第二十八話 姫……再び空へ
──二日が過ぎた。
静まり返った屋敷。窓の外から差し込む柔らかな光が、机に山積みとなった書類を鈍く照らしている。
領地管理に関するものだ。やらなければならないのは分かっている。でも、どうしても気力が湧かなかった。
ベルセリールは、椅子にもたれかかり、重くため息をついた。
「……はぁ……」
思い返されるのは、あのときのクレセルイの目だ。
冷たく、硬く、鋭く。まるで刃のように自分を貫いた視線。
資料を破かれた瞬間の音、否定された言葉の重み、そして──沈黙。
「……私って……メンタル弱いなぁ……」
ぽつりと自嘲気味につぶやく。
彼が帰ってこなかったら?いや、逆に自分がいるから帰ってこられないのでは?
そんな考えが、心にぐるぐると渦を巻く。
気分を変えようと、ベルセリールは久しぶりにクーデリア王女時代に着ていた黒いドレスを身にまとった。
胸元と肩を露出したエレガントなデザイン。だが、それを着る自分に誇らしさはなかった。
外に出よう。人のいる場所へ。
けれど、足が自然に向かった先は、活気ある市場でもなく、懐かしい港でもなく──
クアトルム街のはずれ、高台にそびえる巨大な建造物だった。
——セラファリカ星竜大聖堂。
セラファリカ王国。かつてルメスタ島に栄え、二十年前のソルモス戦争で「破滅の星空」によって消え去った王国。その民たちは各国に散り、信仰と文化の拠り所として築き上げたのが、セラファリカ星竜教会だった。
信仰対象は、太陽の竜と称される神聖な存在──星竜セラファリカ。
この大聖堂は、亡国の民の祈りとともに築かれた聖域。
クーデリア王国でも絶大な影響力を誇る巨大宗教組織は、今や各国に教会を持つ一大勢力であり、ここルジエール公国でも例外ではなかった。
そして、それこそがあの日、レグリスの言っていた組織である。
ベルセリールは、ふらりとその扉を押し開け、ひんやりとした空気の中を静かに進み、木の長椅子に腰を下ろした。
美しいステンドグラスの光が差し込み、堂内は静寂に包まれている。
どれほど時間が過ぎたのか、分からない。
「ベルセリール様?」
左手から響いたその優しい声に、はっと顔を上げる。
そこにいたのは、白の聖衣に身を包み、淡い金髪を揺らす小柄な猫耳の少女だった。
「ティルシャ……ちゃん……?」
「ええ。……ティルシャちゃんで構いませんよ、ベルセリール様」
柔らかく微笑むティルシャ。
聖女の気品と、友人としての親しみが、その声色と表情に溶け込んでいた。
「どうなさいました?」
「え、あ……うーん……なんというか……初めての……心の……亀裂というか……」
ベルセリールは曖昧に笑い、言葉を探す。
「……彼との間に、うまく修復できない傷ができちゃってね」
「そうでしたか……私に力になれることがあれば良いのですが……。
……まずは、祈ってみませんか? 星竜セラファリカ様に」
ティルシャの言葉に、ベルセリールは小さく頷く。
「ふふ、そうだね……せっかく来たんだし、星竜様にちょっと話を聞いてもらおうかな」
二人は並んで、聖堂中央に設けられた巨大な星竜像の前へと歩み寄った。
白銀の鱗、鳥のような四枚の翼、天空を駆ける神聖な竜──それが星竜セラファリカ。
「本当に、綺麗だね……」
「はい。星竜セラファリカ様は太陽を司る存在ですから。光と希望の象徴です」
祈りを終えたそのとき──
「ティルシャ様、巡回完了しました」
鋭く引き締まった声が聖堂に響く。
振り返ると、赤と白の混じった髪を持つ翼人の青年が立っていた。黒く大きな翼をたたみ、軍服姿に剣を携えるその姿。
「あっ、あなた……あのとき、ゲイル様のパーティで巨大コウモリを倒してた……!」
ベルセリールは思い出す。かつての貴族の宴で見た、あまりに鮮やかな一撃。
「ロフェイル・バランだ。一応、伯爵で、ルジエール飛行戦闘部隊の隊長をやってる。そっちは──」
「ベルセリール・アルドラシル・クシュル・ルジエール・クアトルムです。……えっと、長くてごめんなさい」
「確かに長いが……まあ、貴族らしい」
思わず笑い合う三人。だが、その和やかな空気は、次の報告で一変した。
「ロフェイル様!アルベルム学園に巨大なゴーレムが出現!学園施設に甚大な被害が出ています!」
「なんだと!? 被害状況は!?」
「未確認です!魔石兵器が無効化されており、非魔力武装での対応に切り替えていますが……」
「分かった、すぐに向かう」
ロフェイルはティルシャに一礼すると、すぐさま聖堂を駆け出していった。
その光景を見つめていたベルセリールの顔が、青ざめる。
「……まさか……レグリス様が言ってた“兵器”って……あれ……?」
「ベルセリール様……!?」
ベルセリールは、ティルシャの呼び止める声を背に、聖堂を飛び出した。
中央学園までは遠くない──でも、爆発と轟音が響くその場所に、あの子がいる。
クーちゃんが!
全力で走る彼女の目に、飛竜に乗った兵士の姿が飛び込んできた。
「そこは危険です!下がってください!」
けれど、ベルセリールは止まらない。
「その飛竜、私が借りるよ!」
「なっ……! 待っ──」
だが、飛竜はベルセリールを拒まなかった。
彼女はクーデリア時代、かつて親友と竜騎士を目指していたことがあった。親友ティオリーナと共に……。
今はもう別の道を歩いているけれど──その記憶と技術は、身体が覚えている。
「行こう、風より速く!」
ベルセリールは空へと駆け上がった。
黒のドレスが宙に舞い、彼女のピンクの長髪が風を切る。
──クーちゃん、待ってて。
空を駆けるその眼差しには、誰にも負けない強さと、深い決意が宿っていた。




