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如月の栞  作者: 宮滝吾朗
15/19

第15話 2時間の永遠

朝は、けたたましい目覚まし時計の電子音で始まった。


大部屋の天井に、やけに乾いた光が差し込んでいる。

その白さを見ただけで、「ああ、もう帰るんだ」という実感が、言葉になる前に胸の奥へ沈んでいった。

夜が終わったというより、無理に引き剥がされたみたいな朝だった。

カーテンの隙間から入る光は、昨日までの朝よりも少しだけ遠慮がなくて、こちらの事情などお構いなしに部屋の隅々まで届いていた。


雑魚寝の布団のあいだを縫うように、誰かのいびきが響いている。

寝息と寝返りの気配が混ざり合い、合宿所特有の、少し湿った空気が残っていた。

小清水くんは布団から半分はみ出したまま、うつ伏せで眠っていたし、トオルはもう起きていて、洗面所から戻るところだった。

彼は無言でタオルを肩にかけ、歯ブラシを咥えたまま、こちらに軽く頷いた。

それだけで、「今日が最後だ」ということを、全員がなんとなく理解している気がした。

わざわざ口に出さなくても、空気がもう次の段階に移っている。


僕は、眠った気がしなかった。

残っているのは、昨夜のしおりの笑顔と、唇の感触だけだった。

触れた手の温度や、交わした言葉の余韻が、毛布の中にまで染みついているようで、目を開けた瞬間の空気がひどく静かに感じられた。

時間だけが先に進んでいて、僕の感覚はまだ夜の途中に置き去りにされているみたいだった。

まぶたの裏には、昨日の夜の輪郭が、少し滲んだまま残っていた。


しおりは、もう準備を終えてロビーにいるだろうか。

それとも、まだあおいやりかこと、何でもない話でもしているだろうか。

笑い声が混じるような、たわいのない会話をしている姿を想像すると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

