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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第5章・青の盾
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47/57

青の盾・1

 「『もう』と言うべきか、『ようやく』と言うべきか――5年っていうのは微妙な時間だよな」

 自らガードナーと名乗った元門番の男は、軽い調子で世間話を始めた。

 カラカラしているくせに粘り気を含んだ声は、不必要なほど響いて鼓膜を侵す。

 耳を塞ぐ手の自由も、今は奪われている。

 少しでも気を緩めれば叫び出してしまいそうな状況下で、秋水(あきみず)は必死にその衝動を抑えつけた。

 「俺にとっては取るに足らない時間だったが、こうして11歳だった子どもが成長した姿を見るとなかなかどうして侮れない。あのまま順当にいっていれば、君は立派な身なりでこの屋敷を管理する貴公子になっていたんだろうが」

 「! ここは……!」

 この屋敷、という言葉に反応して下を見る。

 場を俯瞰できる位置に吊るし上げられていた秋水は今さらながら気がついた。

 足元に広がっていたのは、真紅の絨毯が敷かれた何十人でも収容出来そうな部屋だった。

 むせかえるような、血のにおいが蘇る。

 何年経っても忘れられるはずがない。

 ここは、惨劇が起きたカーディナル家の晩餐の間――

「複製だよ、複製。残念ながら本物の屋敷じゃない」

ガードナーが口を挟んだ。

 「君にとっては幸運、俺にとっては不運なことに、ここはまだ『世界の狭間』だ。いや、『世界の狭間の狭間』と言ったほうが正しいか。なんにせよ、俺たちは『門』を通り損ねた――『月の宮』のせいでね」

 『月の宮』――未知(みち)の別称を出すと、ガードナーは吐き捨てるように言う。

 「本当に規格外な女だ。あれはね、俺が泣く泣く主義を曲げてまで手間暇かけて作った特製の『門』に魔力をぶち込んで変質させてしまった。一瞬で、ほんの一瞬でだ。ああいうことされると萎えるんだよなあ。才能ある人間は平気で人の労力を無に帰す。努力は外部からの攻撃にあっさり曲がる、だから嫌なんだ」

 遠くを見て怨嗟の声を漏らすガードナー。

 「――話が逸れたか。とまあ、その結果出来たのがこの空間というわけだ。内装がこうなったのは、あの場にいた俺たち3人が共通で保持していた記憶がカーディナルの屋敷だったせいだろう。まさか俺もこの舞台に再び立つ日が来ようとは思わなかった」

 「――未知は何処だ」

 「さあ?」

 ガードナーは感慨も感傷もなさそうに首をすくめた。

 「『月の宮』に作り変えられたとはいえ、あのルートはギリギリまで俺の支配下だったから。『世界の狭間』の何処かに飛ばしておいたよ。助けを期待しても無駄だ」

 希望をへし折る宣告。

 ガードナーは右腕を地面に対して水平に伸ばした。余裕のある表情でこちらを見上げて言い放つ。

 「君は魔術を使えない。知ってるよ(・・・・・)。しばらくそこで大人しくしていてくれ」

 休日の一件が脳裏に蘇る。秋水は落ちてくる看板から千佳を救えなかった。あの事件はガードナーにとって、秋水が抵抗なく魔術を使えるかどうかのリトマス試験紙だった。

 そう、あくまで体質に近い《赤戒(せきかい)(くさり)》ならまだしも、今の秋水に他の魔術は使えない。魔力や魔術を心理的に拒んでいる秋水がそれを使いこなせるわけもなく、さらに5年のブランクは習得した技術を風化させるのに充分すぎた。

 ガードナーの右手の先に銀の光が灯り、魔力が集まり始めた。

 (また『門』を作り出すつもりか……!)

