掴まれた手首と、冷徹な王太子の眼差し
痛いほどの力で手首を掴まれているのに、私の心はどこか他人事のように冷めていた。
「……アルフレッド殿下?」
首を傾げ、小さく問いかける。
手首にかけられた圧力とは対照的に、眼前に迫る王太子の瞳は見たこともないほど激しく揺れていた。
「氷の王太子」——社交界でそう恐れられるアルフレッド・ヴォルフラム殿下。
感情を一切表に出さず、冷徹に公務をこなす孤高の存在。
私のような伯爵家の影の薄い娘とは、夜会で遠目から数回お見かけした程度の接点しかないはずだった。
それなのに、なぜ彼の瞳から涙が零れ落ちているのだろう。
「殿下、お手を離していただけますか。私はこれより、婚約者であるジュリアン様との定期お茶会がございますの」
「ジュリアン、だと……?」
その名を出した瞬間、アルフレッド殿下の瞳にぞっとするほどの暗い殺気が宿った。
掴まれた手首の力が一瞬強まり、私はかすかに眉をひそめる。
「あんな奴のところへ行かせるものか。……二度と、あんな奴らにお前を触らせはしない」
「……殿下?」
何を仰っているのだろう。
1周目の記憶において、私と殿下の間に特別な会話など一度もなかった。
だからこそ、彼の激昂も、私の手首を離そうとしない強い執着も、すべてが奇妙に思えた。
(……ああ、そうか)
私はふっと、諦めを孕んだ小さな笑みを零した。
義母や妹、あるいはジュリアンが、また何か私を貶める噂でも流したのだろうか。
「王太子殿下に不敬を働く不吉な娘」として社交界から排除させるために。
それならそれで、好都合だった。
不敬罪で追放されるのであれば、私の目的である「誰にも知られず静かに姿を消す」ことが、より早く叶うのだから。
「殿下、もし私が何かお気に召さないことをいたしましたのでしたら、どのような処罰もお受けいたします。……私など、この社交界から、いいえ、この国から静かに消え去るのが一番ですので」
私が淡々とそう告げた瞬間、アルフレッド殿下の身体が大きく跳ねた。
「——消える、だと!?」
怒りと、それ以上に深い絶望を孕んだ叫びが廊下に響き渡る。
彼は強引に私を引き寄せると、まるで大切な宝物を壊さないように確かめるかのような、強烈な力で私の体を抱きしめた。
「嫌だ……! 誰がお前を消させなどするものか! お前が消えるくらいなら、俺はこの国ごと……!」
耳元で囁かれる声が、恐ろしいほどに震えている。
高級な香水の香りと、彼の激しい体温が私を包み込む。
(どうして……?)
冷たく放り出されて死んでいった1周目。
「誰からも愛されていなかった」と思い知らされた私が、なぜ今、この国で最も尊いお方からこんなにも狂おしいほどの愛おしさを向けられているのだろう。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
だけど、一度壊れてしまった私の心は、もう二度と「期待」という毒を飲もうとはしなかった。
きっとこれは、何かの間違いなのだ。
期待して、また裏切られて惨めに捨てられるのは……もう二度とごめんだから。
「殿下、どうかお戯れはおやめくださいませ。私は、誰も愛さず、誰からも愛されずに静かに生きていきたいのです」
腕の中でそっと囁いた私の冷ややかな声に、アルフレッド殿下は絶望に満ちた息を呑んだ。