そんなことを考えながら洗面所で顔を洗った。

冷たい水が、体の芯に残っていた非日常を、少しずつ現実に引き戻していく。

鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけぼんやりして見えた。


今日から、もう彼女と同じ宿には泊まらない。

同じ教習所に通うことも、昼休みに並んでカレーを食べることもない。

それらすべてが、今この瞬間、過去になろうとしていた。

その境目がはっきりしないから、胸の奥が落ち着かなかった。

別れは、きっともっと分かりやすいものだと思っていた。


ロビーにはすでに、いくつかのキャリーケースと、いつもより少し早口な挨拶の声が溢れていた。

車輪の音や、ファスナーを閉める音が、いつもより大きく聞こえる。

空気だけが先に動き出していて、人の気持ちはまだ追いついていない。

そんな朝だった。


しおりは、その中で窓辺に立っていた。

ベージュのニットに、くるぶしの見える細身の黒いパンツ。

前髪はピンで留められ、後れ毛が頬に触れている。

夜の名残をわずかに残しながら、もう切り替えたようにも見える表情。

その曖昧さが、やけに胸に残った。

近づくまで、少しだけ時間がかかった。


「おはよ」


「うん、おはよ」


短い挨拶。

そこには少しのぎこちなさがあったけれど、それは悪いものじゃなかった。

「会えてうれしい」と「もうすぐ終わる」という二つの感情が、同じ場所に並んでいた。

言葉が少ないぶん、間に残るものがはっきりしていた。


僕としおりのあいだには、ほんの数歩の距離があった。

でも、その距離は、2週間前よりずっと近かった。

同時に、これ以上縮まらない距離でもあった。


あおいとりかこが、見送りに出てきてくれた。

彼女たちは、僕としおりが“合宿が終わるまでの仲”だとは知らない。


「あーあ、ほんとに帰っちゃうんだ。……ま、予定通りだけどね」


あおいはそう言ってから、しおりの視線が逸れた一瞬を見計らい、僕にだけ声を落とした。


「……ま、いろいろあったね。ほんと。あたし的にも。ね?」


片目だけ細めて、すぐにまた明るく、


「元気でね!」


と大きな声を出した。


「しおりちゃん、忘れ物は……ないか。あんた意外と抜けてるからさ」


「あるわけないじゃん」


「そっか。手荷物には“中田との思い出”もちゃんと入れた?」


りかこは、にやりと笑った。


バスが来たのは、その五分後だった。

少し古びた路線バス。

「宮崎交通」と書かれた側面は色あせ、扉の開閉音には金属のきしみが混じっていた。

車内には、ビニール張りの座席と、オイルと埃の混じった匂いが残っている。

その匂いが、これから始まる移動時間を静かに告げていた。


「最後尾、取った者勝ち!」


誰もそんな話をしていないのに、小清水くんが唐突に叫ぶ。

相変わらず、この空気の読めなさは国宝級だ。


けれど彼とトオルは、前方のドア横に荷物を置き、席を取る気配はなかった。

自然と、僕としおりはバスの奥――最後列のベンチシートに並んで座ることになった。

背中に伝わるシートの感触が、妙に現実的だった。


ビニールはところどころ艶を失い、前の乗客が貼ったらしいシールの跡が薄く残っている。

遠足の帰り道みたいな空気が、ゆっくりと車内に広がっていった。

誰もが少しだけ気持ちを緩めている。


エンジンが唸り、バスが動き出す。


「2時間、けっこうあるな」


「うん。でも、それも悪くないかな」


しおりはそう言って、小さく背伸びをした。

首筋にかかる髪がふわりと揺れ、昨日の夜のバニラの香りが、不意に蘇る。

それだけで、時間が少し戻ったような気がした。


車体が揺れるたび、少しずつ距離が近づいていく。

誰にも気づかれないように、僕たちは小さな声と視線と指先で、この時間が特別だと確かめ合っていた。

言葉にしなくても、通じるものがあった。


バスは、山と川に挟まれた道を走る。

畑には霜の名残があり、朝の光がそれをゆっくりと溶かしていく。

景色は淡々と流れていくのに、胸の中だけがやけに忙しかった。

まるで映画のセットの裏側を通り抜けているみたいだった。


遠くの農道を、自転車がひとつ横切っていく。


「もしかして、あれが大ヤンの“農道の悲劇”の現場?」


「たぶんね。補助ブレーキ踏まれたの、相当悔しかったやろうな」


「止まれてた、って言ってたしね。男の子って、そういうの引きずるよね」


「うん。未練の生き物やから」


「じゃあ、君は?」


「未練しかないよ」


しおりは答えず、小さく笑った。

そして、僕の手の上に、自分の手をそっと重ねてきた。

その重みが、思っていたよりもはっきり伝わってきた。


それは特別な合図じゃなかった。

けれど、この2週間を分かち合った証のように、確かにそこにあった。


バスは峠を越え、川沿いの道に出る。

揺れるたび、肩が触れ合う。

エンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、僕たちの非日常を、少しずつ削っていく。

それでも、今はまだ終わらないと、どこかで信じていた。


静かなトンネルを抜けるとき、時間が伸びたような錯覚がして、僕たちは何度か短いキスを交わした。

長くはしなかった。

でも、離れるたびに、もう一度触れたくなった。

その繰り返しが、妙に心地よかった。


それは名残であり、始まりでもあった。


「なんか、不思議だね」


「こうして隣にいるのに、もう会えなくなりそうで」


「……たぶん、それは当たってる」


「やっぱり、そうなんだ」


言葉は続かなかった。

代わりに、しおりは僕の肩にもたれた。

体温が伝わってきて、少しだけ安心した。


「大阪に戻ったら、また普通の生活か……」


「しおりにとって、普通って?」


「朝起きて、仕事行って、家で晩ごはん食べて、マンガ読んで寝る生活」


「それ、ちょっと寂しいな」


「なんで?」


「僕がいない生活に戻るってことやから」


しおりは小さく笑い、言葉の代わりに唇で答えた。


何度もキスをした。

情熱的でも劇的でもない、静かで確かなキスだった。

そのたびに、時間が少しずつ形を変えていく気がした。


「今日のこと、たぶん忘れないと思う」


「バスの音も、外の景色も、君の手も。ぜんぶ」


「うん。俺も、ずっと覚えてる」


それで充分だった。


やがて、バスは港に続く大通りに出る。

遠くにフェリーの煙突が見え、僕たちはゆっくりと背筋を伸ばした。

景色が現実に戻っていく。


もうすぐ着く。

港に、船に、別れに。


それでも今は、まだ一緒にいられる。

この2時間は、ただの移動時間じゃなかった。

何度も同じ瞬間を往復する、少し歪んだ、永遠みたいな時間だった。


だから、それでいい。

それだけで、充分だった。

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