第15話 2時間の永遠
朝は、けたたましい目覚まし時計の電子音で始まった。
大部屋の天井に、やけに乾いた光が差し込んでいる。
その白さを見ただけで、「ああ、もう帰るんだ」という実感が、言葉になる前に胸の奥へ沈んでいった。
夜が終わったというより、無理に引き剥がされたみたいな朝だった。
カーテンの隙間から入る光は、昨日までの朝よりも少しだけ遠慮がなくて、こちらの事情などお構いなしに部屋の隅々まで届いていた。
雑魚寝の布団のあいだを縫うように、誰かのいびきが響いている。
寝息と寝返りの気配が混ざり合い、合宿所特有の、少し湿った空気が残っていた。
小清水くんは布団から半分はみ出したまま、うつ伏せで眠っていたし、トオルはもう起きていて、洗面所から戻るところだった。
彼は無言でタオルを肩にかけ、歯ブラシを咥えたまま、こちらに軽く頷いた。
それだけで、「今日が最後だ」ということを、全員がなんとなく理解している気がした。
わざわざ口に出さなくても、空気がもう次の段階に移っている。
僕は、眠った気がしなかった。
残っているのは、昨夜のしおりの笑顔と、唇の感触だけだった。
触れた手の温度や、交わした言葉の余韻が、毛布の中にまで染みついているようで、目を開けた瞬間の空気がひどく静かに感じられた。
時間だけが先に進んでいて、僕の感覚はまだ夜の途中に置き去りにされているみたいだった。
まぶたの裏には、昨日の夜の輪郭が、少し滲んだまま残っていた。
しおりは、もう準備を終えてロビーにいるだろうか。
それとも、まだあおいやりかこと、何でもない話でもしているだろうか。
笑い声が混じるような、たわいのない会話をしている姿を想像すると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
そんなことを考えながら洗面所で顔を洗った。
冷たい水が、体の芯に残っていた非日常を、少しずつ現実に引き戻していく。
鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけぼんやりして見えた。
今日から、もう彼女と同じ宿には泊まらない。
同じ教習所に通うことも、昼休みに並んでカレーを食べることもない。
それらすべてが、今この瞬間、過去になろうとしていた。
その境目がはっきりしないから、胸の奥が落ち着かなかった。
別れは、きっともっと分かりやすいものだと思っていた。
ロビーにはすでに、いくつかのキャリーケースと、いつもより少し早口な挨拶の声が溢れていた。
車輪の音や、ファスナーを閉める音が、いつもより大きく聞こえる。
空気だけが先に動き出していて、人の気持ちはまだ追いついていない。
そんな朝だった。
しおりは、その中で窓辺に立っていた。
ベージュのニットに、くるぶしの見える細身の黒いパンツ。
前髪はピンで留められ、後れ毛が頬に触れている。
夜の名残をわずかに残しながら、もう切り替えたようにも見える表情。
その曖昧さが、やけに胸に残った。
近づくまで、少しだけ時間がかかった。
「おはよ」
「うん、おはよ」
短い挨拶。
そこには少しのぎこちなさがあったけれど、それは悪いものじゃなかった。
「会えてうれしい」と「もうすぐ終わる」という二つの感情が、同じ場所に並んでいた。
言葉が少ないぶん、間に残るものがはっきりしていた。
僕としおりのあいだには、ほんの数歩の距離があった。
でも、その距離は、2週間前よりずっと近かった。
同時に、これ以上縮まらない距離でもあった。
あおいとりかこが、見送りに出てきてくれた。
彼女たちは、僕としおりが“合宿が終わるまでの仲”だとは知らない。
「あーあ、ほんとに帰っちゃうんだ。……ま、予定通りだけどね」
あおいはそう言ってから、しおりの視線が逸れた一瞬を見計らい、僕にだけ声を落とした。
「……ま、いろいろあったね。ほんと。あたし的にも。ね?」
片目だけ細めて、すぐにまた明るく、
「元気でね!」
と大きな声を出した。
「しおりちゃん、忘れ物は……ないか。あんた意外と抜けてるからさ」
「あるわけないじゃん」
「そっか。手荷物には“中田との思い出”もちゃんと入れた?」
りかこは、にやりと笑った。
バスが来たのは、その五分後だった。
