神VS魔将②
「それは……剣、なのよ?」
アフが小さく首を傾げる。
無理もなかった。
あれを剣と呼ぶには、あまりにも異質だった。
刃の輪郭は定まっているはずなのに、視線を向けるたび揺らぎ、霞み、まるで世界そのものがその存在を認識することを拒んでいるようだった。
禍々しい瘴気は、先ほどのイビルアイとは比べることさえ愚かに思えるほど濃い。
黒紫の靄は空気へ溶けるのではない。
空気を侵し、光を濁らせ、世界そのものへ染み込んでいく。
白磁の石畳はじわりと黒ずみ、壁面は生き物の皮膚のように脈打ち始める。
鼻を刺す腐臭と鉄錆の匂いが喉を焼き、肺へ入り込んだだけで吐き気が込み上げた。
ジュク……ジュクジュク……
GiGi!GiYAAAAAAAAAAA!!!
地面がまるで生物のように脈打ち、鳴いた。
いや、そんなはずはない。
なのに確かに、大地が湿った肉を押し潰すような音を立てている。
ぶくり、ぶちゅり!
地面が裂ける。
そこから突き出したのは木の根でも岩でもない。
人の手だった。
一本、三本、七本とどんどん増えていく。
指が痙攣しながら土を掻きむしる。
続いて足が、眼球が、歯を剥いた口が、
誰のものとも知れない肉塊が、地面という地面から芽吹くように生え始める。
「邪闇…葬衝!!」
ジークの咆哮が空間を震わせた。
魔剣が振り抜かれる。
昼だというのに世界は夜よりも暗く染まり、影さえ闇へ溶けていく。
まずはじめに光が消えた。
風は死に、建物は音もなく崩れる。
爆音も轟音もない。
音という概念だけを置き去りにしたまま、石も木も砂へ崩れ落ちる。
そして最後に訪れたのは――
滂沱の闇。
黒紫の奔流は波というより、世界を塗り潰す夜そのものだった。
空も、大地も、景色も、人影も。
目に映るものすべてを呑み込みながら、終わりの見えない速度で押し寄せてくる。
「アフの後ろにいるのよ!」
鈴を転がすような声が、闇の中ではっきりと響いた。
白き盾が輝く。
朝日のような柔らかな光ではない。
すべてを拒絶する絶対の白。
黒紫の濁流と白銀の光がぶつかった瞬間、世界は二色だけになった。
アフの声が掻き消える。
僕の声も消える。
永遠かに思われた一瞬は晴れ…
そして…
長い波動が止み、僕は恐る恐る目を開ける。
手はある。生きている。
でも…
「なん、だよこれ…!」
冬真は戦慄していた。
周囲一帯が消し飛んでいたのだ。
地面が壁が、黒紫の波動が通り過ぎたあとには醜い異形の腐肉へと変質した大地や建物が残っていた。
それに残留した黒い瘴気…溢れ出した魔力によって周囲は作り変え始めていた。
「やってくれるのよ…」
僕にも、もちろんアフにも怪我などなかった。美しい白き盾は未だ健在。盾はあの異形の力すら退けた。
しかし…街にも被害が出始めてしまった。
人々の絶叫が木霊する。怪我を負った人達の中には傷跡から異形の肉塊が生える。
喧騒は膨れ上がり、混乱が広がる。
もはや隠し立てが通用する状況ではない。
「降伏、してくれませんか」
それは意外な申し出だった。
これほどの状況を引き起こしておいて、いや…だからこそなのかもしれない。
でも、僕はその言葉に納得はできなかった。
だからといって、怒鳴り返す事もできなかった。
「僕達の魔力には属性が存在します。僕の魔力属性は【闇属性】。その性質は不可逆の変質です。このように僕の魔力を帯びた攻撃をまともに受ければ、醜悪な異形の塊へと変質していく。通常の方法で回復はできません。僕は極力この剣を使いたくないのです。ただ存在しているだけで、周囲へと影響を及ぼす。本気で振るえばどうなるか…ある程度は予測できるでしょう?」
そう言ってジークは辺りを指差した。
街の騒ぎはどんどん大きくなっていく。当然だ。
このような現象を、どう説明すればよいのか、分からなかった。
ジークの応対がずっと気になっていた。
落ち着いている。落ち着きすぎているほどに。
まるでこちらの性能を確認してるような、そんな違和。
その理由がやっと分かった。これほどのモノを持っていれば、いざという時の切り札足り得ると。
「降伏とは冬真を渡せ、ということなのよ〜?」
「…そうです。彼さえ渡してくれれば、我々は引きます」
ジークのその言葉に僕はビクリと震える。
ジークの持つ魔剣。あれは普通じゃない。
見ているだけでわかる。
まともにあれとぶつかることは、死よりも恐ろしい結末が待っている。
僕一人とこの街の住民のことを天秤にかければ…
僕は…!
