第14話 シュウマイ帝国の終焉
卒業検定を明日に控え、教習所では学科の模擬試験が行われた。
教室の空気には、どこか張りつめたものが混じっていた。
ここまで順調にたどり着いたのは、僕、しおり、トオル、中ヤン、小ヤン。
大ヤンは、卒検前の見極めで脱落していた。
農道に飛び出してきたおじいさんの自転車を避けるため、教官が補助ブレーキを踏んだのだ。
「センセイがブレーキ踏まんでも、俺、止まれたのに!」
大ヤンは声を荒げて憤慨していた。
それでも「センセイ」と呼ぶあたりに、彼なりの敬意がにじんでいて、僕は少しだけ笑ってしまった。
素行は悪くても、ヤンキーという人種は概して単純で、そして情に厚い。
彼らはたいてい、誰かに褒められたくて悪ぶっているだけなのだ。
そして驚くべきことに、あの小清水くんも、この模擬試験の教室にいた。
ボウリング大会では運動神経の無さを遺憾なく発揮していた彼が、車の運転に関しては、どうやら別の才能を見せていたらしい。
現実というのは、凡庸なプロットを、いとも簡単に裏切る。
模擬試験の問題そのものは難しくなかった。
にもかかわらず、試験という装置は「人を間違わせる」ための陰湿な工夫に満ちていて、僕は見事に引っかかり、九十七点。
そのうえ、講師の口から告げられたのは――
「今回の最高得点は、九十八点でした」
たった一点。
けれど、その一点の差が、妙に尾を引いた。
「トップじゃない」という事実が、背中の奥にじんわりと重く、鉄のしこりのように居座った。
それからしばらく、僕は黙り込んでいた。
机の端を意味もなく指で叩きながら、どこに怒りを向ければいいのか分からず、ただ拗ねていた。
そこに、しおりがやってきた。
あの、少し鼻にかかった声で、やや呆れたように言う。
「ねえ、その態度、失礼じゃない?」
「……え?」
「たった一点足りなかっただけでしょ? 合格点は取ったんでしょ?
落ちた人もいるし、私なんてギリギリだったし……。
みんな一所懸命やってるのに、『トップじゃないから』って拗ねるのは、大人気ないよ」
柔らかな響きをまといながら、その言葉は不思議なほど真っ直ぐ届いた。
そこに、笑いも誤魔化しもなかった。
まるで、ガラス窓を内側からピシャリと叩かれたような衝撃だった。
僕は同い年の少女に、正面からたしなめられていた。
そして、その正論に、一言も言い返せなかった。
悔しいというより、恥ずかしかった。
自分の薄っぺらなプライドが、紙風船みたいにしぼんでいくのを感じながら、僕はまたしおりが好きになっていた。
本当に、敵わない。
翌日は、卒業検定の日だった。
じいさんが飛び出してくるようなアクシデントもなく、僕は静かに試験を終え、合格した。
しおりも、トオルも、小清水くんも、中ヤンも合格。
小ヤンだけが、一時停止の白線を数センチはみ出して再試験。
神は細部に宿るというが、試験官もまた、細部に宿るらしい。
ほぼ全員が合格し、今夜の宿泊を経て、明日はフェリーで帰ることになる。
中ヤンは「一人だけ先に帰るのはイヤや」と言って、自費で延泊を決めた。
なんだかんだ言いながら、この合宿を、彼も楽しんでいたのだろう。
だが、僕の心は晴れなかった。
――本当に、これで良かったのか。
しおりとは、これで終わりだ。
いや、「合宿が終わったら関係も終わる」と言ったのは、自分だった。
宙ぶらりんにされるような関係は、やはり耐えられない。
もう、あんな思いはしたくなかった。
その言葉に、どれほどの勇気と、どれほどの臆病が詰まっていたのか。
今なら、少しだけ分かる。
正直に言えば、ずるさも混じっていた。
期限を切れば、しおりに選ばせる圧力になる。
そうすれば、僕を選んでくれるかもしれない――
そんな卑しい計算が、なかったとは言えない。
でも、しおりはあっさり「分かった」と言った。
まるで、宿題を終えた後のような顔で。
非日常は、人を浮かれさせ、すべてを美化する。
そのことに、僕はようやく気づき始めていた。
「最後の晩餐やな」
食堂へ向かう道すがら、僕はしおりに笑いかけた。
中に入ると、すでにあおいとりかこがいた。
「お! イチヌケの翔んだカップル来たな!」
りかこがからかう。
(うん、カップルやで。あと三十六時間ほどな)
心の中で、自嘲気味に毒づいた。
メニューは、あの忌まわしきシュウマイ定食。
ご飯、味噌汁、シュウマイ五個。それだけ。
「最後までこれ!?」
僕としおりは同時に声を上げ、同時に吹き出した。
不思議なことに、その笑いが、胸の奥の鬱屈を少しだけ吹き飛ばしてくれた。
ありがとう、味のしないシュウマイ。
君は最後まで、実に偉大だった。
夜の大部屋飲み会は、今夜はなかった。
明日の出発に向けて、荷造りが必要だからだ。
女子部屋をのぞくと、しおりが一人で荷造りしていた。
「なあ、本当に出ていくのか?」
僕は、芝居がかった口調で言った。
「ええ。あなたとの暮らしは今日まで。私は自由になるの」
しおりもすぐに乗ってきた。
あの甘い声で。
二人で「ぷ」と吹き出したあと、彼女はふわりと笑い、僕に近づいた。
バニラの香りが、風に混じって鼻先をかすめた。
「本当に大好きだったよ」
「……過去形なん?」
「ごめん。言い間違い。大好きだよ」
その一言で、もう感情を抑えるのをやめた。
キスをした。何度も。
まるで、それが最初で最後のキスであるかのように。
「そろそろお休み。明日は長旅だから、もう寝ないと」
そう言いながら、キスはしばらく終わらなかった。
合宿という劇場は、いままさに幕を下ろそうとしていた。
照明が消え、観客が帰り、舞台にはただ、静けさと名残の埃が残される。
その夜、僕らはその埃の上で、静かにキスを繰り返した。




