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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第4章・消えない傷跡
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消えない傷跡・5

 禁術、と呼ばれるものがある。

 名前の通り、訳あって使用を禁止されている魔術のことだ。

 禁術を使用できる素養を持つ者は国への報告が義務付けられ、止むに止まれぬ事情があったとしても申請と許可がなければ力の行使ができない。というよりも、基本的には申請しても許可がおりることはほぼない。うっかり許可なしに使用してしまおうものなら、まず監獄行きは免れなかった。

 時空間系統異世界移動魔術はその中でもトップクラスのタブーの1つだった。

 異世界移動魔術が禁術指定を受けたのには、大きく2つの理由がある。

 1つ目は使用者を蝕む副作用があるため。

 異世界移動の際、術者は『門』を出して世界を渡る。『門』を潜ればすぐに別の世界に着く、というわけではなく、しばらくの間2つの世界の狭間を漂うことになる。このとき、目的の世界に近づけば近づくほど、その世界が内包している一般常識や言語といった情報が体に染み込んでくる。これが異世界移動の副作用だった。

 一見、この副作用は術者にとって非常に有用である。なにせ、新しい世界のことが到着した時点で知識として蓄えられているのだ。勝手が分からずに戸惑うようなことはまずない。これだけ見ればメリットしかないように思える。

 だが、それは2つの世界間のみ移動した場合の話。

 問題になるのは、複数の世界を渡り続けた場合だ。

 新しい世界へ渡るたび、その世界の情報が染み込む。

 渡る、染み込む、渡る、染み込む……。

 これを繰り返すうちに術者の中では複数の『常識』が混ざり、何が何処の『常識』なのか判らなくなってくる。最終的には何処の世界にも適応できない人間が出来上がり、廃人となって死ぬほかなくなるのだった。

 中でも恐ろしいのが、残虐行為が平然と行われているような劣悪な世界に移動してしまった術者の末路だ。その『常識』が染み付いた人間は、他の世界でも当たり前のように残虐行為に及ぶ。大昔、異世界移動が禁止される前には、それが原因で殺人を犯して狂い死にした者がいたという記録が残っている。

 これに関連して、2つ目の理由。そういう狂ってしまった人間に、強襲されることを防ぐため。

 テロが『常識』として染み込んでしまった人間が他の世界を巡り、偶然魔術が対抗できない術やスキルを身につけ、それを手土産に帰ってきてしまったら? 結果は火を見るより明らかだった。

 術者の安全と世界の保全。この2つのために、異世界移動は固く禁じられてきた。

 よって―― 。

 少年の願い――『魔術のない世界に行きたい』――を叶えるために、ディアナは一生分の無茶をした。

 自分がもつ人脈をフル動員、いろんなところに根回しをし、権力を濫用、頼み込みで無理とわかるや脅しすかし籠絡――とありとあらゆる手段を用いて異世界移動を実現させた。

 ちなみに、後で当の少年にその一部を聞かせたところ、聞かせたことを後悔するほどドン引きしていたことから内容の激しさがわかろうというものだが、それはまた別の話。


 「目的座標にズレなし。無事に到着、と」

 数時間にわたる移動を経て、日の光を浴びたディアナは空を仰ぎ見た。それほど強い日差しではない。薄雲の向こう、遥か遠くで輝いている太陽の様子から、今は明け方なのだろうと推測することができた。

