第七話 老猿と別れ 牙を剥く変異種【後編】
ご来訪ありがとうございます。ゆっくり楽しんでいってください。
パキパキと骨が軋む音を立てて巨体がさらに膨張し、体表には雷光を思わせる禍々《まがまが》しい紋様が浮かび上がる。
さらに、漆黒の鎧のような硬質の鱗が全身を覆い尽くし、溢れ出す魔力の奔流が周囲の石畳を粉々に砕いていく。
「……完全に、正気を失いましたね」
私の鈴を転がすような声さえ届かないほど、魔獣は純粋な破壊の化身へと成り果てていた。
次の瞬間、視界が爆ぜた。
強化された脚力による踏み込みは、もはや音を置き去りにしている。
「――っ!」
私は反射的に真横へ跳躍し、その突進を紙一重で回避した。
空気を切り裂く衝撃波が、私の白銀の髪を激しく乱す。
だが、悲劇はその直後に起こった。
狂乱の突進の先にいたのは、私を包囲していたはずの、もう一匹の小柄な幽尾猫だった。
避ける間もなかった。
巨大化した変異 幽尾猫《ミュータントファントム_テイル》は、かつての同胞を「障害物」としか認識していないのか、あるいは単なる「餌」と見なしたのか――。
「グガアアアアッ!!」
凄まじい顎の力で、仲間の首筋を食いちぎったのだ。
絶命の悲鳴すら上げる暇もなく、小柄な魔獣は物言わぬ肉塊へと変わり、その生命力(魔力)さえも変異猫の血肉へと取り込まれていく。
「……敵味方の区別すらつかない、ですか」
私は静かに、着地して前に向き直る。
目の前で繰り広げられた凄惨な共食い。以前の「俺」なら吐き気を催していただろう。
だが、今の「私」の中に流れるキメラの血は、それをただの「効率的なエネルギー摂取」として冷徹に分析していた。
血に濡れた牙を剥き出しにし、再びこちらを睨みつける狂戦士。
もはや実験台としての価値すら超え、ただの害獣へと成り下がったその姿に、私は静かに右手をかざした。
「……哀れですね。せめて、跡形もなく消して差し上げましょう」
金色の猫瞳に、冷たい殺意が宿る。
溢れ出す魔力が、私の金色の角を中心に渦巻き始めた。
一瞬、視界から巨躯が消えた。
再変異を遂げた変異猫の速度は、もはや私の動体視力すら置き去りにしようとしていた。
「――ッ!」
金色の角に収束させた魔力を解き放とうとした、その刹那。
視界を横切った影。
鈍い衝撃音と共に、生々しい肉の裂ける音が廃墟に響き渡る。
「……っ、嘘、だろ……」
鈴を転がすような声が、初めて絶望に震えた。
私の目の前に立ちはだかっていたのは、森へ帰ったはずの、あの魔猿だった。
ミシミシと、骨が砕ける不快な音が鼓膜を打つ。
変異猫の巨大な牙は、私を庇うように割り込んだ魔猿の肩に深く食い込み、抗う間もなくその右腕を付け根から食いちぎっていた。
鮮血が白銀の髪に飛び散り、魔猿の体は力なく地面へと叩きつけられる。
致命傷。
エルフの知識が、非情な診断を下す。
脳が理解するよりも早く、私の指先が、怒りに任せて跳ね上がった。
「――貴様アアアアッ!!」
金色の猫瞳が、燃え上がるような殺意を宿す。
掌から放たれたのは、先ほどまでの「検証」などという悠長なものではない。
私の魔力貯蔵庫を強引に削り取った、最大出力の雷魔法。
ドォォォォォォンッ!!