 ここは『世界の狭間』の中に出来た空間だ。しかも、未知の魔力が混ざって変質したとはいえ、ガードナーの魔力が作り上げた『門』が土台になっている。『門』を作り出すハードルは格段に下がっていることだろう。

 ガードナーが計画をずらした未知に苛立ちを表しながらも、余裕のある表情を崩さないのは、軌道修正が容易な証拠に他ならない。

 『門』が出来てしまえば、ガードナーが用意していた当初のルートに強制的に戻される。

 わかりきった事実を再認識した途端、全身が総毛立った。それだけは絶対に避けなければいけない。

 体は束縛されている。抵抗しようにも為す術がない。

 ――だが、口を動かすことだけは許されている。

 「……随分と饒舌だな」

 秋水は縛めの根元に声を投げた。

 それはガードナーの集中を乱すための一言ではあったが、しかし、半分は引っかかりに対する純粋な問いかけだった。

 この男がこんなに流暢に話すところを、秋水は初めて見たのだから。

 屋敷の門番だったころ、この男は必要最低限のことすら話そうとしない、酷く億劫な人間だったように思う。猫背を正そうともせず、詰所の奥で屋敷の入り口を傍観する毎日。話しかけても大層つまらなそうにこちらを見てくるだけなので、幼い秋水は彼のキャラクターを理解する前に交流を断念した。

 それが今は、まるで別人のように口を回している。間違えても自分からは口を開こうともしなかった男が。

 「そりゃあ、延期されていた待望のイベントが再開されれば、祝杯がわりに騒ぎたくもなるさ」

 顔だけ振り向いたガードナーは目を爛々と輝かせて言った。

 「おまけに魔力も解禁された! やっと、思う存分思ったとおりに力が振るえる! これで喜ばないほうがおかしいだろう」

 「魔力の、解禁?」

 嫌な響きを放つ言葉に胸の奥がざわりとした。これは、未知も気にしていたこと。本来この男は、高度な時空間系統魔術を扱える能力を持ち合わせていなかったはずだった。

 それが何故、ここまで強力な魔術師に変貌したのか。

 「早い話が、全部君の一族のせいだ 」

 ガードナーは物覚えの悪い子どもを諭すように、空いた左手の指を上下に振った。

 「5年前、警備隊は『赤壊(せきかい)(くさび)』事件に対して最終報告を行った。内容はこうだ。『強襲者たちは、カーディナル家の血肉を得れば魔術の能力を引き出せるという妄執に取り憑かれた挙句事件を起こしたが、そのような効果は発生せず、確保されるに至った』……と。だが、それこそが最大の勘違いだった」

 傑作だよ、と喜々として話す。

 「効果はあった。カーディナル家の血は、飲んだ者の能力を跳ね上げる魔法の液体だった」

 その言葉を聞いた瞬間、秋水はこの男が自分に向ける視線の意味を理解した。

 勘違いではない。

 ガードナーは寒凪(かんなぎ)秋水を、人間としてではなく、唯一無二の有用なアイテムとして見ている――!

 体中の血液が危険を察して一気に冷たくなった。口の中はすでに乾燥して舌がうまく動かない。

 ――それでもまだ、訊くことを止めるわけにはいかない。

 「待て、それなら何故、5年間も能力が発現しなかった?」

 「だから、言っただろう? 解禁だって。そして、君の一族のせいであるとも」

 未知に向ける嫌悪に近しいものを込めて、ガードナーは言った。

 「君のご家族ご親戚一同は、殺されて血を飲まれる間際に呪いをかけたんだ。対象者の能力を封じ込める、一族お得意の魔術をね」

 「……!」

 特殊系統魔術《赤戒の鎖》。

 犯罪者を裁く司法の一族は、死に瀕してなお己の職務を全うした。

 才能を増幅させる魔血に対し。

 能力を減殺させる魔術を使って。

 打ち消した。上書きした。

 「凄い執念だよ。感心した。どれだけ仕事熱心なんだ。手枷までつけてたのに、あそこまで邪魔されるとは。おかげで俺たちの能力はプラスマイナスゼロになった。……正しくは少しマイナスか。結果、無様にも全員監獄行きになり、計画も頓挫しかけた」

 「でも、儀式なしで行った《赤戒の鎖》は定着力が弱い――」

 「そう! さすがに死んで5年も経てば、封印も弱まる。ようやく俺たちは、血の恩恵だけを受けられるようになったわけだ。5年の歳月も警備隊を撹乱できたのであれば悪くない。これですべてが元通り。あとはレールに乗ったコースターを押してやるだけでいい!」

