第六話 老猿と別れ 牙を剥く変異種【前編】
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老猿の看病を始めてから、一週間が過ぎた。
彼の肉体は、驚異的な生命力で快方に向かい、今では自らの足でしっかりと大地を踏みしめるまでに回復していた。
「……よかった。これなら、もう安心ですね」
安堵の吐息を漏らしつつも、私の胸の奥には、澱のような寂しさが沈んでいた。
この一週間、言葉は通じずとも、私たちは確かにこの廃墟で命を分け合ってきた。
だが、彼は自由だ。
傷が癒えたのなら、かつての縄張りや、待っているかもしれない仲間の元へ帰るのが自然だろう。
(また、独りになる……。いえ、欲張ってはいけませんね。彼には彼の人生があるのですから)
自分にそう言い聞かせ、私は彼が去るのを静かに待った。
魔猿は、出口へ向かう途中で足を止め、白銀の髪をなびかせる私の目をじっと見つめた。
金色の猫目と、年老いた知恵者の瞳が交差する。
彼はゆっくりと私の前まで歩み寄ると、両手の拳をスッと地面につき、深く、恭しく頭を下げた。
それは、言葉を超えた最大級の謝辞だった。
「……お元気で」
彼は一度だけ短く鳴き、風のように森の奥へと走り去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、私は不意に訪れた静寂を噛みしめる。
広大な廃墟に、また私一人が取り残されたような、奇妙な喪失感。
「……さて、いつまでも浸ってはいられません。今後の生活基盤をさらに固めるとしましょう」
気を引き締め、私は拠点周辺の散策に出た。
数百年前の石畳をブーツの踵が叩く。
しかし、その散策は突如として遮られた。
――グルルル……ッ!!
背後の白蛇の視界が、瓦礫の影から飛び出してきた「敵意」を捉える。
そこにいたのは、数日前に追い払ったあの幽尾猫。
そしてその後ろから、さらに二回りは巨大な、同種の個体が姿を現した。
「……意趣返し、ですか。執念深いですね」
後方に控える大型の個体は、通常の魔物とは明らかに異なっていた。
体表のあちこちから赤紫色の小さな魔晶石が突き出し、その瞳は狂気的な光を宿している。
この地の高濃度魔力に適応し、変異・強化を遂げた変異種なのだろう。
獲物を横取りされた屈辱か、あるいは私の持つ膨大な魔力への渇望か。
幽尾猫たちは、喉の奥で不気味な震動音を響かせ、私を完全に包囲しようと散らばる。
「……いいでしょう。ちょうど、この体の性能を試してみたいと思っていたところです」
私は白銀の髪をかき上げ、金色の角に魔力を集束させた。
猫のような金色の瞳が鋭く細まり、獲物を狙う狩人のそれへと変わる。
逃げるつもりはない。
私は静かに腰を落とし、迎撃の構えを取った。
――ガルルッ!
先陣を切ったのは、小柄な方の幽尾猫だった。
数日前の屈辱を晴らすかのような、躊躇のない跳躍。
鋭い爪が、私の白銀の髪をかすめて空を切る。
「……遅いですね」
私は最小限の動きでその攻撃を紙一重で躱した。オタクとしての知識にあった『クロスカウンター』のイメージを、キメラの身体能力で具現化する。
無防備に晒された魔物の脇腹めがけて、回し蹴りを叩き込んだ。
「――ッ!?」
魔物は悲鳴にも似た声を上げ、瓦礫の山へと吹き飛んでいく。私は追撃の手を緩めず、空中で術式を編み上げた。
「『アイスニードル』」
大気中の水分が一瞬で凍りつき、数本の鋭利な氷の槍が、吹き飛んだ魔物を追うように放たれた。
だが、魔物もさるもの。
瓦礫に激突する直前、驚異的な反射神経で体勢を立て直し、紙一重で氷の槍を回避した。
砕け散った氷片が、夕陽を浴びてきらきらと輝く。
(……ほう、やりますね。ならば――)
感嘆したのも束の間、背後の死角から、空気が爆ぜるような轟音が迫った。
変異 幽尾猫だ。
大型の体躯に見合わぬ俊敏な動きで、小柄な個体の攻撃を囮にし、私の意識が逸れた瞬間を狙った、完璧な奇襲。
この体勢、このタイミング。肉体的な回避は、理論上不可能――。
「――甘いですよ」
私の思考と連動し、背後の白蛇の尻尾が、鎌首をもたげた。
蛇の頭部が大きく口を開け、その眼前で赤紫色の魔法陣が瞬時に展開される。
「『アイスニードル』!!」
蛇の口から放たれた氷の槍が、背後から迫る変異猫の眉間を貫かんと突進した。
「ガルッ!?」
予想だにしなかった死角からの魔法攻撃に、変異猫の瞳が驚愕に染まる。
狂気に満ちた突進が、一瞬だけ鈍った。
それでも、変異種の身体能力は凄まじい。空中で強引に体を捻り、氷の槍は辛うじてその巨体を逸れ、廃墟の石柱へと深々と突き刺さった。
幽尾猫たちは一旦距離を取り、私を包囲するように低く唸りながら、様子を伺っている。
その瞳には、先ほどまでの侮りは消え失せ、底知れぬ化け物を見るような警戒の色が宿っていた。
(……やはり、理論上は可能でしたか)
私は、自身の背後で静かに揺れる白蛇の尻尾へ視線をやった。
全方位の視界、そして私の意思による魔法の発動。
この「キメラ」の体は、私が想像していた以上に、完璧な『戦闘兵器』として完成されていた。
(勝算は、十分にありますね……)
金色の猫目が、冷徹な光を帯びる。
一瞬で屠ることは容易だ。だが、それではつまらない。
私は、自身のこの「異形」の性能を、もっと深く知りたい。
「……もう少し、試したい術式があるのです。貴方たちには、私の検証のための『実験台』になってもらいましょうか」
私は、挑発するように白銀の髪を指先で弄んだ。
鈴を転がすような清らかな声が、廃墟に不気味な余韻を残す。
検証の時間は、まだ始まったばかりだ。
分が悪いと悟った変異猫は、辺りを見回し魔晶石に視線を向けた。
「ガ、ル……ゥ、アアアアッ!」
地を這うような咆哮と共に、魔獣は狂ったように周囲の魔晶石へと食らいついた。
硬質な結晶が砕ける不快な音が廃墟に響き渡る。
(……自ら汚染源を摂取して、強制的に再変異を? なんて無茶なことを)
エルフの知識が、その行為の危うさを瞬時に警告する。
魔晶石は高純度のエネルギー体だ。それを直接体内に取り込むなど、本来なら内側から焼き切れて自滅するはずの暴挙。
だが、その変異猫は死ぬ代わりに、さらなる異形へとその姿を塗り替えていった。




