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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
18/19

最終話 戻ってきた季節

一人で受けに行った最終の学科試験は、もちろん一発で合格し、僕は免許を手に入れた。

電光掲示板に自分の番号が光った瞬間、「やったー」としおりのあの声が聞こえた気がしたが、もちろん幻聴だった。


4月からの新生活のために借りた部屋は、キッチンと6畳の部屋だけなのに、妙に広く、妙に静かだった。

僕が思い描いていた「京都の学生生活」を実現するために選んだ、木造2階建ての風呂なしアパート。

近くには、賀茂川と高野川が合流する三角州がある。


部屋には、まだ畳しかなかった。

あるのは、入学祝いだと言って親が買ってくれた、駐車場に停めたスプリンター・カリブだけだった。


宮崎から帰ってきた1週間ほど、空はずっと穏やかだった。

少し霞んだ青、ゆっくり流れる雲、窓辺でまどろむ陽光。

まるで、あの土地の2月が、時間を間違えてここまでついてきたようだった。


向こうでは、毎日なにかが起きていた。

教習中に飛び出してくるじいさん。

学科の答え合わせに一喜一憂する、誰かの笑い声。


でも、今は何も起こらない。

誰も叫ばない。誰も笑わない。

──何より、しおりがいない。


バニラの香りのする、細くてさらさらの長い髪も。

甘くて、少しハスキーで、ほんのり鼻にかかったミルキー・ボイスも。

この部屋のどこにも存在しなかった。


少しずつ家具を揃え、部屋はようやく「自分の場所」らしくなっていった。

2口のガスコンロに、大きめのシンク──このキッチンが決め手で選んだ部屋だ。

実家から持ってきたオーディオ、畳に直置きしたマットレス、白い丸テーブルと折りたたみ椅子。

カーテンレールにはクリップライトを付けて、無理やり間接照明を気取ってみた。

畳の部屋なのに。


僕は毎日、ペーパーバックを読み、コーヒーを淹れ、

チェット・ベイカーの『Sings』を、擦り切れるほど聴いた。

そして、ときどき意味もなく車を走らせた。

行き先のないドライブ。話し相手はラジオだけだった。


その日も、午後の道をだらだらと流していた。

ラジオから、マーキーの声が流れてくる。


「さて次の曲は、この季節、学生時代を振り返って切なくなる人も多いんじゃないでしょうか。サザンオールスターズで、『Ya Ya(あの時代を忘れない)』。」


桑田さんの声が、「思い出すのは、Better Days…」と歌い出した瞬間、

不意に、車内にふわっとバニラの香りがした。


あの声が、確かに耳元に届いた気がした。


「──桑田さんの学生時代の音楽サークルの名前なんだよ」


しおりが、あのとき話してくれた言葉。

穏やかで、愛おしい日々。


僕は、なんであんな格好をつけていたんだろう。


「君が会いたいなら、そっちがケジメをつけて連絡してこい」


だなんて。


もっと見苦しくてよかった。

もっと情けなくてよかった。

すがりついても、かっこ悪くても、伝えればよかった。


振り回されて、確かに苦しかった。

でも、見苦しくすがりついていたら、

しおりは今でも、僕の隣で笑っていたかもしれない。

「恋のバカンス」だって、一緒に歌えただろう。



ある日、1度だけあおいから電話があった。

無事に卒検までクリアして、昨日帰ってきたという。

僕の番号は、どうやらトオルから聞いたらしい。


「しおりちゃんと、仲良くやってる?」


「ああ、うん……まあね」


その曖昧な返事で、あおいはすぐに察した。


「ん? うまくいってない?」


「フェリーで、別れた」


「えー! なにそれ???」


僕は、ざっくりと事の成り行きと、帰ってからの日々を話した。

あおいは少し呆れながらも、明るい声で言った。


「それはさ、しおりちゃんが悪いよねー。……まあ、気持ちは分からなくもないけど」


「そしたらさ、また私が慰めてあげよっか?」


返事に困っていると、あの懐かしいケラケラ笑いが聞こえた。


「本気で寂しくなったら電話してきなよ! ドライブくらい、付き合ってあげるから。じゃあねー!」


電話は軽やかに切れた。

少しだけ、胸が軽くなった。



さらに数日が過ぎた朝。

久しぶりに、雨が降っていた。


空が、忘れていた感情を思い出したみたいに、

静かに、優しく泣いていた。


僕はコーヒーを淹れ、

マイルスのプレスティッジ・マラソン・セッションの最初の1枚に針を落とした。


「My Funny Valentine」。


レッド・ガーランドのピアノが、迷子になった時間を手探りで探しているみたいに響く。

そのインプロヴィゼーションが始まった頃、電話が鳴った。


受話器を取る。

声はない。


遠くで、雨が薄い屋根を叩く音だけがしている。

電話ボックスだろうか。

それとも、ただの沈黙か。


そのとき──

ふいに、バニラの香りがした。


「……しおり?」


自分の声だったのかどうか、確信が持てない。


「しおりなん?」


返事はない。

代わりに、小さく──すん、と鼻をすする音。


それだけで、分かった。


「……私……」


くぐもった声。

少しハスキーで、少し鼻にかかった、あの声だった。


「私、やっぱり……君がいない生活は、考えられない」


言葉が、雨音に溶けながら、胸の奥まで届いてくる。


「私のそばにいて。

私の横にいて。

一緒に笑って。

一緒に歌って。

一緒に、どうでもいい話をして」


閉ざしていた窓の鍵が、気づかれないくらいの音で、外れる。

置き去りにしたと思っていた季節が、何事もなかった顔で、静かに、戻ってきた。


僕は、ただ耳を澄ませていた。

胸の奥が、音もなく震えていた。


「ねえ、しおり」


「ん?」


「まずは……どこに行こう?」

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