最終話 戻ってきた季節
一人で受けに行った最終の学科試験は、もちろん一発で合格し、僕は免許を手に入れた。
電光掲示板に自分の番号が光った瞬間、「やったー」としおりのあの声が聞こえた気がしたが、もちろん幻聴だった。
4月からの新生活のために借りた部屋は、キッチンと6畳の部屋だけなのに、妙に広く、妙に静かだった。
僕が思い描いていた「京都の学生生活」を実現するために選んだ、木造2階建ての風呂なしアパート。
近くには、賀茂川と高野川が合流する三角州がある。
部屋には、まだ畳しかなかった。
あるのは、入学祝いだと言って親が買ってくれた、駐車場に停めたスプリンター・カリブだけだった。
宮崎から帰ってきた1週間ほど、空はずっと穏やかだった。
少し霞んだ青、ゆっくり流れる雲、窓辺でまどろむ陽光。
まるで、あの土地の2月が、時間を間違えてここまでついてきたようだった。
向こうでは、毎日なにかが起きていた。
教習中に飛び出してくるじいさん。
学科の答え合わせに一喜一憂する、誰かの笑い声。
でも、今は何も起こらない。
誰も叫ばない。誰も笑わない。
──何より、しおりがいない。
バニラの香りのする、細くてさらさらの長い髪も。
甘くて、少しハスキーで、ほんのり鼻にかかったミルキー・ボイスも。
この部屋のどこにも存在しなかった。
少しずつ家具を揃え、部屋はようやく「自分の場所」らしくなっていった。
2口のガスコンロに、大きめのシンク──このキッチンが決め手で選んだ部屋だ。
実家から持ってきたオーディオ、畳に直置きしたマットレス、白い丸テーブルと折りたたみ椅子。
カーテンレールにはクリップライトを付けて、無理やり間接照明を気取ってみた。
畳の部屋なのに。
僕は毎日、ペーパーバックを読み、コーヒーを淹れ、
チェット・ベイカーの『Sings』を、擦り切れるほど聴いた。
そして、ときどき意味もなく車を走らせた。
行き先のないドライブ。話し相手はラジオだけだった。
その日も、午後の道をだらだらと流していた。
ラジオから、マーキーの声が流れてくる。
「さて次の曲は、この季節、学生時代を振り返って切なくなる人も多いんじゃないでしょうか。サザンオールスターズで、『Ya Ya(あの時代を忘れない)』。」
桑田さんの声が、「思い出すのは、Better Days…」と歌い出した瞬間、
不意に、車内にふわっとバニラの香りがした。
あの声が、確かに耳元に届いた気がした。
「──桑田さんの学生時代の音楽サークルの名前なんだよ」
しおりが、あのとき話してくれた言葉。
穏やかで、愛おしい日々。
僕は、なんであんな格好をつけていたんだろう。
「君が会いたいなら、そっちがケジメをつけて連絡してこい」
だなんて。
もっと見苦しくてよかった。
もっと情けなくてよかった。
すがりついても、かっこ悪くても、伝えればよかった。
振り回されて、確かに苦しかった。
でも、見苦しくすがりついていたら、
しおりは今でも、僕の隣で笑っていたかもしれない。
「恋のバカンス」だって、一緒に歌えただろう。
◇
ある日、1度だけあおいから電話があった。
無事に卒検までクリアして、昨日帰ってきたという。
僕の番号は、どうやらトオルから聞いたらしい。
「しおりちゃんと、仲良くやってる?」
「ああ、うん……まあね」
その曖昧な返事で、あおいはすぐに察した。
「ん? うまくいってない?」
「フェリーで、別れた」
「えー! なにそれ???」
僕は、ざっくりと事の成り行きと、帰ってからの日々を話した。
あおいは少し呆れながらも、明るい声で言った。
「それはさ、しおりちゃんが悪いよねー。……まあ、気持ちは分からなくもないけど」
「そしたらさ、また私が慰めてあげよっか?」
返事に困っていると、あの懐かしいケラケラ笑いが聞こえた。
「本気で寂しくなったら電話してきなよ! ドライブくらい、付き合ってあげるから。じゃあねー!」
電話は軽やかに切れた。
少しだけ、胸が軽くなった。
◇
さらに数日が過ぎた朝。
久しぶりに、雨が降っていた。
空が、忘れていた感情を思い出したみたいに、
静かに、優しく泣いていた。
僕はコーヒーを淹れ、
マイルスのプレスティッジ・マラソン・セッションの最初の1枚に針を落とした。
「My Funny Valentine」。
レッド・ガーランドのピアノが、迷子になった時間を手探りで探しているみたいに響く。
そのインプロヴィゼーションが始まった頃、電話が鳴った。
受話器を取る。
声はない。
遠くで、雨が薄い屋根を叩く音だけがしている。
電話ボックスだろうか。
それとも、ただの沈黙か。
そのとき──
ふいに、バニラの香りがした。
「……しおり?」
自分の声だったのかどうか、確信が持てない。
「しおりなん?」
返事はない。
代わりに、小さく──すん、と鼻をすする音。
それだけで、分かった。
「……私……」
くぐもった声。
少しハスキーで、少し鼻にかかった、あの声だった。
「私、やっぱり……君がいない生活は、考えられない」
言葉が、雨音に溶けながら、胸の奥まで届いてくる。
「私のそばにいて。
私の横にいて。
一緒に笑って。
一緒に歌って。
一緒に、どうでもいい話をして」
閉ざしていた窓の鍵が、気づかれないくらいの音で、外れる。
置き去りにしたと思っていた季節が、何事もなかった顔で、静かに、戻ってきた。
僕は、ただ耳を澄ませていた。
胸の奥が、音もなく震えていた。
「ねえ、しおり」
「ん?」
「まずは……どこに行こう?」