「聞けない話なのよ〜」
アフはあっさりと僕の考えを否定した。
「え?」
「なぜ…ですか?」
「この街を守りたいのよ」
「なら…」
「この子もまた、この街の大切な一部なのよ」
アフは優しく、こちらを見つめていた。その瞳には絶対に見捨てない。慈愛の色が滲んでいた。
「アフ…」
なぜだか僕は泣きそうになった。
「一人のために、大勢を危険に晒すのですか?」
「…アフはいつもひとりぼっち。でも…ある時、形をもって、境を知って…友達ができたのよ。友達はだんだん増えていったのよ。それでいいと思ったの。でも、世の中、それだけじゃ満足されないのよ。人は欲深で、高潔だった行為は基準に変わって、基準は、条件になるのよ。その時は美しいと思ったものだって、すぐに醜くしてしまうのよ」
それは僕にも覚えがあった。善意はいつしか「当然」に変わり、「当然」は「もっと」へと変わっていく。
アフは神だ。彼女の与える聖寵は人心には眩しすぎたのかもしれない。
「人が…ご嫌いですか?」
「嫌い…そんな言葉一つじゃ、アフは満足できないのよ」
アフの顔には幼さに似合わぬ陰りがあった。
嫌って…怒って…突き放して…また繋がる。
嫌いという言葉はある種、切り離すための儀式にもなる。好きだったものを、切って捨てて忘れるためのおまじない。
言ってしまえば楽だろうに…
「一つだけ言えるのは、突き放しても、おわりにはならないのよ…」
アフはジークを見つめていた。
おわりには、できないのだと、彼女の瞳は語っていた。
「お前も、きっとそうなのよ」
「…僕が、ですか?」
「嫌いなものがあってもそれだけでおしまいにできない、人との繋がりは…だから苦しいのよ」
「そう…ですね」
ジークはそっと目を伏せた。
「うん、思い出したのよ。アフは、皆のために誰かを犠牲にする世界が欲しいわけじゃないのよ。皆で、頑張れる世界にしたいのよ」
人は己よりも優れたものを隣には置けないと彼はいった。
冬の言葉はある種真実だ。みんなで分かり合う。そんなものはおとぎ話だと、守るべきを見誤るなと、どれも正しい。
でも、アフが欲しいのは正しさじゃない。
正しさじゃ、なかった!
「一人のために、皆で頑張れる。そういう世界を、目指したいのよ。だから…」
「アフは、この子達のそばにいるのよ〜。上からじゃない。そばで、ずっと」
それは慈しむように…信じるように…こちらをみていた。
それは幼稚な夢だと言えるだろう。子供の思い描く絵空事のような夢だと。
ジークは目を細め、まるで眩しいものでも見るように目を逸らし、そして悲しそうにつぶやいた。
「そうですか…あなたは善い神、なのですね」
ジークの眼の色が変わる。戦士の眼へと。
「その盾をまずは攻略します」
ジークが剣を構える。
それだけで圧が高まっていく。
剣が嘶き、空気が軋みを上げる。
くる…くる…来る!!
「邪闇四爪衝!!」
振り下ろされた魔剣から放たれる4つの黒紫の波動が影を潜るように地を走り、別の角度を持ってアフへと迫る。
「!!」
アフは危険を察知し、その場を飛び跳ね離脱する。
それを逃さぬように黒紫の波動がアフを追随する。
「妙だ…」
冬真は訝しんだ。
正面から迫らず、側面へと回り込むように角度を変えて敵の攻撃はアフへと迫っているようにみえる。
まさか…
「君の盾は正面からの攻撃には無類の強さを誇るようだけど、側面には展開できないのだろう?」
ジークはアフの盾を観察していた。
アフの盾はおそらく3次元の構造を持たない。
奥行きがないせいで、正面から受けたものは上下左右に攻撃が微分され、四散する。純粋な貫通力ではアフの盾は貫けないと理解した。だから…
「どれだけ優れた盾でも防げない角度からなら…」
「なめられたものなのよ〜」
アフはそれだけをこぼした。まるであきれたように。
「なんですって?」
アフに焦りは見られなかった。
攻撃は絶えずアフを追いかけている。
なのに、あの短い足で、とてとてと屋根を渡り、地を走り、空を駆ける。世辞にも速いとは言えない足運びはまさしく子供のそれだ。
にも関わらず攻撃が追いつけていないのだ。
「く!」
ジークが一瞬でアフとの間合いを縮めようと走る。
しかし…
「大将!」
シェヴァラも加わり、鬼ごっこが始まる。
挟み撃ちにしようとアフを両側から追いかける。
「なぜだ!なぜ追いつけねぇ!」
シェヴァラが叫ぶ。
ジークも頬を汗が伝う。幾度走ろうと距離は縮まらずアフへ追いつけなかった。
ならば…!
