エピローグ・1
土曜日。朝の空は雲一つない快晴。
街で人気の弁当屋・コトリ弁当も、休日は仕事勤めの人たちが来ないため比較的落ち着いていた。そのコトリ弁当の裏手、一般のお客さんは立ち寄ることもない別棟・下宿の玄関に、3人の人間が立っていた。
その中の一人、来栖くりすは、最近出来たばかりだが早くも美味しいと評判の洋菓子店の名前が入った紙袋を持っていた。普段はあまり見せることのない、しおらしい顔をしたままぺこりと頭を下げる。
「あの、いろいろとご迷惑をおかけしたようですみませんでした」
「そんなに大したことはしてないよ。むしろ、気にしなくてもよかったのに。わざわざ用意してもらっちゃってありがとうね」
紙袋を差し出した相手は、下宿の管理人である月影という若い女性。栗色の髪は朝日に照らされてうっとりとする輝きを発している。華奢なフレームの眼鏡はすっと鼻筋が通った顔にとてもよく似合っており、理知的な雰囲気を醸し出していた。黄緑色のエプロン姿は爽やかで眩しい。これが男子下宿寮だったら、入寮者が天を仰いで大興奮、大喜びすることは確実な、完璧な美人のお姉さんだった。
――彼女にお世話になっている親友の話では、「うちの新しい管理人さん、ちょっと……いや、かなり変わった人でね」とかいうことだったのだが。何処をどうしてそういう人物評になったのか、本人を前にしてくりすには検討もつかない。
「うんうん。くるちゃんが元気になってホントのホントによかった!」
当の親友、白南風玖凪は管理人の隣でニコニコと嬉しそうに笑っていた。服装はくりすとお揃いの高校の制服。玖凪はベージュ色のリュックを背負っていて、いつでも出発できる状態になっている。
今日は土曜日だが、くりすも玖凪も朝から部活がある。だからこうして、お礼の焼菓子を渡すのと、玖凪との待ち合わせ、2つの目的のためにくりすはこの下宿までやって来たのだが――。
そう、土曜日。
恐ろしいことに、今日は土曜日。
自分でも信じられないことだが、くりすには数日間の記憶がまったくない。正確には、水曜日と木曜日の出来事が丸々頭からスッポリ抜けている。気がついたら、この下宿のベッドで介抱されていたのだった。
後から聞いた話によると、自分は下校途中で体調を崩し、倒れ込んでいたところをたまたま通りかかった玖凪の下宿の管理人が運び込んでくれたらしい。玖凪の知り合いだということがわかり、下手に移動させるのも大変だったため、体力が回復するまで看病してくれたとのこと。
今では全快し、そもそも本当に体調不良だったのか怪しいほど元気だ。健康には自信があったはずなのだが、何が原因で記憶を失くすほど具合を悪くしたのか、その記憶すらない。
ただ、今週はあっという間に終わったなあ、と当たり前のことを当たり前のように思った。
「やっぱり季節の変わり目は体調崩しやすいって言うし。くるちゃん、知らないうちに無理してたんだよ、きっと」
玖凪はいつも通りのやわらかい雰囲気をまとい、こちらの身を案じてくれている。クリップでまとめられた特徴的な黒髪は彼女の動きに合わせてぴょこぴょこ揺れる。健康的で透明感のある肌、赤みが差した頰。
いつも通り、何一つ変わったことはない。
それなのに何故か――くりすは玖凪の顔を直視できないでいた。
迷惑をかけたとか、醜態を晒してしまったとか、そういう気持ちのせい?
それにしたって、これほどまでのいたたまれなさを感じるのは一体どうしてなのか。
取り返しのつかないことをしでかしてしまったような違和感。両手の感覚も曖昧で、まるで自分のものではないような気味の悪さだけが残る。
人に会うのにどんな顔をすればいいのか、ここまで分からないのは生まれて初めてだった。
「ねえ、玖凪。私、玖凪にすごい迷惑かけなかった?」
「うん? 気にすることないよー。体調不良は仕方ない仕方ない。それに、くるちゃんが助かったのは私より未知さんのおかげだし」
「えっと、そうじゃなくて、もっと……」
自分は何か、酷いことをしてしまったのではないか。
そんな言葉が喉から出かかったその時。
「くりすけ! お前復活おせーよ!」
「いづっ」
スパーン、とキレのいいど突きがくりすの側頭部に直撃した。酷い。どう考えても病み上がりの人間に対する仕打ちではない。
「何するんですか、荒木田先輩……」
振り返った先では、いつも通り制服をデタラメに着崩した荒木田が肩にカバンを引っさげて右腕を掲げていた。
「おっせーよ。いつまで寝てんだコラ。冬眠か、季節外れの冬眠中だったのか」
「人をクマみたいに言わないでください……それが可愛い後輩に対する復帰祝いの挨拶ですか」
「なんだったらこれを機に『くりすけ』から『くますけ』に改名するか?」
荒木田はにいっと悪戯っ子のような浮かべ慣れた笑みで、くりすの肩を右手に持つ丸めた冊子(ついさっき側頭部を攻撃してきた凶器だ)でパンッと叩いた。
「さー、今日からはガッツリ行くぞ。お前が来なかったせいで今週バラードの練習できなかっただろうが」
バラード。
その一言が、夢のようにぼんやりとしていた週始めの記憶をわずかに呼び戻す。
それより、今なんて?
くりすは我が耳を疑い、目を白黒させる。
私がいなかったから練習できなかった?
「え、バ、バラードは玖凪に頼むつもりだったんじゃ……」
「はあ? 何アホなこと言ってんだ。誰がそんなこと宣言したってんだよ」
対する荒木田は大層呆れた――まるでこの時代に天動説を唱える人間を見たかのような表情で、そして、自身の考えはこの世の普遍的な価値であり自明の理だという態度で言い切った。
丸まっていた冊子がしゅるりと開かれ、突き出される。
「うちのバンドの歌姫はお前しかいねーだろが」
最近何処かで見たような、濃い緑色の表紙。ゴシック体で書かれた文字。
それは、数日前荒木田が真剣に眺めていたバラードの楽譜だった。
「――あ」
ギュッと目頭が熱くなった。
わけわかんない。なんだこの先輩。普段はチャランポランなくせに。
溢れそうなものを我慢して、くりすは全力で笑う。
「――はい!」
微笑ましげに軽音楽部の2人を眺めていた玖凪が、玄関から出て軽いステップ、くるりとターンした。
「さてさて、そろそろ出ないと遅刻するよ! じゃあ未知さん、行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
よかったね、と荒木田に聞こえないように囁く声が耳に届いた。
玖凪は朗らかに、心からの喜びを込めて目配せをする。
その表情を見て、くりすは思った。
これから何があったとしても、自分は玖凪を裏切らないと。
必ず彼女の味方になると、誓った。
「玖凪」
「なあに?」
「もしも、もしも玖凪が、『絶対に手に入れたい特別な人』を見つけたら、言って」
「え、えっと?」
「――どんな手を使ってでも、成就させてあげるから」
「あ、ありがとう?」
強く強く、自覚のないまま、返さなければ報いなければと、そう思った。