 秋水は這い回る蛇がもたらす怖気を極力無視し、自分が覚えた違和感の正体を探ろうとする。

 ここまで、ガードナーとは会話が成立している。表面上はしているように見える。

 だが。

 絶望的なまでに何かが根底からずれているような。

 絶対的なまでに噛み合わず解り合えないような。

 この男の話を聞けば聞くほどそんな気がしてくるのは一体何故なのか。

 そして秋水は問う。

 ここに至るまでの経緯、最もその核心に迫ることを。

 「お前たちは、一体何が目的だ?」

 それは、警備隊ですらとうとう口を割らせることのできなかった答えへの問いだった。

 「それを俺に訊いたところで意味はないよ」

 対するガードナーは、その質問に重要性は見出せないとばかりに、つまらなそうな顔をする。

 「答えない」ではなく、「意味はない」と。そう言う。

 「俺たちは契約で結ばれた運命共同体ではあるが、同志ではない。目的はてんでバラバラだ。これから行うことがそのまま目的の奴もいれば、手段にすぎない奴もいる。対象は自身のためか、他者のためか。対価は精神的名誉か、物質的報酬か。笑ってしまうほど全部違う。さすがにものぐさなこの俺が、一人一人の抱負を代弁するのは過ぎた真似というものだろう」

 計画どころか動機すら語ろうとしなかった6人の犯罪者たち。

 あれだけの事件を共に起こしておきながら、その志は異なると。

 初めて明らかになった意外な事実は、秋水にある種の疑念を抱かせる。

 複数の人間が手を組むとき、その最たる理由になるものは利害の一致だ。だが、それだけがすべてというわけではない。性格、考え方、そして志。利害が一致していたところで、これらの相性が合わなければ修繕不可能な亀裂が生じるのは不思議なことではない。人間というのは損得勘定だけでは語れない、時に感情優先で動く厄介な生き物なのである。

 組む人数が多ければ、そして一緒に活動する時間が長ければ、尚更その傾向は強くなる。志が異なれば、いつの間にか足を引っ張りあっていたり信念を否定したくなったり、不和が起きるのはむしろ必然とも言える。

 それが、この犯罪者たちには見られない。

 警備隊に確保されるまでは順調に計画を進め、投獄された後も全員で無言を貫き、一緒に脱獄したかと思えば5年経った今でも昔の計画を再開させようとしている。

 同志ではない、そのくせ異常なまでに強固な結束。

 もしかすると、この犯罪者たちにとって、志などという曖昧なものはすでにどうでもいいものなのかもしれなかった。

 目的を達することが至上であり、そのためには志すら捨てられる。

 自らの意に沿わぬメンバーがいても、そういうものだと諦められる。

 これは中途半端な同志となって後で瓦解する仲良しグループよりも、タチの悪い組織ではないのか?

 「門番、お前の目的は何だ。何故こんなことをする?」

 全員分知りたいなどと、贅沢は言わない。

 ただし、この男の目的くらいは知らなければならない。

 深く問いただす秋水に、ガードナーはそう答えるのが当然で常識で世界の摂理だと言わんばかりの態度で、あっさりと、あっけらかんと白状した。


 「ラクしながらすごいことを為すためだよ」


 初めてガードナーと会話が成立しなくなった瞬間だった。

 「……は?」

 わざとぼかしているのかと思うほど、抽象的で具体性に欠く内容。

 しかしガードナーは、極めて真面目な顔をして話を続ける。

 「ねえ、イグニス。君は自分の能力に見切りをつけたことはあるかい?」

 赤銅色の目は秋水を見ているようで見ていない。今のガードナーは、過去に思いを馳せていた。

 「ああ、君のような生まれつきのエリートには解らないことだったか。俺はね、10歳くらいのときに自分の才能のなさを理解した。きっかけは忘れてしまったけど――、とにかく見切りをつけたわけだ。当時の俺は元素系統と強化系統しか使えなくて、しかも出来ることといえば薪に火をつけたり力仕事のために筋力を上げたり……一般人の中でも秀でたところのない、ただの凡人だった」

