ねた。

別れを先延ばしにするみたいに。

やがて視界の向こうに、陸地が浮かび上がってきた。


◇    ◇    ◇    ◇


うらぶれた船室に戻ると、トオルも小清水くんもすでに起きていた。

まだ夢の続きを引きずっているような顔で、スーツケースを引きずりながら、僕たちは最後の支度を整える。


「まもなく接岸いたします。乗船口へお進みください」


アナウンスの声は、昨夜より少しだけ明るく聞こえた。

それが逆に、この時間の終わりをはっきり告げているようで、胸の奥がざわついた。


フェリーのロビーに出る。

ガラス越しに港の風景が広がっている。

埋立地の向こうに並ぶ新しい建物。

しおりは、このフェリーターミナルからほど近い、その住宅地のマンションに住んでいるという。


つまり、ここが本当のお別れの場所だった。


「じゃあ、2週間、楽しかった。

また会おう」


誰からともなく声をかけ合い、僕たちはそれぞれ握手を交わした。

トオルとは自然な流れで連絡先を交換した。


「じゃあね」


僕は、しおりにだけ、少しだけ声を落として言った。

それ以上、何も付け足せなかった。


踵を返して歩き出す。

背中に視線を感じながら、それでも足を止めなかった。


10歩ほど進んだ、そのときだった。


「ねえ。私――」


風に乗って、あの声が届いた。


ほんの少し震えていて、いつものミルキーな柔らかさの奥に、何かを振り切ろうとする必死さが滲んでいる。

呼び止められたのだと分かっていた。

それでも僕は振り向かなかった。


足は一瞬、止まりかけた。

けれど視線だけは前を向いたままだった。

振り向いてしまえば、自分で決めたことが全部崩れてしまう。

そんな予感が、喉の奥に苦く残った。


代わりに、前を向いたまま、手を頭の上まで上げる。

そして、振った。

大きく。

風に持っていかれないように。

彼女の目に焼きつくように。


それが今の僕にできる、精一杯だった。


さようなら、夢のような非日常の2週間。

さようなら、少し背伸びをしていた、不思議な透明感の女の子。

さようなら。

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