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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
16/19

第16話 風の中のモモンガ

港に着いたのは、まだ日が残っている時間だった。


ターミナルの屋根は波打つように薄汚れ、外壁に貼られた観光ポスターはところどころ日焼けしている。

トラックが荷を下ろすたび、金属の擦れる音がコンクリートに重く跳ね返った。

その反響が、この場所がもう“旅先”ではないことを、いやでも教えてくる。


出港まで、あと2時間以上。


何かを始めるには足りず、何もしないには少し長い。

僕たちは特に言葉を交わすこともなく、自然な流れでターミナル2階の食堂へ向かった。


階段を上がると、薄いビニール張りの床に靴音が吸い込まれていく。

奥に「レストランまりん」という、控えめすぎるフォントの看板が見えた。

蛍光灯のはずなのに、店内はどこか黄ばんで見え、居酒屋でも社員食堂でもファミレスでもない、“どれでもない”空気が漂っていた。


ショーケースの食品サンプルは、かつては本物だったのではと思うほど色褪せている。

カレーの表面には、照明を反射する薄い膜が張りついていた。


それでも、空腹には勝てない。


僕としおりは、ほとんど同時にオムライスを指差した。

ケチャップで書かれた「まりん」の文字が、少し歪んでいて、妙に胸に残る。


「俺はもう、がっつり行くぞ。カツカレー一択」


トオルが声を張り、厨房の奥にまで届きそうな勢いで注文する。

少し間を置いて、小清水くんが「親子丼……ください」と続けた。

その声は小さかったが、消えずにきちんとそこにあった。


運ばれてきた料理は、どれも見た目以上にぬるい。

けれど、その温度が、この時間には不思議と合っていた。


トオルはカツをひと切れ噛みしめ、「うん、普通」と言いながら、箸を止めない。

しおりはスプーンでオムライスをすくい、


「こういうとこで食べるオムライスってさ、なぜか全部“さみしい味”するよね」


と言った。


僕はうなずき、


「でも、覚えてる味になる」


と返した。

たぶんそれは、料理の話じゃなかった。


食べ終えた頃、小清水くんが立ち上がった。


「ちょっと……取ってくるから、待ってて」


戻ってきた彼の手には、クリームソーダがあった。


「は?」「へ?」「今からそれ?」


僕たちの反応など気にせず、小清水くんはチェリーをスプーンの背で、ゆっくり沈めていく。

その動作は妙に丁寧で、理由を考えさせる隙もなく、ただ印象に残った。


やがて乗船案内のアナウンスが流れる。

僕たちは搭乗券をもぎられ、スーツケースを引きずって船へ向かった。


2月の終わり、平日の夜。

乗客は少なく、船内は驚くほど静かだった。


船室のドアを開けると、思いのほか広い空間が現れた。

天井が高く、視線を遮るものが何もない。


二等船室。

雑魚寝の広間。


緑色の短い毛足のカーペット。

低い棚の上に、茶色いビニールの枕と、色の定まらないブランケット。

蛍光灯が、今にも切れそうな音を立てている。


現実と夢のあいだに、感情だけが置き去りにされたような場所だった。


「……あ、俺、あそこ。角、ええよね」


トオルが荷物を置き、小清水くんが黙って隣に座る。

僕としおりも、少し離れた壁際に腰を下ろした。


誰も何も言わない。

寝返りを打ち、時計を見て、また天井を仰ぐ。

それぞれが、この空間に身体を馴染ませていく。


「ねえ、ちょっと甲板、行ってみいひん?」


トオルの声に、4人は顔を見合わせ、ゆっくり立ち上がった。



甲板は風が強く、肌寒い。

海と金属の匂いが混じり、コートの裾を容赦なく引っ張る。

港の灯が、静かに遠ざかっていった。


僕は風を避け、タバコに火をつける。

数回失敗して、ようやく灯る。


真っ暗な海。

見えない波が、船の下を通り過ぎていく。


そのとき、


「モモンガー!」


ひときわ透き通った声が、風を切って跳ねた。

振り返ると、しおりが少し大きめのコートの裾を両手で広げ、風に向かって跳んでいた。


冬の空気を切り裂いて、その身体がほんの1瞬、宙に浮いたように見えた。

ほどけた髪が舞い、彼女は無邪気に笑っている。

まるで、風の中を滑空するモモンガみたいだった。


「ほら! 飛べそうじゃない?風に乗れそうな感じする! モモンガー!」


冗談めかしてはいたけれど、しおりは本気だった。

繊細で儚げだと思っていた彼女に、こんな無防備な衝動があることが、少し意外だった。

僕は、まだ彼女のことを何も知らない。


しおりは数歩こちらへ戻ってきて、笑いながら言った。


「ねえ、君、さっきからめちゃくちゃ難しい顔してない?

タバコ、苦い?」


返事に詰まり、僕は口の端だけで笑った。


「そっか。苦くないんだ。じゃあ、思ってたより深刻ってことだ」


いたずらっぽくそう言って、しおりは僕の腕のあいだにするりと入り込み、

背中から、そっと体重を預けてきた。


僕は腕を回し、包むように抱き寄せた。

あたたかい。

胸に触れる彼女の背中と、風に揺れて頬をかすめる、

細くて柔らかく、バニラの香りを含んだ髪。

船の揺れと重なり合って、世界の中でここだけが、

時間を忘れてしまったような錯覚に包まれる。


僕たちはしばらく、どうでもいい話をした。

昨日の昼食が意外とうまかったこと。

教習車のハンドルの遊びが、教官ごとに違うこと。

大ヤンの補助ブレーキ問題のこと。


けれど、僕は、どうしようもなくなっていた。


風の音が、1瞬だけ遠のいた気がして、

僕は抱きしめる腕に、思わず力を込めた。


「……離れたくない」


その声は、風に溶けて消えてしまったかもしれない。


「ちょっと、痛い。痛いよ」


しおりの小さな声に、はっとして我に返る。


「ごめん」


腕の力を抜くと、しおりはくるりと向き直り、

軽く首をかしげてから、

そっと、僕の唇に自分の唇を重ねた。


「さ、そろそろあの悲しげな空間に戻って寝ようか」


そう言って、彼女は微笑んだ。

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