第八話 老猿視点・一時の温もりをくれた君への想い
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老いた魔猿の意識は、赤紫色の繭の中で、静かに過去の断片を反芻していた。
群れを追われ、牙を失い、ただ朽ち果てるのを待つだけだった日々。
あの森を駆け抜けながら、俺は考えていた。
帰る場所も、守るべき同族も、裏切った仲間の元へ戻る理由も、今の俺には何一つとして残されていない。
だが、絶望の淵にいた私を救ったのは、あの奇妙で美しい「異形の人間」だった。
(……あの子との日々は、悪くなかった)
鈴を転がすような声で語りかけ、不器用ながらも必死に滋養のある食事を与えてくれた。
老い先短い、誰からも見捨てられた自分に、あの子は「生」という光をもう一度だけ見せてくれたのだ。
大木の上に登り、広大な廃墟を見下ろしながら、俺は残された寿命のすべてを懸けてあの子に報いたいと願った。
その時だ。視界の端に、あの忌まわしい幽尾猫の姿が映った。
その後ろには、この世の物とは思えぬ禍々《まがまが》しい気配を纏った変異 幽尾猫が従っている。
(嫌な予感がする……!)
俺は本能に突き動かされるまま、木々を飛び移り、その後を追った。
案の定、執念深いあの魔物の狙いは、俺を助けたあの少年へと移っていた。
対峙する両者。
だが、少年は私の危惧を余所に、ひらりと攻撃を躱し、鮮やかに返り討ちにしてみせた。
(……杞憂だったか)
安堵し、身を引こうとしたその瞬間。
変異猫が狂ったように魔晶石を喰らい、その姿をさらに凶悪な化物へと変貌させた。
そして、また、少年に襲いかかる。
少年は、ギリギリでは、あったが攻撃を紙一重で躱す。
そのままの勢いで、反対側に居た同族をあろう事か噛み殺してしまった。
これは、完全に理性を失って敵味方の区別がついていない…。
そして、変異猫はまた標的を少年に定めた。
その瞬間、空気が震え、本能が「死」を叫ぶ。
気づいた時には、体は勝手に動いていた。
――鈍い衝撃。肉が裂け、骨が砕ける音。
間に合った。だが、右腕を根元から失った瞬間、悟った。
これは致命傷だ。
(せっかく助けてもらった命なのに、こんな形で終わらせることになるとは……)
薄れゆく意識の中で、俺は自嘲気味に思った。
だが、不思議と後悔はなかった。
死を待つだけだった余生を、あの優しい少年のために使い切れた。そう思えば、この最期も決して悪くはない。
朦朧とする視界の中で、少年が叫んでいた。
俺のために怒り、泣きそうな顔をしている。
次の瞬間、周囲の魔力が渦を巻き、少年は神々しくも恐ろしい異形へと姿を変えた。その一撃は、理を外れた変異猫を一瞬で屠り去る。
(……ああ。やっぱり、あなたは強くて、美しい)
最初に出会った時に感じた畏怖は、今はもう、ただ「あの子が無事で良かった」という深い安心感へと変わっていた。
やがて、俺の感覚は闇に溶け始めた。
けれど、その闇は決して冷たくはなかった。
少年の温かい涙のような、あるいは慈愛に満ちた魔術の光のような――得体の知れない柔らかな光に包まれながら、俺は深い、深い眠りへと落ちていった。