 元素系統と強化系統。

 この2つはあの世界に生きる人間にとってなくてはならない系統魔術だが、それはつまり必要最低限の素養であり持っているだけでは何の自慢にもならない。

 「せめて認識系統以上、申請を求められる程度の魔術が使えれば警備隊でも目指したんだろうが。俺にはその資格、才能すらなかった。こうして俺は退屈だが平和な一般人としてささやかな幸せを享受……できたらよかったんだがね。残念ながら、俺には決定的に致命的な問題が存在した」

 ガードナーの顔がくしゃりと歪む。

 「俺は『唯一』に成りたかった。世界の『特別』でありたかった」

 それは酷く子どもじみた独白だった。

 「持っているものは平凡な癖に、それに対する執着だけは人一倍あった。自分でも戸惑うくらいだったよ。大多数に埋没するのはどうしても許せなかった。俺は世界に影響を与えるような、後世まで名を残すような、そんな人間に成りたくて成りたくて仕方がなかったんだ」

 「なんだ、それ……」

 言葉の意味はわかる。そういう気持ちを抱く人間がいるということも、頭では理解している。

 それなのに、秋水はわかってしまった。

 最後まで聞いたところで、自分はこの男の理屈を受け入れることはないと。

 絶対に相入れないと。

 「俺は板挟みになった。すごいことを為す、すごい人間に成りたかった。でも、俺の才能ではどう足掻いても無理だと悟ってもいた。努力をすれば夢は叶うと言うが、あれは嘘だよ。世の中には越えられない壁というものが存在する。そりゃあ、努力すれば誰でも一定のレベルには到達できるだろう。だが、真に頂上を目指すのであれば、生まれ持った素質がものを言う。才能に恵まれた者とそうでない者、同じ努力を重ねた場合どちらが優位に立つかは誰が見ても明らかだ。――まあ、努力するのも才能のうち、なんて言葉もあるが。これまた残念なことに俺にはその才能もなかった」

 そしてガードナーは悪びれることなく、自身の行動原理を語る。

 林檎が目の前になっていたから捥いだ、とでもいうふうに。

 それを何食わぬ顔で原初の人間に勧めた、蛇のような目をして。

 「そんな理想と現実のギャップに悩まされてきた俺に、ある日、それを解消できる魅力的な誘いが飛び込んできた。自分の限界を超えた才能を引き出す術があると。さらにその計画に加われば、確実に世の中に名を知らしめることができると!」

 これが、理由。

 ラクしてすごいことを為したかった男は、特に疑問も葛藤もなく、その計画に参加した。

 カーディナル家に対する襲撃。

 『赤壊の楔』に。

 「ふ、っざけるな……!」

 秋水は思わず前傾姿勢になった。ぎりりと右腕の縛めがきつくなる。

 こんな状況でなければ秋水はガードナーに殴りかかっていた。

 一度は冷えた全身の血が熱く猛る。

 自分にもこんな感情があったのかと驚くほど、激しい怒りが秋水を支配していた。

 事件の直後、廃人同然となっていた秋水は、己が身に降りかかった理不尽から来る虚脱感に苛まれていたが、一方で『大罪人』に対して怒りや憎しみを募らせることはほぼなかった。まずは自身の精神安定を図ることが優先だった上、頑として動機を口にしない6人に対しては不気味さが先に来て、ふとしたときには「もしかするとカーディナルの一族には恨まれるような非があったのではないか」と考えすらした。

 それが今、男の口から直接語られたことが、長年燻っていた秋水の導火線に火を着けた。

 これはガードナーの理由であり、他の5人が何を考えているのかは知らない。しかし、たとえ一部であっても、自分の家族の犠牲の裏にこんな身勝手で意味の解らない理由が存在していることが許せなかった。

 否、この男の場合自分でも気づいていないのか、語った内容は本質から少しずれている。秋水が考えた通りのことがガードナーの本当の目的だとすれば、なおのこと許せない。

 怒りは体の中で練り上げられて、声の刃となって外に出る。

 「断言してやる。その計画とやらを完遂したところで、お前の目的は達成されない。お前は絶対に満足できないからだ」

 堰を切ったように流れ出す。秋水の冷静な部分は制止を呼びかけるが、もう止まらない。

 「『ラクしながらすごいことを為したい』? 笑わせるな、それはお前にとって目的じゃない。お前は、常に刺激を、快楽を求めているだけだ。お前の目的は『特別』になっていく過程に酔って満たされることだろう」

