少女は目を覚ます
――どうか、お願い。
――あなたは、あなただけは、どうか。
――生きて。
どこからかやさしい声が聞こえた。
誰だろう。わからないのにとても落ち着く。
ただひとつ、その声に言っておきたいことは……お願いするなら、神様だけはやめておけ!
わたし、神様に願ったらとんでもない目に遭ったので。被害者なので。一応忠告を、と思いまして。
今だって息が苦しい。
被害は死んでもなお続くのか。そういうものなのか。あ、これが地獄ってやつ?
だとしたら納得いかない。わたしは真面目に過ごしてきたつもりだ。神様はいったいわたしのどこをどう見て地獄に送りこみやがったのか。どこまでもひどい処遇だ。一回文句を言ってやらなきゃ気が済まない。おい神様、出てこいや!
正々堂々喧嘩を売りに行きたいのに、全身に押し寄せる苦痛がそれを許さない。
呼吸器官が締め付けられている。息ができない。
死んでいるのだから当然かと思ったけれど、この苦しさには覚えがあった。あれは……そう、潜水だ! 水中にもぐって耐えきれなくなったときと似ている。
重みのある服が、体を沈めていく。
服越しに伝わってくる、刺すような冷たさ。指先の感覚が麻痺していく。
……待って。待てよ。何かがおかしい。
ここって本当に地獄?
おぼろげだった意識が、急速に冴えていく。
固く閉ざしていた瞼を、持ち上げた。が、すぐまた閉ざす。
目に直接、水が沁みて痛い。……って、え? 水?
まさか、本当に水の中!?
「なっ……ゴポ……!」
我に返り、思わず声を上げた。
漏れ出た音は気泡となり、ぶくぶくとのぼっていく。頭上から差しこむ光が、水面を輝かせていた。
やっぱり……わたし、水中にいる。
なぜか溺れてる!!
わたし、車に轢かれたよね!? いつ海に!? 奇跡の回復でもしたの!? それともこれが地獄の試練!? 水責めの刑!? 無理すぎ!
神様はとことん意地が悪い。神様に恨まれるようなことしたっけ? いや、してない。たぶん。
意識がはっきりしたあとだとよけいに息苦しさを感じる。つらい。
ここが地獄だろうがなんだろうが関係ない。このまま苦痛にもがきながら二度目の死を迎えるのは御免だ。だけどどうしたら……とか考える必要なかった。
そうだ、泳げばいいんだ。
小学生のころ、スイミングスクールに通っていた経験を発揮するときが来たようだ。これでも体育大学を受験しようとしていたのだ。運動能力に関しては自信がある。
息苦しさに耐えながら、光の見える水上を目指して泳いでいった。
簡単にスイスイ~っと進む予定だったが、なかなか進まない。泳ぎ方は完璧のはず。水泳してなさすぎてなまったかな。自信過剰だったかもしれない。だけどあきらめるわけにはいかない。こちとら生死がかかってるんだ!
最後は気合いで水面から顔を出した。
「はあ、はあ……っ、死ぬかと思った……」
一回死んだけど。
必死すぎて、途中からどう泳いだのかまったく覚えていない。息継ぎなしという鬼畜条件を見事クリアしたわたしを誰か褒めてほしい。
人間やればできるもんだな。空気がおいしく感じるよ。酸素よ、ありがとう。
運よく近くに陸が見え、最小限の動きで陸へと寄せた。
ようやくひと息つける。
ここまで長い道のりだった。試験前で胃をキリキリ痛めている受験生を、スリップ事故で葬ったあげく、死後も溺死寸前まで追い詰めるなんて正気の沙汰じゃない。拷問フルコースを用意したのはどこのどいつだ。神様って鬼の面をしているんでしたっけ? やさしさはどこへやった? せめて天国でなぐさめてくれよ!
全身ずぶ濡れなこの体を、あたためてほしい。
寒い。ずっと寒い。生きていたときからずっと、がくがくのぶるぶるだよ。
雪は止んでいるのに、どうしてまだ寒さと戦わなければならないのか。
そもそも、ここはどこなのだろう。
辺りは木々に囲まれていた。
春のような陽気に包まれ、生い茂った緑。
ついさっきまで浸かっていた、なだらかに流れる川。
雪の痕跡はおろか、人っ子ひとりいやしない。
大自然に、ひとりぼっち。
どういうこと?
実際の地獄って、こんな感じなのだろうか。それとも、本当は天国なのか。どちらにせよ解釈違いで混乱してしまう。
かといって、近所にここまでの大自然は存在しない。
ジャングル……にしてはのどかな気がする。山? 森? まあそこらへんだろう。
土に還れ、という遠回しなお告げ? もしくは、夢? 夢かな!?
実は一命を取り留めていて、昏睡状態の中、夢を見ているのかもしれない。うん、なんだかそんな気がしてきた!
こういうときは、ほっぺをつねっていざ現実へ……!
「いたたたたっ!!!」
思いっきりつねったら、めちゃくちゃ痛かった。
え、なんで? これ、夢じゃないの? 夢じゃなければ何なの? 現実!? やっぱり地獄!?
誰か! アンサープリーズ! 解答が舞い降りてくる気配なし。ですよね。
本当にどうなっているんだろう。
どうしても死後の世界だと納得できないのは、死んだ実感がまったくないからだ。むしろ、生きている実感を痛いほど持っている。
泳いだとき、陸に上がったとき、たしかに感覚があった。水をかき分ける重みと冷たさ、土を踏みしめる感触、草の匂い。震える肌にはわずかに温もりが残っているし、心臓だって微弱ながら音を立てている。
わたしは生きているのだろうか。
頬をつねったばかりの手をぼんやりと眺めてみる。
……あれ?
「手が、小さい?」
わたしの手のひらってこんなに小さかったっけ? まるで保育園児の手みたいじゃないか。
そういえば木がやけに大きい。首を最大限に上げないと、木の全体像を見切れない。
てっきりここの木々たちが成長しすぎたのかと思いこんでいたけれど、実際はわたしが縮んだだけだったりして。
「あははっ、まさかね!」
……まさか、ねえ?
笑い飛ばそうとするも、自信がなくなっていく。
もうすぐ大学生になる予定だったわたしが、いきなり幼児のサイズまで縮む? いやいやありえない。漫画じゃあるまいし、そんな非現実的なことが起こるわけがない。
あっ、きっとアレだ! わたしの目がおかしくなっちゃったんだ。うんうん。そうにちがいない。明日眼科に行かなくちゃ!
ふと、水面に映った自分の姿が、目に留まった。
ゆらゆら波打つ水面に、ひとつの影がうっすら浮かんでいる。
そこには、黒髪黒目の日本人らしい素朴な容姿――ではなく。
「……この子、誰?」
藍色の髪をした、幼い少女だった。




