128 遠征まで21
気持ちのよい、風が吹きぬけてゆく。
それはとてもスズしく、スガスガしく、透き通った風だ。なのでそれが吹きさるついでに、体や心の中までを通り抜けて、様々なわだかまりさえも奪いさっていってくれるかのようだ。
たとえば、神殿教国に帰らなければいけないのだろうか、といった後ろ向きな気持ちをだ。……ただ1つの、静かにクスぶるような感情を除いては。
アイネは『空と水の庭園』のイタダキのベンチで、そんな風を感じている。目の前には、王都の街並み、城壁の向こうにはハルかかなたから海に向かって流れてゆくシドン川がキラキラと輝やきを放つ。
そしてハルか地平線の向こうには“夜”が、永遠の途上であるかのように空にかすれながら登っていく。
【アイネ】
目の前に広がる景色を見ているボクに、ある思いがコビりついて離れない。
ボクなんかに、愛する人が現れるの?
現れるとしたら、その人はどんな人なの?
女の人?
それとも男の人?
そんなことさえ、イメージできないっていうのに……。
でもあの神聖騎士団団長は言った。その時が来ればわかる、って。
その人はここから見える、どこかにいるの? それとももっと先に? それともそれとも、イガイと近くに?
近く?
不意に浮かぶのは、黒髪の少年の顔たち。
ボクの話を聞いて、アキレたようなマヌケな顔……
ボクが予想外なことをして、驚いたマヌケな顔……
恐ろしい猛獣に向かっていく、剣の先みたいに研ぎすまされた顔……
……アイツ……じゃないよね?
と、浮かぶはさっきの、どこかヨソヨソしく紅潮した顔……
…………
……なんだろう、この気持ちは……
……ボクは……アイツのこと……
【】
「やあ。今日も会ったね」
アイネが、風による透明の中の、ちょっとしたヨドミから目を覚ますと、世界は急速に色を取り戻していく。
そして、声の方に振り向く。
そこにいるのは、少しばかり息を切らせたナルガ王子だ。50回連続でジャンプしたとか、少しの間猛獣に追われていたとか、どこかの侍女にここに来るべき時を教えてもらって少し離れた所から急いで来たとかいった具合の息の切れ具合だ。
アイネが言う。
「そうだね。今日も会ったね」
ナルガ王子は、そうすることがとても勇気がいることのようにタメラいながら、アイネの隣に座る。
しばしの沈黙が、訪れる。
がすぐに、まるでそれが始めからベンチの上に準備してあったかのように、ナルガ王子が言う。
「明日からいよいよ遠征だな」
アイネは遠征に行く方角、シドン川の上流を見て言う。
「そうなんだよ! 楽しみだなー」
王子はケゲンそうな顔をする。
「楽しみ? 遠征が? たくさん歩かなければいけないし、その後は戦わなくてはいけない。それも邪神の使徒たちとだぞ! 恐くはないのか?」
「それはそうなんだけどさぁ……」
アイネの視線は、シドン川の上流へとそそがれている。ただし彼女の見えているモノは、そこの景色ではないようだ。
「……まだ行ったことのない場所に行って、まだ知らない人たちに出会いたいんだよ」
王子はまだ信じられないような顔で言う。
「……知らない人たちに出会いたい? ……でもあの邪神の使徒たちと戦うんだ。とても恐ろしいことじゃないか」
アイネは、少し考えながら言う。
「それはそうかもしれないけど……。……ボクがここに来る前、エユィドナ共和国でダマされて奴隷になったんだけど、それでもよかったと思っているんだ。だってそのおかげで色々な人たち……カンパとかハダリー隊の人たちとか、ヴェイザさんとか王さま、それにナルガ王子にも会えたんだよ。だからボクは、それでもここにこれてよかったと思ってる。だから同じように、遠征に行くのが楽しみなんだ。ボクの知らない所で、ボクの知らない人たちがそれぞれの生活をして生きている。ボクはそれを……感じたいんだ」
ナルガ王子は数ある芸術作品の中に、とても気に入った1つを見つけたように目を輝かせて言う。
「……キミは……なんて素敵な人なんだろう……」
「ボク?」という表情のアイネの顔をチラリと見て、王子が続ける。
「……実は、私も遠征に行くことになったんだ。……父上がそうおっしゃった。若い内に実戦経験を積んでおいた方がいい、ってね。……だけど私は私は怖かった。あの、話に聞いていた邪神の使徒たちと戦わなければいけないからね。でも……」
そう言ってナルガ王子は、アイネの顔に真っ直ぐに向き直る。
「君と話していて、とても気が楽になった。……君が……とても素敵だから。だから……」
ナルガ王子は手を持ち上げ、そしてしばしのタメラいがあり、そしてそれを振り切るような勢いでアイネの手の上に重ねる。
「……だから、遠征から無事に戻って来れたら、私の……この愛を受け入れてくれないか?」
王子の唇は震えている。アイネの手の上に置かれた手も。そして白水晶のような顔は、赤色になりかける程度には紅潮している。
「愛……って?」
「私の、君に対する気持ちだ」
「ナルガ王子が? ボクを?」
「そうだ」
「……ボクはナルガ王子のすべてなの?」
「……そうだ。まさにそうだ」
話している間に、王子の震えと紅潮が接触している手から手へと、アイネに伝わってくる。
「……なんで? ……なんで王子がボクなんか……」
「なんかじゃない。君はとても素敵な人だ!」
ナルガ王子の瞳は、真っ直ぐにアイネの瞳の中へとそそがれたままだ。
アイネは目をふせて言う。
「……わかんない。……いきなりそんなこと言われてもボク、どうすればいいのかわからない……だってボクは……」
【アイネ】
……だってボクは……
……男だから……
でもそれを言っていいのかすら、わからない。ナルガ王子にとってボクは……すべてらしいのだから。
もしボクが男ってことを言ったら、ナルガ王子はどう思う? キライになる?
それも、わからない。
でも言わないといけない気がする。
でも……言えない……
【】
悩むアイネを助けるのは、悩みを持ち込んだ張本人だ。
「答えは、遠征から帰って来てからでかまわない」
しかしそれは、一時的な先延ばしでしかない。しかしながら、当面の危機は回避できた。
「……それまで、よく考えて欲しい」
アイネは他に、適当な単語を見つけることができずに言う。
「……わかった」
ナルガ王子はアイネの手をギュッと握りしめ、そして去って行く。
そしてアイネの手の上には彼の熱が、長く残ったのだ。




