第16話 風の中のモモンガ
港に着いたのは、まだ日が残っている時間だった。
ターミナルの屋根は波打つように薄汚れ、外壁に貼られた観光ポスターはところどころ日焼けしている。
トラックが荷を下ろすたび、金属の擦れる音がコンクリートに重く跳ね返った。
その反響が、この場所がもう“旅先”ではないことを、いやでも教えてくる。
出港まで、あと2時間以上。
何かを始めるには足りず、何もしないには少し長い。
僕たちは特に言葉を交わすこともなく、自然な流れでターミナル2階の食堂へ向かった。
階段を上がると、薄いビニール張りの床に靴音が吸い込まれていく。
奥に「レストランまりん」という、控えめすぎるフォントの看板が見えた。
蛍光灯のはずなのに、店内はどこか黄ばんで見え、居酒屋でも社員食堂でもファミレスでもない、“どれでもない”空気が漂っていた。
ショーケースの食品サンプルは、かつては本物だったのではと思うほど色褪せている。
カレーの表面には、照明を反射する薄い膜が張りついていた。
それでも、空腹には勝てない。
僕としおりは、ほとんど同時にオムライスを指差した。
ケチャップで書かれた「まりん」の文字が、少し歪んでいて、妙に胸に残る。
「俺はもう、がっつり行くぞ。カツカレー一択」
トオルが声を張り、厨房の奥にまで届きそうな勢いで注文する。
少し間を置いて、小清水くんが「親子丼……ください」と続けた。
その声は小さかったが、消えずにきちんとそこにあった。
運ばれてきた料理は、どれも見た目以上にぬるい。
けれど、その温度が、この時間には不思議と合っていた。
トオルはカツをひと切れ噛みしめ、「うん、普通」と言いながら、箸を止めない。
しおりはスプーンでオムライスをすくい、
「こういうとこで食べるオムライスってさ、なぜか全部“さみしい味”するよね」
と言った。
僕はうなずき、
「でも、覚えてる味になる」
と返した。
たぶんそれは、料理の話じゃなかった。
食べ終えた頃、小清水くんが立ち上がった。
「ちょっと……取ってくるから、待ってて」
戻ってきた彼の手には、クリームソーダがあった。
「は?」「へ?」「今からそれ?」
僕たちの反応など気にせず、小清水くんはチェリーをスプーンの背で、ゆっくり沈めていく。
その動作は妙に丁寧で、理由を考えさせる隙もなく、ただ印象に残った。
やがて乗船案内のアナウンスが流れる。
僕たちは搭乗券をもぎられ、スーツケースを引きずって船へ向かった。
2月の終わり、平日の夜。
乗客は少なく、船内は驚くほど静かだった。
船室のドアを開けると、思いのほか広い空間が現れた。
天井が高く、視線を遮るものが何もない。
二等船室。
雑魚寝の広間。
緑色の短い毛足のカーペット。
低い棚の上に、茶色いビニールの枕と、色の定まらないブランケット。
蛍光灯が、今にも切れそうな音を立てている。
現実と夢のあいだに、感情だけが置き去りにされたような場所だった。
「……あ、俺、あそこ。角、ええよね」
トオルが荷物を置き、小清水くんが黙って隣に座る。
僕としおりも、少し離れた壁際に腰を下ろした。
誰も何も言わない。
寝返りを打ち、時計を見て、また天井を仰ぐ。
それぞれが、この空間に身体を馴染ませていく。
「ねえ、ちょっと甲板、行ってみいひん?」
トオルの声に、4人は顔を見合わせ、ゆっくり立ち上がった。
◇
甲板は風が強く、肌寒い。
海と金属の匂いが混じり、コートの裾を容赦なく引っ張る。
港の灯が、静かに遠ざかっていった。
僕は風を避け、タバコに火をつける。
数回失敗して、ようやく灯る。
真っ暗な海。
見えない波が、船の下を通り過ぎていく。
そのとき、
「モモンガー!」
ひときわ透き通った声が、風を切って跳ねた。
振り返ると、しおりが少し大きめのコートの裾を両手で広げ、風に向かって跳んでいた。
冬の空気を切り裂いて、その身体がほんの1瞬、宙に浮いたように見えた。
ほどけた髪が舞い、彼女は無邪気に笑っている。
まるで、風の中を滑空するモモンガみたいだった。
「ほら! 飛べそうじゃない?風に乗れそうな感じする! モモンガー!」
冗談めかしてはいたけれど、しおりは本気だった。
繊細で儚げだと思っていた彼女に、こんな無防備な衝動があることが、少し意外だった。
僕は、まだ彼女のことを何も知らない。
しおりは数歩こちらへ戻ってきて、笑いながら言った。
「ねえ、君、さっきからめちゃくちゃ難しい顔してない?
タバコ、苦い?」
返事に詰まり、僕は口の端だけで笑った。
「そっか。苦くないんだ。じゃあ、思ってたより深刻ってことだ」
いたずらっぽくそう言って、しおりは僕の腕のあいだにするりと入り込み、
背中から、そっと体重を預けてきた。
僕は腕を回し、包むように抱き寄せた。
あたたかい。
胸に触れる彼女の背中と、風に揺れて頬をかすめる、
細くて柔らかく、バニラの香りを含んだ髪。
船の揺れと重なり合って、世界の中でここだけが、
時間を忘れてしまったような錯覚に包まれる。
僕たちはしばらく、どうでもいい話をした。
昨日の昼食が意外とうまかったこと。
教習車のハンドルの遊びが、教官ごとに違うこと。
大ヤンの補助ブレーキ問題のこと。
けれど、僕は、どうしようもなくなっていた。
風の音が、1瞬だけ遠のいた気がして、
僕は抱きしめる腕に、思わず力を込めた。
「……離れたくない」
その声は、風に溶けて消えてしまったかもしれない。
「ちょっと、痛い。痛いよ」
しおりの小さな声に、はっとして我に返る。
「ごめん」
腕の力を抜くと、しおりはくるりと向き直り、
軽く首をかしげてから、
そっと、僕の唇に自分の唇を重ねた。
「さ、そろそろあの悲しげな空間に戻って寝ようか」
そう言って、彼女は微笑んだ。