 「……なんだって?」

 ガードナーは半端に向けていた顔を直すと、理解できないという表情でこちらをしかと見る。

 元々のガードナーが抱いていた『すごいこと』とは、いい意味で歴史に名を残す英雄となることであったに違いない。

 だが、ガードナーは自分を見限ってその道を諦めた。

 そして代わりに提示されたのが悪い意味で名を残すこと。そのお膳立てをすんなりと受け入れた彼には、

「夢もプライドも理想もない。『すごいこと』なんて便利な言葉で誤魔化している時点でお察しだ。お前はただ、平凡な自分が望めなかった非日常的環境に身を置くことで喜んでいるだけに過ぎない」

 ガードナーは才能がある者に対して強い嫉妬心を抱いている。

 しかし、気づいていないわけがない。生まれながらに才能を得たところで、『すごいことを為す』どころか幸せになれる確証もないということを。それは皮肉なことに、彼が害したカーディナル一族と、秋水が身を持って証明していることである。

 すでに平均を遥かに超えた能力を得たガードナーは、立場としては『特別』な側に位置している。それでも未だに苦々しい感情を才能ある人間に向けるのは、単に羨ましいからだ。

 ただ、「お前たちは苦労もなく生まれながらにこんな景色を見ていたのか」と。自分が後天的に得た『特別』の快楽に浸りながら。

 ――しかしながら、その快楽には限界がある。

 ガードナーにとっては計画を進めている今が待ち望んだ状態だが、彼自身が述べた通りであるならば他の5人にとっては計画の先に意味がある。

 「計画が完遂されれば、お前の役割も重要なものではなくなる。せっかく得た『特別』も日常に成り下がる。達成感もなければ、新たな目標も掲げられない。だからお前の目的は絶対に果たされることはない」

 緩やかに腐っていくガードナーの日々を、その背後に確かに見た。

 ああ、本当に滑稽だ。

 秋水はガードナーを見下して、『特別』を背負った人間として軽侮した。


 「5年以上もやっていて気づかなかったのか。平凡で退屈でつまらない、ありふれた凡俗の徒が」


 屋敷の主は誰なのかを思い知らす厳格な声が、晩餐の間に毅然と響いた。

 反動でやって来た静寂はその余韻を抜き去ってしまう。

 「…………」

 ガードナーはブリキ人形のような動きで身体の向きをこちらへと変えた。右手を掲げた高さと、その先に集まる銀の光はそのままに。

 再度、顔を上空の秋水に向ける。

 ガードナーの顔からは、形容できる表情がすべて抜け落ちていた。

 それを見た秋水は瞬時に自身の行動を後悔する。いくら相手が許せなくとも、抵抗もできない立場で保身を第一に考えるのであれば、先ほどの一言は自重すべきであった。

 秋水の言葉は、この空虚な男を的確に抉り過ぎた。

 「ああ、面倒くさいな……君はお姉さんと違って合理的な考えが出来ると思っていたんだが」

 ガードナーは空いた左手を億劫そうに動かした。

 コートのポケットから新しい一本の蛇がズルズルと伸びる。

 伸びて、伸びて、秋水の顔の高さに来るとその動きは止まった。

 何を。

 何をする気だ。

 くすんだ灰色の長髪が大きく揺れるほどの乱暴な動作で、左手の人差し指を秋水に向けたガードナーは短く命じた。

 「少し黙っていろ」

 黒蛇が頭から秋水の口内に飛び込んだ。

 「――んッ! ――――――!」

 喉の奥で悲鳴が押し潰される。

 口の中に氷の塊を詰められたような、刺すような冷たさが走った。

 が、のたうち回る蛇が舌と絡むと、その感覚すらすぐになくなった。身体の中から麻痺して意識が飛びかける。

 吐き出すことなど到底無理だと理解する、圧倒的な暴力だった。

 「じゃあ、この俺をカッコ良く倒してみせるかい? カーディナルの御曹司。はは、無理だよな。何を勘違いしてるのかは知らないが、名前も魔術も捨てた君はすでに憐れな弱者に過ぎない。お返しに教えてあげるよ」

