特別章:血の雨と、禁忌の時計(アルフレッド視点)
——俺は、ずっと遠くから見ていることしかできなかった。
伯爵家の長女セレスティア。
幼い頃、宮廷の庭園で迷子になり泣いていた俺の手を握り、「大丈夫ですよ、王子様」と可憐に微笑んでくれた少女。
俺の冷え切った心に灯りを点けてくれた彼女は、俺の人生のすべてであり、唯一の光だった。
だが、権力争いが渦巻く宮廷で、無力な俺が彼女に迂闊に近づけば、彼女を政争の毒牙に晒すことになる。
それに加え、後妻に入った彼女の義母と公爵家が裏で手を組み、彼女を「ジュリアンの婚約者」として縛り付けていた。
「俺が完璧な王太子となり、すべてを叩き潰して彼女を奪い取るまでは……」
そう自分に言い聞かせ、影から守っているつもりだった。
彼女がお茶会で惨めな思いをさせられていると知れば、裏からジュリアンへ不穏な圧力をかけ、彼女を害する動きがあれば暗殺者を密かに処罰した。
だが——俺の「庇護」は、甘すぎたのだ。
◇
「……殿下。報告がございます」
あの日、冷たい雨が降る夜だった。
膝をついた影の報告を聞いた瞬間、俺の思考は真っ白に染まった。
『セレスティア様が……亡くなられました。ジュリアン様と異母妹、そして義母の手により、お茶に毒を盛られ……』
「……なんだと?」
自分の声ではないような、低く掠れた声が出た。
『セレスティア様は、静かに身を引こうと婚約解消を申し出たそうですが……伯爵家の財産と地位を乗っ取るため、事故死に見せかけて……』
ハッと息を呑む。
頭の中で、何かがパチンと弾け飛んだ。
静かに身を引こうとしていた?
あんなに健気で、優しかった彼女が、誰の邪魔もせず消えようとしていたのに……奴らは、彼女の命すら奪ったというのか?
「……あ」
視界が真っ赤に染まった。
胸の奥から湧き上がったのは、凄まじい怒りと、己の無力さに対する殺意。
俺が警戒し、遠ざけていたからだ。
俺が「完璧な準備」に拘っていたから、彼女を一人にしてしまったのだ。
彼女が毒を煽り、冷たい石畳の上で絶望しながら息絶えるその瞬間まで、俺は何もしてやれなかった。
「ふ……ふははっ……!!」
笑いが込み上げてきた。
氷の王太子? 完璧な次期国王? 笑わせるな。
愛する一人すら守れなかった男に、何の価値があるというのだ。
その夜、俺は理性を捨てた。
近衛兵を率いて伯爵邸とノルディック公爵邸へ踏み込んだ。
命乞いをするジュリアンを、俺は自らの剣で容赦なく突き刺した。
「殿下、お助けを!」と叫ぶ義母と妹の声を踏みにじり、彼女を殺すのに関わったすべての者を、自分の手で血の海へと沈めた。
返り血で濡れた顔のまま、俺は冷たくなったセレスティアの遺体を抱きしめた。
その肌は氷のように冷たく、その表情は……あまりにも哀しく、諦めに満ちていた。
『私なんて、最初から誰にも愛されていなかったのね』
言われなくてもわかった。彼女がどんな思いで死んでいったのか。
俺が遠くから見守っていた愛など、彼女には一欠片も伝わっていなかったのだ。
「すまない……すまない、セレスティア……!!」
俺は彼女の冷たい額に額を付け、子供のように声を上げて泣いた。
だが、復讐を果たしても、彼女は戻らない。
絶望の淵で、俺は王家の禁忌とされる地下密室へと向かった。
国を興した始祖が残した、己の命と引き換えに時間を戻すという古代の魔導具——『刻の時計』。
「殿下、おやめください! そんな禁術を使えば、殿下の魂は引き裂かれ、二度と救われません!」
側近の制止の声を無視し、俺は自らの血を時計へと注ぎ込んだ。
「構わない……! 魂が引き裂かれようと、地獄に落ちようと構うものか!」
俺の命、俺の魔力、俺の未来——そのすべてを捧げる。
「神よ、もし存在するなら……もう一度だけ、彼女に逢わせてくれ。今度こそ、俺のすべてをかけて彼女を守る。俺を嫌おうと、恨もうと構わない……二度と、彼女をあの暗闇に一人で逝かせはしない……!!」
閃光が視界を埋め尽くす。
激痛が魂を切り刻む中、俺の意識は過去へと巻き戻されていった。
——だから、セレスティア。
二度目の人生で、お前がどれほど心を閉ざしていようと、俺は絶対にお前を離さない。