 空気は冷たく、肌に容赦なく突き刺さる。長袖にコートを着てきたのは正解だった。どうやらこの世界も冬のようだった。

 「大丈夫? 体調が悪かったりしない?」

 『門』をくぐり抜けて放心している少年に手を差し伸べる。異世界移動は知らず知らずのうちに体力を消耗するから、たくさん運動した後のようになるのも無理はない。

 少年はディアナの顔を見ると我に返りゆっくりと頷いた。十分とは言えないが、官舎の病室にいたころよりも確実に人間らしさが戻ってきていた。

 「えーっと、うん。何か喋ってみて」

 「…………?」

 突然のディアナの要求に、少年は困惑の表情を浮かべる。これはさすがに言い方がまずかったか。

 「ああ、ごめんごめん。それじゃあ、こっちの質問に答えてね。頭が痛かったり、怠かったりしない?」

 「……少し体は重いですが、耐えられないほどでは。頭痛はしません」

 「よろしい。『門』の中で妙なものを見たり、触ったりは?」

 「特に何も」

 「ふむふむ。それではもう一つ。日本の首都は何処?」

 「東京。…………? ――!?」

 知らないはずの単語が出てきた少年は怪訝な顔で、自分の口元を押さえた。さらに気づいたはずだ。今操っているのが聞いたこともない言語だということに。

 「驚いた? これが異世界移動の副作用だよ。試しに前の世界の言葉を話してみるといい」

 少年は恐る恐る口を開く。この歳まで何気なく使っていたはずの言語が、意識することで初めて音になって流れた。こうして改めて聞くと、ケトルから漏れ出た湯気のような、室内に吹き込む隙間風のような、つかみどころのない音を纏った言語だった。

 「さて、まずは人がいる場所に出ないとね。いろいろ換金する必要があるし、この服も変えたほうがいいだろうから」

 通報されてしまうレベルの奇抜な格好ではなかったが、この世界の『常識』からは間違いなく浮く。あちらの世界の服装はフォーマルすぎるのだ。

 2人がいるのはうっそうとした林の中だった。霜が降りた周辺にひと気はない。街まで辿り着くには少々時間と労力がかかりそうな場所だった。

 「……何故、こんな場所に『門』を?」

 「こんな場所、だからだよ。街の中で『門』を開いてしまったらこっちの世界の人たちは大騒ぎだ」

 「異なる世界の地点、その詳細まで見通していたんですか?」

 「そんなに大袈裟な話でもないよ。この場所をピンポイントで狙ったわけじゃなくて、あくまで『人がいないような場所』を指定しただけだから」

 少年の質問に答えながらディアナは草木をかき分ける。

 「やー、思った以上に辺鄙な場所に出ちゃったなあ。これ、林っていうより山? とりあえず大きな道路探して、それに沿って行けばいいかな。車とか鹿とか熊とか気をつけてね」

 「……慣れてますね」

 「実はこの世界に来るのは2回目なのさ」

 「2回目?」

 不可能なはずのことをさらりと言うディアナに、少年は目を瞬く。あれよあれよという間に同行者となった彼女について何も知らないということ、そして、彼女の特殊性に気づき始めていた少年はここでようやく問うた。

 「貴女、いったい何者なんですか?」

 「んー、それはまあ、後でゆっくりと」

 ディアナは特段、はぐらかしたくて答えを保留したわけではなかった。ただ単純に、その目に林の境目が写ったから。向こう側が見えたとき、意外な光景に思わずほぅとため息が出ていた。

 林の先は拓けた場所になっており、そこが切り立った崖の上に位置しているということがわかった。

 眼下に広がっていたのは、雄大な海だった。

 薄縹の水面は凪ぎ、鏡のよう。遥か彼方、水平線では雲の隙間から覗いた太陽の光が反射し、その部分が小さな宝石を散りばめたように輝いていた。

 視界の中に動くものは何もない。張りつめた冷気が静寂をもたらし、時間が止まっているような錯覚すらある。

 小さなことで悩むのが馬鹿馬鹿しくなる、圧倒的な光景だった。

 これは、この世界に来た自分たちに対する歓迎か、洗礼か。魂の底にこびりついた汚泥をすすぐ感覚が襲う。それほどまでに、人の心を掴んで離さない絶景だった。

 2人揃って無言のまま海に向き合う。

 「……寒凪(かんなぎ)――寒凪はどうかな?」

 しばらくして、ぽつりと、ディアナは口を開いた。少年は海に惹きつけられて赤い目に景色を写し取っている最中だったが、自分が話しかけられたことに気づいてこちらを見上げる。ディアナ以外の人間にはわからないだろうが、これまでになく頬が上気していた。

