第二十六話 亀裂
研究室の窓からは、既に日が沈みかけていた。魔石の淡い光に照らされる静かな空間に、ベルセリールの白いサマードレスがふわりと現れる。
「クーちゃん、話があるんだけど……いいかな?」
ふいに顔を上げたクレセルイは、書類の山の中からベルセリールを見つけて微笑む。
「あ、うん……いいよ?」
彼の目元には、くっきりとしたクマができていた。連日の研究と領地報告書への対応で、ろくに休めていないのが明らかだった。
そんな彼を見て、ベルセリールは一瞬ためらったが、それでも言わなければならないと心を決める。
「……クーちゃん。あのね、レグリス様のファリア……“腐敗”の性質を持ってるの。ずっと隠されてたけど、そのファリアは他の魔力を壊してしまう特性なの。普通じゃ考えられない。そして……その力を使って、破局石からあのスライム核を生み出していたの」
「……え?」
クレセルイの表情が静かに変わる。だがまだ、言葉にはしない。
「レグリスから直接聞いたの?」
ベルセリールは目を伏せたまま、少しだけ首を横に振った。
「……違う。聞いたわけじゃない。でも——」
「じゃあ、どうやって調べたの?」
静かな問いかけ。でもその奥には、はっきりとした不信があった。
「この資料に、全部書いてあるの。分析結果も証言も記録も……後で読んでくれる?」
優しく差し出された封筒。ベルセリールは、クレセルイを傷つけないよう細心の注意を払っていた。だが——
「……ねぇ、ベールちゃん。根拠がないのに彼を疑うって、どうなんだろう」
その一言が、彼女の手をぴたりと止めた。
「……根拠なら、ここに全部あるって言ってるでしょ?」
封筒を押し出す彼女の指先がかすかに震える。
「結果的に、根拠も言えないで人を疑ってる。つまりその資料も怪しいってことだよね? 忙しいんだ、そういう冗談はやめて」
「……冗談に見えるの? クーちゃんには、私が」
「……何が言いたいの?」
「だから、自分で読んでみてって言ってるの!」
声が上ずる。
「いい加減にしてよ!?レグリスの何を疑ってるのか知らないけど、“腐敗のファリア”だって!?そんなはずない!彼はファリアを持たない体質なんだ!僕は彼と昔からの知り合いなんだよ!?子供の頃からずっと!デタラメなこと言うなよ!!」
「……デタラメとか言う前に、資料を見てよ……!?ぜんぶ書いてあるからって……!」
その時だった。
クレセルイはベルセリールの手から資料を奪い取ると、何のためらいもなく、それを破いた。
びりびりびり……
重く、湿った音が研究室に響いた。
ベルセリールは呆然と立ち尽くした。
「……いい加減にしてよ……レグリスには、僕、何度も助けられてる。僕が辛かったときも、孤独だったときも、彼は……ずっとそばにいた。……その恩人を、君がこんなふうに扱うなんて、思わなかったよ」
クレセルイはそう言い残し、資料の破片を机に置いたまま、顔を背けた。
——冷たかった。
彼の声も、表情も、初めて見るような“他人の顔”だった。
ベルセリールは破かれた紙の切れ端を見下ろしたまま、何も言わなかった。
胸の奥に、ゆっくりと、何かが崩れ落ちていく音がした。
「……そうですか。なら、私はもうこの件の話は一切しないよ」
淡々と告げるベルセリールの声には、怒りも涙もなかった。ただ、感情の温度が抜け落ちていた。
クレセルイに背を向け、歩き出す。その背中に向けて、彼は何も言わなかった。
——それは、ふたりにとって初めての本格的な“夫婦喧嘩”だった。
けれど、これは始まりにすぎなかった。
この冷えた夜の会話がこの国を巻き込み 結果として“最悪の結末”を迎えることになるとは、
その時のふたりには、まだ知る由もなかった。
※※※
翌日、ベルセリールが目覚めると寝室にクレセルイの姿はなかった。
リビングのテーブルに何やら置き手紙がさるていた。内容はしばらくアルベルム学園の方で集中して研究専念をするとのことだった。
昨夜は冷静さを失いクレセルイに冷たい態度をとってしまったベルセリールだったが冷静になった今……ただ椅子に座り窓の外を眺める事しか出来なかった。