 いっそのこと、さっきの一撃で気を失ったほうが秋水にとっては幸せだったのかもしれない。

 明らかに気を損ねたガードナーは、無表情のまま秋水をなぶる。身体的にも、精神的にも。

 「『赤壊の楔』の後、カーディナルの生き残りである君は、あの国にとって厄介者以外の何者でもなかった。『月の宮』が付き添っているのは、君が少しでもおかしなマネをしたら始末するためだ」

 「…………!!」

 想像もしていなかった一言に、心臓が止まりかける。

 ガードナーはピンで留めた虫がもがくのを観察する子どものように、一瞬たりとも秋水から目を離さない。

 危うい狂気を孕んだ視線をじっと向け続ける。

 「カーディナルの職務を放棄し、しかも他の世界に渡りたいとまで言い出した君の存在は、国のお偉方にとっては俺たち以上の脅威だった。『国がしっかりしていなかったせいでカーディナルは犠牲になった』とか逆恨みされて、他の世界で力をつけてクーデターを起こされるーーこの可能性を否定出来る材料は何処にもなかったからだ。それでもカーディナルは王家に次ぐ第2位の家柄な上、これまでの貢献も無視出来ない。悲劇の一族の生き残りという同情の要素もあった。だから止むを得ず『月の宮』がついてきたんだよ」

 そんなわけがあるか、と声にならない叫びが体の中で暴れる。こんな男の言うことをやすやすと信じるほど、未知との絆は浅いものではない。5年の歳月は未知が信頼できる人物であることを証明している。

 ――だが、秋水はガードナーの言葉の中に真実のにおいも嗅ぎとってしまう。

 未知にそのつもりはなくとも、秋水の危険性を考慮して未知の同行を許可した人間たちが裏にいることは、おそらく事実だ。

 「そして、もう一つ。『カーディナル家の血を摂取したところで何の効果もない』というのが5年前の結論だったが、それを疑う声も存在した。その心配は的中したわけだが。万一君が死んだ場合、血を悪用される前に遺体を完全に消滅させる必要があった。『月の宮』は火葬場の役割も備えていたんだ。――気づいたかい? 君は『月の宮』が近くにいなければ自ら死を選ぶことも出来ない」

 その追い打ちは秋水を絶望に叩き込んだ。

 秋水は積極的に死を望んでいるわけではない。

 しかし。

 最後の手段として。

 もしも自分の存在が『大罪人』の計画の要になっているのであれば、その成就を妨害するために死ぬことは選択肢の一つに入っていた。

 『赤壊の楔』以上の事件が引き起こされ、あれとは比べ物にならない犠牲者が出ることになれば秋水は今度こそ耐えられない。だからそのときは自ら幕を引くと。

 が、血の効果を知った今、話は変わってくる。

 このまま自害してしまえば、強力なドーピング効果のある危険な血が丸々敵の手に渡る。

 生きている必要があるのか、血だけで足りるのか。それは不明だが、計画を妨害できたとしてもこの狂った集団が手に入れた血をそのまま保管しておくはずもない。むしろ、計画が成功しなかった腹いせに、血を使って被害を拡大させる危険性もある。

 死んだ後のことなぞ知らないと、投げ出すことが出来ればどれほどよいか。

 しかし秋水にはそれが出来ない。責任感が邪魔をする。血が処分されることが前提でなければ死を選べない。

 すなわち、これからどんな責め苦を受けても楽になることが出来ないということ。その宣告自体が、すでに耐え難い拷問だった。

 「可哀想に。君の人生は雁字搦めだ。生きることも死ぬことも自由にならない。そうそう、舌を噛み切って自殺するというのは、実は意外と難しいことらしいよ。――今の君の状況じゃあ、そもそも無理だがね」

