第四話 滅びの帝国の孤独な老猿【後編】
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翌朝、窓の外に広がる魔晶石の群れが、朝陽を浴びて淡い紫色の光を放ち始めた。
私は、拠点と決めた石造りの建物の隅で眠る、老いた魔猿の様子をうかがう。
「……昨晩よりは、顔色も落ち着いてきましたね。ですが、まだ油断は禁物です」
独り言をこぼし、私は立ち上がった。
失われた体力を補うには、魔法や薬だけでなく、確かな栄養が必要だ。
私はブーツの紐を締め直し、食料を求めて近くの森へと足を踏み入れた。
数百年という歳月を経て、森はかつての帝国の庭園を飲み込み、独自の生態系を築き上げていた。
歩みを進める私の金色の猫目が、茂みの奥に奇妙な植物を捉える。
「これは……ヤシの木、でしょうか。いいえ、確か彼女の記憶には……」
ボサボサだったはずの白銀の髪を指で払い、私はその樹木を見上げる。
エルフとしての知識が、瞬時にその正体を弾き出した。
「『ミルキーツリー』。……なんとも、そのまんまな名前ですね」
見た目は南国のヤシの木に近いが、その性質は極めて特異だ。
未熟な白い実の中身は、牛の乳に近い栄養豊富な飲料。
熟してオレンジ色になれば生クリーム状に変化し、さらに放置すれば自然と固まってチーズのようになるという。
「……乳製品が実る木、ですか。地球の常識では考えられませんが、まあ、魔法でキメラが作られるような世界ですし。納得するしかありませんね」
オタクとしての柔軟な(あるいは諦めの早い)思考で自分を納得させると、私はいくつか実を収穫し、漆黒の虚空――「アイテムボックス」へと放り込んだ。
さらに森の奥へと進むと、魔晶石の欠片が川底で輝く、清らかなせせらぎに出た。
透き通った水の中を覗き込めば、丸縁メガネを失った今の視力は、水底の砂利まで克明に映し出す。
そこには銀色に光る魚の群れと、それらを狙う「クリスタルロブスター」と呼ばれる魔物の姿があった。
「おあつらえ向きの食材ですね。……確か、殻ごと煮込めば絶品だとか」
エルフの記憶にある美食の知識が、私の空腹を刺激する。
私は指先を軽く振るい、最低限の魔力で電撃を放った。パチリ、と水面が爆ぜる。
気絶して浮いてきたロブスターと数匹の魚を、濡れることもなく難なく捕獲し、鮮度を保ったままアイテムボックスへと収納した。
「よし、これで材料は揃いました。あの子の口に合うといいのですが」
背後の白蛇の視界で、森の捕食者が近づいていないかを確認しながら、私は軽やかな足取りで拠点へと引き返した。
異形となったこの体も、この不思議な食料たちも。
少しずつ、私はこの新しい「日常」に馴染み始めている自分に気づいていた。
拠点へと戻った私は、さっそく採取した食材と、建物の周囲に自生していた山菜を広げた。
「さて……知識はあっても、実際に腕を振るうのは初めてですね」
白銀の髪を邪魔にならないよう耳にかけ、私は手際よく調理を始めた。
エルフの記憶にある煮込み料理の術式を応用し、クリスタルロブスターと魚を捌いていく。
調味料と呼べるものは何一つない。
塩の一粒すら惜しい状況だったが、代わりに数種類の山菜が持つ独特の風味と、ミルキーツリーの実から溢れる濃厚な乳成分が、素材の臭みを消してくれた。
ぐつぐつと煮え立つ鍋を覗き込み、木片ですくって味見をする。
「……うーん。お世辞にも『絶品』とは言えませんが……。山菜の苦みがアクセントになって、不味いよりはマシ、といったところでしょうか」
かつての私が愛読していたグルメ漫画なら、ここで革命的な味がするはずだが、現実はそう甘くはない。
それでも、最低限の栄養と滋養は詰め込んだつもりだ。
私は出来上がった料理を器に移し、十分に冷ましてから、隅で眠る老いた魔猿の元へ歩み寄った。
「起きてください。食事の時間ですよ」
鈴を転がすような声で優しく語りかけ、その肩をそっと揺らす。
老いた魔猿はゆっくりと瞼を持ち上げ、ひどく濁った瞳で私を見た。
やはり、異形の姿をした私への警戒は完全には消えていないようで、差し出された料理と私の顔を、交互に不安げに見つめている。
「毒なんて入っていませんよ。ほら、見ていてください」
私は安心させるために、自らその料理を一口口にした。
野草のえぐみが鼻に抜けるが、食べられないことはない。
それを見た魔猿は、おずおずといった様子で一口、その料理を口に含んだ。
瞬間、老いた魔猿の瞳が、魔晶石のようにカッと輝いた。
よほど空腹だったのか、それともミルキーツリーの濃厚な味が気に入ったのか。
彼は先ほどまでの警戒をどこへやら、ガツガツと音を立てて料理を平らげ始めた。
「こらこら、そんなに急いで食べる必要はありませんよ。まだまだ、たくさん用意してありますから。安心してください」
私は、喉を詰まらせないよう背中をさすりながら、その様子を穏やかに見守った。
金色の猫目が、満足げに動く彼を捉える。
(食欲があるのなら、もう大丈夫そうですね……)
ひとまず最悪の事態は脱したのだと確信し、私は安堵の吐息を漏らした。
数百年前の廃墟。異形の「私」と、老いた魔猿。
窓から差し込む朝陽が、私たちの奇妙な食卓を静かに照らし出していた。