 「どうかなって、何がですか?」

 「君のファミリーネーム。名字だよ。この国の文化は我々の文化と少し異なるようだから、なるべく近い感覚の名前を付け替えたほうがいいんだけど――」

 異世界移動魔術が禁止される以前、名前付けに悩んだ移動者たちは1つのジンクスを作り上げたのだという。

 すなわち、移動して最初に見たもの・景色から名前を貰うという方法を。

 新しい世界で初めて見たものには縁がある。その縁がその世界の自分を守り続けてくれるという、一種のおまじないだった。

 「寒凪、寒凪か……」

 今一度海を見ながら少年は呟く。彼は、この景色を目の当たりにしながらその名を拒絶する無粋な人間ではなかった。どうやらお気に召したらしい。

 「貴女も寒凪にするんですか?」

 ふと、少年はディアナに訊ねる。

 「んー、それも魅力的ではあるんだけどねえ。もう少し直接的な名前のほうがいいかな」

 名前は魔術を扱うための重要な要素だ。「自分はこういう人間だ」というアイデンティティが魔術を強化する。故にあの世界では使用する魔術と関連する名前を持つことが当然で、名前の剥奪が罰に値するのだった。

 少年の場合はもう魔術を使うつもりなど毛頭ないだろうから幸先のよい名前をつければそれですむが、自分のほうはそうもいくまい。

 魔術の質を出来るだけ落とさない名前を考える必要があった。

 「まあ、私のほうは追い追い考えるさ」

 「名字、は寒凪として、下は?」

 歩き始めたディアナに向けて少年は訊ねる。ディアナが振り向くと、名残惜しいのか、少年の足はその場から一歩も動いていなかった。もしかすると、禊に適したこの場で忌まわしい過去の名と訣別し、新しい名を受け入れたいという意志が働いたのかもしれない。

 下の名、か。

 「――それくらいは自分で考えるべきだよ。この世界で生きていくのは君であって、責任を持つのも君自身なのだから。これからずっと苦楽を共にする名を私がすべて決めてしまうのもね」

 「……どんな名前でもいい?」

 「もちろん、それが君の望みであれば」

 「じゃあ――秋水(あきみず)

 思いがけず、その名はすぐに彼の口から出てきた。

 最初、ディアナはぼんやりと「変な名前だなあ」と思った。次に、「元々の名と正反対じゃないか」と考え、ここでようやく遅ればせながら少年の意図に気づいた。

 『秋』は季節。順番でいうなら、冬の前。そして、あの事件が起きたのは冬。すなわち、「秋のうちに気づけていれば」という後悔。

 『水』は要素。火・赤と対極にあるもの。「この血さえなければ」という悔恨。

 (……たしかに望みであればいいって言ったけどね)

 せっかく幸を運ぶような名字をつけたのに。見るたびに、聞くたびに、呼ばれるたびに、痛みを思い出してしまう名を自ら掲げるのか。責らしい責もないのに。

 ディアナは少年の顔を見つめる。人間らしさを取り戻している最中である彼の表情は未だにぎこちない。しかし、赤い瞳は、かすかながら確かな光を有していた。

 これは確固たる意志の元、彼が自らに課す贖罪だった。

 この子はどんなふうに成長するのだろうか? 忘れないよう、背負った果てには何がある?

 本当はこのとき、ディアナは言うべきだったのかもしれない。もっと自分の幸せを考えた名前をつけろと。

 が、回復してきた彼の自我が決めたことをどうしても否定することができなかった。

 だから彼女はその代わり、少年の手を握って引いた。優しく包み込むように、力強く。

 君が望むなら、君がつけた名前で呼んであげる。そして、その名で過ごした日々がいい思い出で溢れかえるよう、手助けしてあげる。

 「行こう、秋水くん?」

 壊れかけてガタガタの、彼の行く末に幸あらんことを祈りながら。

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