第三話 滅びの帝国の孤独な老猿 【前編】
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外に出た瞬間、肺に流れ込んできたのは、驚くほど澄んだ空気だった。
かつて君臨していた帝国は影も形もなく、視界を埋め尽くすのは崩壊した石造りの街並みと、天を突くほどに巨大化した魔晶石の群れ。
(……この感覚。エルフの知識が、周囲の状況を自然と分析していく)
私は、空気中に漂う魔力濃度を肌で感じ取った。
かつてこの地を覆っていたはずの、生物を即死させるほどの高濃度汚染は、数百年という歳月をかけて「結晶化」することで固定され、安定している。
さらに、私が目覚める直前――姿が安定した際、周囲に残っていた致命的な魔力のほとんどを、この「キメラ」の体が触媒となって吸収してしまったようだ。
「これなら……。魔晶石の側さえ避ければ、生物が十分に活動できる環境まで浄化されていますね」
あの絶望的な召喚の日から、少なくとも数百年の月日が流れた。文明は滅びたかもしれないが、世界は死に絶えてはいなかった。
「嘆いていても始まりません。まずは、安全に夜を越せる場所を探すとしましょう」
静寂に沈む廃墟を、カツン、カツンと乾いた足音が叩く。
探索を始めて数刻。私は崩落を免れた、比較的保存状態の良い石造りの建物を見つけ出した。内部には当時の生活の残滓が、埃を被りながらも息を潜めている。
「……ここなら、雨風を凌ぐには十分でしょう。少し整えれば、当面の拠点として機能しそうです」
鈴を転がすような清らかな声が、無人の室内に溶けていく。
私は、他に利用可能な資材や水源がないかを確認するため、再び外の探索へと繰り出した。
白銀の髪を揺らし、金色の角が魔晶石の微光を反射する。
背後では、尻尾である白蛇の頭が絶えず周囲を走査し、私の脳内に視界を提供し続けていた。
その時だ。
――グゥゥ……。
低い、地鳴りのような唸り声が、瓦礫の向こう側から響いてきた。
本能が警鐘を鳴らす。
だが、その声は私に向けられたものではない。
どこか飢えた捕食者の執着と、追い詰められた獲物の絶望が混ざり合っていた。
「……見過ごせ、と言うには、私の『中身』はまだ人間寄りすぎるようです」
私は音もなく壁を蹴り、跳躍した。
視線の先では、幽尾猫が、今まさに一頭の老いた魔猿を引き裂こうとしていた。
「そこまでです」
言葉と同時に、右手をかざす。
エルフの知識が、淀みなく術式を編み上げた。
「――『アイスウォーリア』」
大気が凍てつき、地面から結晶のような氷壁が突き出した。
突進していた幽尾猫が激突し、鈍い音を立てて弾き飛ばされる。
魔物が怯んだその刹那、私は指先を突き出し、さらに高位の魔力を練り上げる。
「次は、少し痛いですよ。……『ライトニング』」
手加減はした。だが、放たれた青白い雷光は魔物の鼻先で爆ぜ、石畳を粉々に砕く。
圧倒的な力の差――。
野生の生存本能が勝てぬと悟ったのか、幽尾猫は数回低く唸ると、そのまま脱兎のごとく森の闇へと消えていった。
私はすぐに魔猿へと向き直り、歩み寄る。
「大丈夫ですか? 怪我を見せてください」
しかし、死に体の老魔猿は、助け主であるはずの私を、剥き出しの牙で威嚇した。
その瞳には、異形のキメラである私への、根源的な恐怖と拒絶が宿っている。
「……ああ、そうでした。落ち着け、私……。今の姿は、彼らにとっては化け物そのものでしたね」
私はあえて数歩下がり、ゆっくりと両手を挙げて敵意がないことを示した。金色の猫目が穏やかに細められる。
数分もの沈黙の末、老魔猿はようやくその肩から力を抜き、警戒を解いた。
私は弱り切ったその体を、しなやかな腕で抱え上げた。
先ほど見つけた拠点へと運び込み、近くの森で摘んだ薬草を、エルフの知恵を借りて調合する。
その作業の最中、不意に、脳裏に一筋の記憶が閃いた。
「……そうだ。彼女の備えに、確か」
空間を裂くように「アイテムボックス」を起動し、漆黒の虚空から一本の小瓶を取り出した。
エルフの時代に精製された、高品質な回復薬。
「少し苦いかもしれませんが、我慢してください」
瓶の中身を惜しみなく与えると、老魔猿の深い裂傷はみるみるうちに塞がっていった。
だが、閉じた傷口とは裏腹に、その呼吸は依然として浅い。
「……やはり、老いそのものを癒やすことは叶いませんか」
外傷は消えても、枯れかけた生命の灯火までは戻らない。
私は、静かに眠りについた老魔猿の傍らに腰を下ろした。
窓の外では、巨大な魔晶石の柱が、数百年という時間の重みを湛えて赤紫に輝いている。
かつての日常も、かつて愛した物語も、ここにはない。
けれど、この温もりだけは確かだった。
私は、明けることのない夜を共にするように、静かに看病を続けることにした。