青白い閃光が廃墟の闇を白く塗りつぶし、落雷にも等しい衝撃波が変異猫を直撃した。
鎧のような鱗が焼け焦げ、肉の焼ける異臭が立ち込める。
並の魔物なら灰すら残らぬ一撃。だが――。
「グ、ルル……ッ! アアアアアッ!!」
土煙の向こう側で、魔獣はまだ立っていた。
全身から煙を上げ、血を流しながらも、魔晶石の異常なエネルギーがその肉体を無理やり繋ぎ止めている。
狂気ゆえの耐久力か、あるいは魔晶石を取り込んだことによる属性耐性の獲得か。
(……見誤りました。この個体、もはやこの世界の理の外にいる)
私は、膝をついた魔猿の傍らへ駆け寄った。
欠損した肩から溢れる血。弱々しく私を見上げる、濁った瞳。
オタクとしての知識も、エルフとしての魔術も、この瞬間の「私」を救ってはくれない。
背後の白蛇の視界が、さらなる殺意を漲らせてこちらを睨む変異猫を捉える。
私の手は、怒りと、そして自分自身の甘さへの後悔で、激しく震えていた。
魔猿の流す鮮血が、私の白い指先を濡らしていた。
ドクドクと溢れ出す生命の鼓動が弱まっていくのを感じる。
絶望と後悔が胸を焼くが、目の前の怪物は、更なる殺意を漲らせてこちらを睨みつけていた。
(……このままでは、二人とも終わる)
私は、震える両手を地面についた。
かつて目覚めた時、この体は周囲の致死的な魔力を無意識に吸収し、己の糧として安定させた。
ならば、そのプロセスを意識的に、かつ最大出力で行えばどうなるか。
「……私のすべてを、喰らいなさい」
鈴を転がすような声が、決意と共に鋭さを増す。
私は自身の魔力回路を全開にし、周囲にそびえ立つ巨大な魔晶石の群れから、奔流のようなエネルギーを強引に引き抜いた。
赤紫の輝きが私の体に吸い込まれ、視界が白熱する。
一か八かの賭け。
理性を失えば、私もあの獣と同じ「化け物」に成り下がるだろう。だが、今の私には、守りたい命があった。
「ああああああッ!!」
内側から弾けるような衝撃と共に、私の肉体が劇的な変貌を遂げていく。
白銀の髪は全身を覆う銀の体毛へと変わり、その下には金色の紋様が刻まれた、鎧のごとき硬質の鱗が萌芽する。
165センチの華奢な体格は、しなやかで強靭な「白い豹」のような四足獣の姿へと再構築された。
四肢の先には、金色の装具を思わせる鋭い爪が備わり、背中からは聖なる輝きを放つ銀色の羽が大きく広がる。
そして、尻尾の白蛇は、威圧感を放つ「コブラ」のような鎌首へと変異種し、その双眸に鋭い理知の光を宿していた。
(……感覚が、研ぎ澄まされていく。私は、私だ。負けてなどいない)
嵐のような魔力の奔流を御し、私は理性を保ったまま「完全変異」を遂げた。
変異猫が、焦燥に駆られたように咆哮し、弾丸となって私に肉薄する。
巨大な牙が私の喉元を狙って突き立てられた。
ガギィィィンッ!
硬質な金属音が響く。
魔獣の牙は、私の銀鱗に傷一つ付けることすらできなかった。
圧倒的な密度の魔力を纏った私の肉体は、すでにこの世界の理を超越した硬度を得ていたのだ。
「――終わりです」
私は、神速の一閃を放った。
金色の装具を纏った爪が、空気を、空間を、そして魔獣の巨体をなぞる。
抵抗など無意味だった。
再生を許さぬほどの魔力を込めた一撃は、変異猫《ファントム_テイル》の鎧のような鱗を紙細工のように切り裂き、その生命の核を粉砕した。
ズゥゥゥン……。
地響きと共に、巨大な肉塊が地に伏す。
もはやピクリとも動かない。狂気と魔晶石に侵された哀れな怪物は、今度こそ完全に、その息の根を止められた。
私は荒い息をつきながら、元の「私」の姿へとゆっくりと戻っていく。
銀の鱗が消え、白銀の髪が戻る。
だが、勝利の余韻に浸る暇などなかった。
「……っ、しっかりしてください!」
私はすぐさま、血の海に沈む魔猿の元へと駆け寄った。
激しく流れ落ちる鮮血が、私の服を、腕を、そして白銀の髪を赤く染め上げていく。
私は欠損した肩を必死に押さえ、魔猿の残された左手を強く握りしめた。
「死なせない……。死なせてなるものか……!」
鈴を転がすような声が、子供のように震える。
だが、私の手に重なった彼の掌は、驚くほど静かだった。
魔猿は、濁りきった瞳に最期の理性を灯し、私をじっと見つめていた。
その眼差しは、老い先短い命を自分を救ってくれた恩人のために捧げられたことを誇っているようだった。
彼は震える手で、私の手をそっと離すと、そのまま私の体を自分の胸へと引き寄せた。
トントン、と。
なだめるような優しい手つきで私の背中を撫でる。
肌から伝わってくる鼓動は、一拍ごとに弱まり、今にも止まってしまいそうだった。
「嫌だ……。また独りになるなんて、そんなの……!」
オタクとしての自分が叫ぶ。エルフとしての「彼女」が絶望する。
脳内の記憶の図書館が、猛烈な勢いでページをめくり始めた。
すると、意識の奥底で固く閉ざされていた鉄錆びた扉が跳ね上がった。
(……そうだ。なぜ、忘れていた!?)