 「――――――――――」

 口内に侵入した蛇は喉の手前まで潜り込んでいた。じわりと脂汗が流れる。死なない程度の、だが考えうる限り最低最悪の加虐を受けて精神が摩耗していく。

 するりとまた、一本の蛇が上へと伸びてくる。

 その蛇は、創られた存在であることを如実に語る形をしていた。先の形状が変形し、他のものとは異なっている。

 細長い胴体の先にあるのは蛇の頭ではなく、鋭い刃を持ったナイフだった。

 束縛の蛇たちはさらにきつく巻きついて、もがき苦しむ秋水の頭部を固定した。

 無防備に晒された首筋に刃があたる。

 「――! ――――!!」

 動いているのか疑わしいスピードで。

 秒針の動きよりもはるかに遅く。

 しかし確実に。

 じっとりと。

 ねっとりと。

 首筋に刃が押しつけられる。

 「…………ッ」

 押し返す肌の弾力が負けて、刃が皮膚を突き破った。

 見えなくても、はっきりとわかる。

 血が、流れている。

 ナイフの蛇は滴る血を土産にガードナーの手元に戻る。

 赤い液体を人差し指の先ですくい取ったガードナーはよく熟れた木苺のジャムを味見するようにそれを舐め、そして破顔した。

 「うん――美味しい」

 おぞましいという言葉の意味を秋水は初めて体感した。

 この男はもう手遅れだ。人の形をしていようが同じ言語を操っていようが、この男はすでに人間を辞めている。奇怪な生き物に変質している。

 「――おっと、おしゃべりはここまでのようだ」

 ガードナーの右手の先に『門』が成る。そのタイミングは計ったように秋水の血を舐めた直後だった。

 秋水の身体に絡みついた蛇の大群は一斉に、ゆっくりと降下を始める。

 「大丈夫、心配することはない。倉庫番の奴が随分君にご執心だったからねえ。きっと可愛がってもらえるさ」

 水銀の光が満ちた『門』に飲み込まれる時が刻一刻と迫る。

 視界は次第にぼやけて景色が滲む。

 意識を自己の内面に避難させた秋水は、最後にこれまでの人生を断片的に垣間見た。

 カーディナルに生を受けたこと。

 屋敷での暮らし。家族との温かい生活。時に横暴で、しかし誰よりも輝いていた姉。

 希望や未来を持っていたはずの自分。

 それが、『赤壊の楔』以降はぷっつりと途切れる。

 この5年間を振り返ろうとして、振り返る中身が何もないことに愕然とした。

 何もない。

 何も、為し得ていない。

 鈍くなっていく思考のすみで納得している自分もいる。それもそうだ。まさに自業自得。これは望むことを放棄した、人生を浪費することをよしとした、罰に違いないのだから。

 5年間に意味はなかった。

 こうやって同じ結末に帰ってくるのであれば、あのとき敵の手に落ちていたとしても変わらない。

 瞼が赤い瞳を覆い隠そうと重くなっていく。

 途切れていく意識の中で、最後の最後に秋水は未知のことを思った。

 美しく聡明な、そして誰よりも優しい、旅の同行者。

 こんな無意味な終わりに付き合わせるために、5年間も彼女の時間を無駄にしてしまった。

 (ごめん、未知……)

 やはり無理だった。秋水はイグニスであることから逃れられなかった。

 光を失った双眸が閉じられる――。


 「…………………………?」


 不意に。

 頭上に揺らぎのある光影の気配を感じ取る。今にも落ちるところだった瞼がすんでのところでわずかに持ち上げられた。

 頭上で輝いているのは天井を彩るステンドグラス。色とりどりの精緻なピースが寸分の狂いなく敷き詰められている。

 そこに近づいてくる影。

 それは、水中を優雅に、かつ素早く泳いで迫る、イルカのものにとてもよく似ていた。

 影が大きくなるにつれ、さらに別のものが秋水の感覚――聴覚を活性化させる。

 「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 声だ。少女のものとおぼしき叫び声。可憐な声には似つかわしくない強い決意がみなぎっている。