少し古びた路線バス。
「宮崎交通」と書かれた側面は色あせ、扉の開閉音には金属のきしみが混じっていた。
車内には、ビニール張りの座席と、オイルと埃の混じった匂いが残っている。
その匂いが、これから始まる移動時間を静かに告げていた。
「最後尾、取った者勝ち!」
誰もそんな話をしていないのに、小清水くんが唐突に叫ぶ。
相変わらず、この空気の読めなさは国宝級だ。
けれど彼とトオルは、前方のドア横に荷物を置き、席を取る気配はなかった。
自然と、僕としおりはバスの奥――最後列のベンチシートに並んで座ることになった。
背中に伝わるシートの感触が、妙に現実的だった。
ビニールはところどころ艶を失い、前の乗客が貼ったらしいシールの跡が薄く残っている。
遠足の帰り道みたいな空気が、ゆっくりと車内に広がっていった。
誰もが少しだけ気持ちを緩めている。
エンジンが唸り、バスが動き出す。
「2時間、けっこうあるな」
「うん。でも、それも悪くないかな」
しおりはそう言って、小さく背伸びをした。
首筋にかかる髪がふわりと揺れ、昨日の夜のバニラの香りが、不意に蘇る。
それだけで、時間が少し戻ったような気がした。
車体が揺れるたび、少しずつ距離が近づいていく。
誰にも気づかれないように、僕たちは小さな声と視線と指先で、この時間が特別だと確かめ合っていた。
言葉にしなくても、通じるものがあった。
バスは、山と川に挟まれた道を走る。
畑には霜の名残があり、朝の光がそれをゆっくりと溶かしていく。
景色は淡々と流れていくのに、胸の中だけがやけに忙しかった。
まるで映画のセットの裏側を通り抜けているみたいだった。
遠くの農道を、自転車がひとつ横切っていく。
「もしかして、あれが大ヤンの“農道の悲劇”の現場?」
「たぶんね。補助ブレーキ踏まれたの、相当悔しかったやろうな」
「止まれてた、って言ってたしね。男の子って、そういうの引きずるよね」
「うん。未練の生き物やから」
「じゃあ、君は?」
「未練しかないよ」
しおりは答えず、小さく笑った。
そして、僕の手の上に、自分の手をそっと重ねてきた。
その重みが、思っていたよりもはっきり伝わってきた。
それは特別な合図じゃなかった。
けれど、この2週間を分かち合った証のように、確かにそこにあった。
バスは峠を越え、川沿いの道に出る。
揺れるたび、肩が触れ合う。
エンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、僕たちの非日常を、少しずつ削っていく。
それでも、今はまだ終わらないと、どこかで信じていた。
静かなトンネルを抜けるとき、時間が伸びたような錯覚がして、僕たちは何度か短いキスを交わした。
長くはしなかった。
でも、離れるたびに、もう一度触れたくなった。
その繰り返しが、妙に心地よかった。
それは名残であり、始まりでもあった。
「なんか、不思議だね」
「こうして隣にいるのに、もう会えなくなりそうで」
「……たぶん、それは当たってる」
「やっぱり、そうなんだ」
言葉は続かなかった。
代わりに、しおりは僕の肩にもたれた。
体温が伝わってきて、少しだけ安心した。
「大阪に戻ったら、また普通の生活か……」
「しおりにとって、普通って?」
「朝起きて、仕事行って、家で晩ごはん食べて、マンガ読んで寝る生活」
「それ、ちょっと寂しいな」
「なんで?」
「僕がいない生活に戻るってことやから」
しおりは小さく笑い、言葉の代わりに唇で答えた。
何度もキスをした。
情熱的でも劇的でもない、静かで確かなキスだった。
そのたびに、時間が少しずつ形を変えていく気がした。
「今日のこと、たぶん忘れないと思う」
「バスの音も、外の景色も、君の手も。ぜんぶ」
「うん。俺も、ずっと覚えてる」
それで充分だった。
やがて、バスは港に続く大通りに出る。
遠くにフェリーの煙突が見え、僕たちはゆっくりと背筋を伸ばした。
景色が現実に戻っていく。
もうすぐ着く。
港に、船に、別れに。
それでも今は、まだ一緒にいられる。
この2時間は、ただの移動時間じゃなかった。
何度も同じ瞬間を往復する、少し歪んだ、永遠みたいな時間だった。
だから、それでいい。
それだけで、充分だった。




