エピローグ・2
「やれやれ。大したもんだよ、まったく」
下宿から離れていく玖凪の後ろ姿を見て、未知は独り呟いた。
この短期間で玖凪の怪我が完治していたのは、当然、自然治癒によるものではない。
玖凪は未知に懇願したのだ――魔術で治してほしいと。
お願いされたときの真剣な眼差し、そして、今の態度で未知は理解した。玖凪が怪我を最速で治したかったのは自分のためではない。あくまでも、くりすのためだ。
怪我を負った状態でくりすに会えば、くりすは水曜日の出来事――玖凪に手をかけた事実――を思い出してしまうかもしれない。あそこまでの重傷を負わせたのはくりすではないし、些細な感情を無理に肥大化させられて操られたくりすはむしろ被害者だが、下手に思い出してくりすの心に傷が残る可能性――それを玖凪は恐れた。
「そのためには、全部なかったことにする、か。玖凪ちゃんにもいろいろと思うところはあるだろうに、それをおくびにも出さない。大した精神力、そして演技力だ。――いや、演技ですらないのかな?」
玖凪の強さの一端を見た未知は、口元をゆるめる。
玖凪に魔術をかけることは不安もあったが、幸いにも危惧していた魔力の暴走はなく、怪我は完治した。未知と玖凪は賭けに勝ったのだ。
しかし、やるべきことはまだ残っている。その筆頭が『世界の狭間』に残置されたガードナーの罠の数々だ。あれを除去しないうちには戻ることもままならない。脱獄した6人の目的も結局不明のまま。やはり、ガードナーを生け捕りにできなかったのは痛い――。
「未知さん」
と。
後ろから澄んだ、しかしまだ幼さが残る声で名前を呼ばれる。
「お父さんが呼んでいるので、お手伝いしていただけませんか?」
コトリ弁当夫妻の孝行娘、美琴がじっとこちらを見上げて立っていた。今日も修行中の巫女さんのような凛々しさと愛らしさを備えている。
「うん、いいよ。ちょっと待っててね」
玄関に戻り外履きを脱ごうとした未知は、すました顔の美琴を見て直感的に気づく。
まだ付き合いは浅いが、案外どうしてこの娘は感情が表に現れやすい。
……今日の美琴ちゃん、ちょっとご機嫌斜め?
「美琴ちゃん、くりすちゃんのこと伝えるの遅くなってごめんね。ちょっとバタバタしてて」
くりすを泊めていたことを気にしているのかと思ったが、
「いえ、体調を崩されていた方を介抱して悪いなんて言えるわけがありません。くりすさんとは面識がありますし、お父さんもお母さんも治ってよかったと言っていました」
これは違うらしい。
では、
「いやー、それにしても、秋水くんも風邪をうつされて体調不良になっちゃうなんてね! コトリ弁当も忙しかっただろうに、お休みをもらっちゃってごめんね! 秋水くんの代わりに謝るね! ごめんね!」
「…………」
秋水の名前を出した途端、美琴の不機嫌オーラが増した。
ああ、やっぱり。
魔力を使い果たした秋水は玖凪よりも回復が遅く、やむを得ず仕事を休まねばならなかったのだ。
「別に、寒凪さんの体調不良だって仕方がないことです。それを怒るほど、私の度量は狭くないつもりです」
が、仕事を休んだことを怒っているわけではないという。
それ以外に何かしたかな? と未知が首をひねるのを見て、美琴は一つ、重い重いため息をついた。
「未知さん、寒凪さんが今朝早く出発されたことはご存知ですか」
「え、存じ上げない」
てっきりまだ部屋にいるものかと思っていた。今日は土曜日でそもそも仕事はないから、無断欠勤で美琴が怒っているというのも違うが――。
「実は寒凪さん、お父さんに借りていったものがあるんです」
苦々しげな口調で伝えられたその『あるもの』の名前を聞いて、未知はポカン、と口を開ける。そして――
「ふ、ふふ、ふふふ、あは、あははははは!」
想像もしていなかった秋水の行動に笑いが止まらなくなった。
「未知さん、笑いすぎです」
もう美琴も取り繕うことなく、素直に拗ねていた。たしかに、美琴が不機嫌になるのも無理はない。でも、阻止しようと思えばいくらでもできたはずなのに、それをしなかったこの娘はすごくフェアで潔い。
「み、美琴ちゃん。よかったの?」
「よくはないですが、私が口を出すことでもありませんので。お父さんも喜んじゃって、昔話なんてするんですから……もう本当にごめんですよ」
「ご、ごめん、ごめん。それにしても、いやー、だいぶ予想外だった。まさかねえ。そういうことだよねえ」
自分ができることは温かく見守ることだけだな、と未知はふにゃふにゃニヤける頰を抑えながら下宿の建物に入る。
背を押す爽やかな春の風と陽光を感じながら、たしかに得たものはあったのだと、その幸せを噛みしめながら。
「……未知さん」
後ろで美琴がもう一度未知を呼んだ。今後の展望と対処法の相談だろうか。
「未知さんと寒凪さんは――」
さっきと調子が違う、つかみどころのない声に未知は振り向く。
「……いえ、やっぱりなんでもありません」
逆光で、未知から美琴の表情はよく見えなかった。
ただ、美琴が最後にしようとした質問は、これまでの会話と本質が違うもののような、そんな気がしたのだが。
「思い過ごしです。忘れてください」
美琴は続けて中に入り、にこりといつもより幾分儚げな看板娘の笑みを浮かべた。




