第九話 「私の名は『月‐ユエ‐』、塩は命」【前編】
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差し込む朝の光に、私はハッと目を覚ましました。
視界の端には、昨夜と変わらず静かに脈動を続ける赤紫色の繭。
規則正しいそのリズムは、再構築が順調に進んでいることを無言で伝えてくれている。
「……おはようございます」
まだ少し重い体に鞭を打ち、私は身だしなみを整えるために近くの小川へ向かうことにした。
その前に、周囲の警戒に当たらせていたホムンクルスを呼び戻す。
音もなく影から姿を現した獣人のしもべに、私は昨夜の状況を問いかけた。
「問題はありませんでしたか?」
ホムンクルスの報告によれば、昨夜はこの場所に近づく生物は一匹もいなかったとのこと。
その言葉を聞いて、私は安堵と共に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
昨夜はあまりの疲労と混乱で、「不審な影を排除しろ」という安直な命令しか下していませんでした。
もし、迷い込んだだけの無害な小動物や、万が一にも生存していた人族が通りかかっていたら……。
(……ゾッとしますね。私の不用意な一言で、無関係な命を奪わせるところでした)
自身の甘さを反省し、私はホムンクルスに向き直って新たな制約を付け加える。
「いいですか、追加の命令です。こちらに明確な敵意を持って襲いかかってくるもの以外、むやみに攻撃してはいけません。警告し、追い払うことを優先しなさい。……分かりましたね?」
「御意、主よ」
無機質な声で承諾したしもべは、再び繭の周囲へと散っていった。
忠実な守護者に後を任せ、私はそのまま小川へと足を向けた。
せせらぎに辿り着き、冷たい水で顔を洗う。丸縁メガネのない視界に映る水面には、白銀の髪をなびかせ、金色の角を宿した「私」が映っていました。
昨夜の激闘と、禁忌に手を染めたことへの自覚。
(私は、彼を救うために自分の一部を切り捨て、魔物の死骸から新たな命を造り出した……)
その事実に少しだけ指先が震えましたが、私は強く水を掬い、その迷いを振り払うように顔を拭いました。今はただ、あの繭の中で新しい命を紡いでいる友を信じて待つしかない。
私は乱れた髪を指先で整え、凛とした表情で、再び繭の待つ拠点へと戻る。
改めて脈動する繭の前に立った。
「さて……念のために、内部の状態を精密検査しておきましょうか」
私は「アイテムボックス」の深淵に意識を集中させ、エルフ時代の遺産を呼び出した。
取り出したのは、華奢なフレームに複雑な術式がエッチングされた、一見するとただの眼鏡――だがその実態は、帝国最高峰の技術の結晶である特殊魔道具アナライズ・メガネだ。
これは私が研究者時代、世界に先駆けて開発した最先端技術の塊。
現代日本でいうスーパーコンピューター並みの演算能力に加え、古今東西の医学と魔法科学の膨大なデータベースを内蔵している。
おまけに当時の私のこだわりで、物理・魔法双方の衝撃から守るため、どんな攻撃を受けても傷一つ付かない超高耐久設計だ。
「よし、どれどれ……起動」
カチリとテンプルを叩き、鼻先に掛ける。
瞬間、レンズ越しに膨大な情報の奔流が投影された。
網膜に直接焼き付けられるように、繭の魔力密度、細胞の再構築率、精神融合の安定度などがグラフと数値となって舞い踊る。
「なるほど……。心拍、魔力循環共に極めて良好。基底状態は完全に安定していますね」
解析結果によれば、再構築は臨界点を越え、定着フェーズに移行している。
これなら外部からの振動にも耐えられるはずだ。私は満足げに頷くと、眼鏡を外して前髪を上げるように頭へと掛けた。
かつての丸縁メガネとは違う、知的な感触が肌に伝わる。
「ホムンクルス、こちらへ」
影から這い出した守護者に合流を命じ、私は繭の運搬に取り掛かった。そのまま担ぐには少々大きく、何より繊細な「命の卵」だ。私は指先を向け、重力を制御する術式を編み上げる。
「『グラビティ・コントロール』。……少し、軽くなってもらいますよ」
術式が繭を包み込むと、それまで地面を沈ませていた質量が消失し、繭は羽毛のようにふわりと浮き上がった。
「よし、拠点へ帰りましょう。ここよりも、あそこの方が設備も整えやすいですから」
浮遊する繭を先導し、背後を鋼の忠誠を誓うホムンクルスに守らせながら、私は再び歩き出した。
壊滅した帝国の廃墟。
そこに、かつての技術と新しい命が混ざり合い、少しずつ「私」だけの居場所が形作られていくのを感じていた。
拠点の住居に到着すると、私は、ホムンクルスに指示を出し、繭を安置するための場所を整えさせた。
「……よし。ここでいいでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
重力魔法を解き、そっと下ろした繭は、朝の光を吸い込んで静かに、力強く拍動しています。
アナライズ・メガネの予測では、羽化は今夜。
私は埃を払った年代物の椅子を引き寄せ、繭の傍らに腰を下ろした。
ふと、傍らで微動だにせず控えるホムンクルスに目をやる。
昨日の激闘、および魔猿を傷つけた変異猫の成れの果て。
一時は激しい憤りを感じましたが、今の彼にその記憶はなく、ただ私を守るために再構築された無垢な命。
「ホムンクルス、と呼び続けるのも、少し味気がありませんね」
そう呟いた瞬間、私は自分自身の「名」について、今まで一度も思考を巡らせていなかったことに気づき、愕然とした。
エルフとしての記憶にある名は、ルナ・キングスレイ。
そして、地球でオタクとして生きていた頃の名は、神嶌 悠月。
奇妙な一致でした。
どちらの人生にも、夜空に輝く「月」が宿っていたのです。
私は少し考え、地球の母国の隣国での読みを借りることにした。
「今日から、私の名は月。……ふふ、悪くない響きです」
鈴を転がすような声で新しい名を口に馴染ませてから、私は彼に向き直った。
「そして、貴方にも名前を。……そうですね、セドリック。守護と忠誠を意味するその名が、今の貴方には相応しい」
「セドリック……。セドリック、ですか」
ホムンクルスは、その音を魂の魔核に刻み込むように低く繰り返しました。
本来、私が組み上げた術式において、彼には感情など存在しないはずです。
命令を遂行するための、精巧な自律型ロボットに過ぎない。
(……気のせいでしょうか。ほんのわずか、喜んでいるような……?)
無機質なはずの彼の気配から、春の陽だまりのような微かな温もりが伝わってきた気がして、私は一瞬だけ眉をひそめた。
だが、今の私は魔力も体力も消耗していた。感覚の混濁だろうと自分を納得させ、深くは追求しなかった。
「セドリック、羽化には、時間がかかります。今は、周辺の警戒を。私は少し、ここで目を閉じます」
「御意、ユエ様。……安らかな休息を」
主の名を呼ぶ彼の声に、不思議な安らぎを覚えながら、私は椅子の背もたれに身を預けました。