私は、エルフだった頃の「彼女」の真の姿を思い出した。
彼女は帝国において、禁忌とされた「キメラ型魔法生物」開発の第一人者だったのだ。
「……やり方は、知っています」
私は迷わず、自身の右腕を鋭い爪で切り裂いた。
噴き出す鮮血を筆にし、魔猿を中心とした地面に、自分をこの姿に変えたあの術式を描き殴る。
そして、私は決断した。
この魔物を救うために――私は、自身の片腕を迷わず切り落とした。
凄まじい激痛が走る。
だが、この数週間の生活で、自分の再生能力が想像を絶する速度であることは理解していた。
研究者時代の知識がささやく。
この「キメラ」の体なら、部位欠損の再生すら可能であるはずだと。
「これを『素体』にします。……貴方を、私と同じキメラに変えれば、死の淵から引き戻せる」
理論上の推測に過ぎない。だが、今にも消えそうなこの命を見捨てることなど、今の私には到底できなかった。
切り落とした自身の腕を、魔法陣の中心へと捧げる。
私の細胞、私の魔力、そして私の生命力を、彼の壊れた肉体へと繋ぎ合わせるための「核」とする。
「私の体の一部を、命を、好きなだけ持っていきなさい。その代わり――勝手に死ぬことだけは許しません!」
血の魔法陣が、赤紫色の魔晶石の光を受けてどす黒く輝き、廃墟全体を揺るがすような魔力の渦が巻き起こる。
私は、唯一無二の友を繋ぎ止めるため、神をも恐れぬ禁忌の再構築を開始した。
術式が、重低音のような唸りを上げて発動した。
魔法陣から溢れ出した赤紫色の光が魔猿を包み込み、それはやがて脈動する不気味な肉の膜――「繭」のような状態へと変化していった。
「……再構築が始まりましたね。こうなれば、完全に形を成すまで動かすことはできません」
私は安堵と共に、どっと押し寄せた疲労感に膝をついた。
視線を落とせば、先ほど自ら切り落としたはずの片腕は、驚異的な速度で細胞が編み上げられ、すでに白く滑らかな肌を取り戻している。
指を動かしても違和感はない。
理論通りとはいえ、このキメラの身体の異常な再生能力には、自分自身でも薄ら寒いものを感じた。
だが、問題は山積みだ。
術式に膨大な魔力を注ぎ込み、さらに自身の肉体の一部を捧げた今の私は、体力も魔力も底をつきかけている。
もし今、別の変異種に襲われれば、この繭を守り抜ける保証はない。
「……背に腹は代えられませんね。気が進みませんが、利用させてもらいましょう」
残りの魔力は、少ないが…周辺にある魔晶石から魔力を取り出し利用することにした。
私はふらつく足取りで、先ほど仕留めた変異猫の死骸へと向かった。
これから行うのは、人工的な生命の創造であるキメラ製作とは異なる、冷徹な造命術。
この魔獣の肉体と周囲の魔晶石を生命の核とした「ホムンクルス」の生成だ。
私は手近な魔晶石の欠片を拾い上げると、エルフの指先で細かな術式を刻み込み、それを魔獣の胸元、まだ温かい心臓のあった場所へと力任せにねじ込んだ。
「目覚めなさい。新たに肉体を貴方に授けます……、そして、私の盾となるのです」
地面に素早く魔法陣を描き、疑似生命の魔核を起動させる。
術式が発動した瞬間、魔獣の肉体はドロドロとした泥のように溶け始め、魔核を中心に再構成されていった。
骨が砕け、筋繊維が編み直される。
やがて形を成したのは、筋骨隆々とした二足歩行の獣人。
その胸の中央には、心臓の代わりに赤紫色に明滅する魔核が埋め込まれている。
「我が主……御命令を」
その声は、かつての狂乱に満ちた咆哮ではなく、無機質で忠実な響きを湛えていた。
このホムンクルスに生前の記憶はない。
私が地球にいた頃の知識を応用し、ただ私の命令のみを絶対の法として動くよう、疑似生命の魔核に術式を組み込んだのだ。
決して裏切ることのない、最強の守護者。
「周辺を警戒し、不審な影があれば排除しなさい。……ただし、この繭には決して触れないように」
「御意」
短い答えを残し、幽尾猫獣人ホムンクルスのしもべは音もなく廃墟の影へと消えていった。
強力な変異種を素材としただけあって、その気配は頼もしい。
私はようやく重い腰を下ろし、脈動を続ける友の繭に背を預けた。
白銀の髪に付着した返り血が、夜風にさらされて冷えていく。
金色の猫目をゆっくりと閉じ、私は深い眠りへと落ちていった。
静まり返った廃墟で、赤紫色の繭だけが、新しい命の鼓動を静かに刻み続けていた。




