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灰の記憶 ― 誰にも知られぬ祈り ―  作者: 知琴


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セレノラ・モンテヴェルディの日記(一)

 カスティリアーナ暦一〇三年

 四月一四日


 今日からドレイクフォード公爵夫人として、この屋敷での生活が始まります。

 父は出立の間際に「恥を晒すな」とだけ言って、私の顔を一度も見ませんでした。継母は笑っていました。彼女の笑顔は、刃物のように細い。

 義妹も義弟も、私の名を呼びませんでした。呼び名など、とうに失われていたのだと思います。


 アスター様――これから私が“夫”と呼ぶ人。

 初めて顔を合わせたとき、彼の瞳は凪いだ湖のように静かで、何の感情も映していませんでした。ですがそれを恐ろしいとは思いません。

 むしろ、人の心に踏み込まれぬ静けさが羨ましかった。


 私は、彼の敵の家に生まれました。

 私の命は、彼の勝利にも、敗北にも、どちらにも不要なもの。ただ、王の命によって配置された駒。

 でも、駒にも一度くらい、自分の意思を込める権利があってもいいのだと――そう思いたい。


 四月一五日


 この屋敷はとても広く、そして静か。足音を立てるのが申し訳なくなるくらい。

 使用人たちは皆、よく教育されていて、私に丁寧に接してくれます。

 ……けれど、彼らの目にはいつも薄い膜があります。

 「この方はすぐに消える」と、そう思っている目。


 アスター様は朝早く出て、夜更けに戻られる。食卓は別。言葉を交わすことは、ほとんどありません。

 でも、彼が私を傷つけようとしないことが、奇妙に心を落ち着かせます。

 叩かれない夜があるだけで、人は眠れるものなのだと知りました。


 五月七日


 国王陛下に報告を上げる使者が来ました。彼らは私に“監視”の務めを忘れるなと告げ、細かい質問を繰り返します。

 私は笑顔を作り、「アスター様は穏やかで、政治にも忠実です」と答えました。

 

 嘘。彼は王を倒そうとしている。


 その志を、私は知っているけれど、それを止める気はありません。


 たとえ私が王族派の人間として処刑される未来しかなかったとしても、彼の目に宿る“生きる理由”を消したくはないと思ったのです。

 生きる意味を持てる人が、どれほど眩しいかを、私は知っているから。


 五月二〇日


 夢を見た。

 母の夢。

 

 血の気のない顔で私を抱きしめ、「ごめんなさいね」と言っていました。

 母が死んでから、私の人生は薄くなりました。

 どれだけ殴られても、罵倒されても、涙の出ない身体になってしまいました。

 だから今、こうして文字を書くときだけ、私は“痛み”を思い出すのです。


 もし誰かがこの日記を読む日が来たなら――

 その人は、私の生を知るのでしょうか。

 それとも、ただの裏切り者の記録として燃やすのでしょうか。


 でも、それで構いません。

 誰かの手に届くまで、この部屋の机の裏に隠しておくことにします。見つからないことを祈りながら。

 

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