ジークの身体がブレる。
次の瞬間、ジークの姿が消えた。
まるで空間を跳躍したかのように…
いや、実際跳んだのだろう。
まるでコマ飛びしたように、振り上げられた剣は既に振り下ろしの体勢に入っていた。
並のものでは知覚することすら出来ずに斬り伏せられる。
予備動作からジークの行動を予測するのは困難と言えるだろう。
アフでなければ。
跳躍先で魔剣は振り下ろされた。
しかし、アフに届くことはなかった。
なぜなら、アフよりもずっと手前の位置でジークは魔剣を振り下ろしていたのだから。
剣先は、届くはずの距離で空を切っていた。
ジークは驚愕に顔を歪めた。
確かにアフまでの距離を縮めた。
目算を見誤ったわけではない。
【縮地と無拍子】と呼ばれるとある地域の技術。それを摩業によって魔改造し、再現したそれはまさしく時間や空間を跳躍した結果だけを敵に叩きつける。
距離は意味をなくし、予備動作がない故に防ぐことすら難しい初見殺しの妙技。だがそれも…
姿勢を崩したところを見逃さず、アフの蹴りが鳩尾へと叩き込まれる。
「うぐ!」
ジークは体勢を崩しているにもかかわらず、衝撃を逃がすように後方へと飛んだ。しかしそれでもその衝撃を殺し切ることはできなかった。またしても見積もりを誤る。
「距離…単位…規格に干渉できるのですか君は…!」
距離を縮めたはずなのに届かない。彼が移動した距離と、アフへと到達するために必要な距離が一致していない。
【概念定礎】
存在科学における『神』とは、明確な定義が存在する。
その権能の一つが概念定礎。
神の力が及ぶ範囲には、単位の概念すら含まれる。
足が速くても追いつけず、距離を縮めても届かない。
それは釈迦の掌の上のように。
「そろそろ、決着をつけるのよ」
アフは宣告する。
ズズっと地面が揺れ始める。
足場が安定しない。
「なんだ!?」
「ジーク!」
街が、世界が、丸みを帯びる。そして…
【正存在:球界防御】
「なにが…」
ジークも、ほかのものも、事態を把握しきれなかった。
街がテクスチャのように切り取られ、アフの手のひらサイズまで小さくなり、球体状に内側へと包み込まれた。我々はその外にいた。
何もない、まだ何にも定義されていない空間に、ただあるだけだった。魔力による汚染さえできるものがないのだから、打つ手などあり得るはずがない。
「く!」
ジークが苦し紛れの攻撃を飛ばしてくるが…
ジークの攻撃は球面体に弾かれる。
攻撃を通せる隙間が…ない!
これは、一体!
ジークには敵の力の正体が掴めなかった。
「お前達の力はもう、この街には届かないのよ」
「大…将!」
「ジーク、様!」
シェヴァラもモエミも地面や空、重力や空気すら存在しない空間で身動き一つ、呼吸さえできない状態でいた。
アフがジーク達を見下ろす。
それは事実上の勝利宣言。
「はは…」
味方である僕でさえ言葉が紡げない。
アフの手の中で、アフの恩恵を受けている者には世界から弾かれたような不可は存在しない。これは…こんなのは…!勝てる存在ではない!
冬の言っていたことは事実だった。アフの力の及ぶ範囲は文字通り、この世界そのもの!
魔力による汚染すらアフは引き剥がし、破棄した。
「こんな、ことが!」
ジーク達は焦りを見せる。想像以上の事態に彼の頭が追いつかない。
そう、勝負は決していた。
『アフ!避けろ!』
その言葉がなければ――
アフの瞳が見開かれる。
次の瞬間、声の指示に従い、即座にその場を離脱するアフ。
何も見えなかった。
音もない。
衝撃もない。
誰にも事態は分からず、
ただ一つ。
アフの右腕が、消失していた。