 影と声の大きさは比例し、対象はどんどんこちらへ近づいてくる。

 まさか。いったい何故。

 しかし、これは――気のせいなどではない。

 「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!」

 とうとう影と声はステンドグラスをブチ抜いた。

 一度は閉じかけた瞳で秋水が瞠目する中、彼女は空から降ってくる。

 至るところに巻かれた真っ白な包帯。着るものを選んでいる暇はなかったのか、身を包んでいるのは替えのブラウスにスカートという簡易なもの。その軽装は少女のしなやかな肢体を惜しげもなく見せつける。

 下ろした漆黒の髪は艶やかに輝き、持ち主の背中で上質な絹織物のようにたなびく。砕けたガラス片がまわりをキラキラと舞ってティアラ以上の煌びやかな装飾と化していた。

 大きなサファイアブルーの双眸は大広間の様子を俯瞰すると澄んだ光を発する。

 天使というには勇ましく過激で。

 戦神というにはしとやかで華奢。

 白南風玖凪(しらはえくなぎ)は何人も目を逸らすことの出来ない強烈なインパクトを伴って晩餐の間に突撃した。

 「いっっけえええええええええ!」

 咆哮。玖凪はくるりと頭の向きを下にすると左手に渾身の力を込める。掌底に清い青光が集まると、それはすぐに空色の盾となった。釉薬をかけた陶器の如くつるりと滑らかで、優雅な花を象った金のレリーフがシンメトリーに施されている。

 自分の体をすっぽりと隠すその盾をミサイルの弾頭にして、玖凪は勢いもそのままに下に突っ込んだ。

 秋水とガードナーの間、すなわち、秋水を拘束する蛇の長い胴体が渡っている空間に。

 「なっ……!?」

 情け容赦一切無く、玖凪の盾は蛇の群れを上から押し潰して叩き斬る。ぐしゃしゃしゃ、と水っぽい音が辺り一面に響いた。

 胴を潰され、ガードナーからの魔力の供給を断ち切られた蛇たちは、ボロボロと土人形のように崩れていく。

 呼吸ができる。腕が動く。束縛から自由になった秋水の体は、崩れゆく蛇たちと一緒に床へ向かって落下を始めた。

 「寒凪さん! 手を!」

 宙で玖凪は秋水に空いた右手を伸ばす。

 その必死の表情を見て、秋水の体は反射的に動いていた。

 まるで、何年も前からこうなることがわかりきっていたかのように。

 親指の腹で首筋の血を素早く拭い、その手で玖凪の手を取る。

 パチッ、とパスが通る音。血を媒介にして秋水と玖凪が深いところでつながる。

 瞬間、玖凪の黒髪が青く輝いた。

 彼女の瞳の色を写し取ったような、海の神秘を練り込んだような、美しい鮮やかな青。

 そしてカーディナルの血は、才能は、見た目以上の変化を玖凪に与える。

 「お願い! 盾よ!」

 玖凪の声に呼応して、左手の盾が一際強い光を纏う。

 限界まで引き出されて調整された玖凪の魔力が、圧倒的不利な状況を覆すために迸った。

 「私たちを守って!」

 巨大化した盾は広間を2つに分断した。盾、という言葉はすでに適切ではない。玖凪が作り上げたのは蟻一匹通す隙間のない、まさしく壁だった。

 盾のときよりも深みのある色。吸い込まれそうな紺碧。神が創り出した聖遺物と言われても信じてしまう、神々しい光。

 崩れる大量の蛇がクッションがわりになり、秋水は負傷を免れる。下から見上げることで、そそり立つ壁のデタラメな大きさが改めて実感できた。唖然としてしまうほど荘厳な、絶対的防御結界だった。

 「やはり、殺しておくべきだった……!」

 隔てられた壁の向こうで、とうとうブチ切れたらしいガードナーが怒号をあげている。攻撃を加えているのか、連続した打撃音が聞こえるが、強固な壁は微動だにしない。

 「今のうちです!」

 右手を握ったままの玖凪が秋水を引っ張り上げた。

 訊きたいことは山ほどあった。が、今はこの場を離れることが先決だ。

 秋水は玖凪と顔を見合わせると、後ろにあった出入口を抜けて危険な晩餐の間を脱出した。

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