消えない傷跡・4
穢れなき白。
窓のない病室は廊下と同じ色で塗りたくられていた。
それほど広くない個室のはずだが、のっぺりとした白色のせいか寒々しいほどの距離を感じる。と同時に息が詰まるほど閉塞的で、自分の立ち位置を見失ってしまうような怖さがあった。
無機質な空間。しかしそこには例外が存在していた。
コントラストが映える、鮮烈な赤。
見逃すことを許さない、高貴な真紅。
ベッドの上で上半身を起こしている少年の髪と瞳は、血の色を有していた。
しかし――その彼の様子は空間以上に無機質だった。
焦点の定まらない目はぼんやりと虚空を眺めていてディアナに気づいたふうでもない。
何も知らない人が見たら「何故人形を点滴につないでいるのか」と不思議に思う可能性すらあった。
下手に触れれば砂糖菓子のようにほろほろ崩れる脆さをともなって、その少年はただそこに存在していた――生命力や意志といったものとはまったく無縁な状態で。
「やあ、調子はどう?」
ディアナは少年に声をかける。
「…………」
案の定、反応はなかった。
仕方がないのでベッドの横に置いてある椅子に腰かける。すでにこの席はディアナが座るためだけに用意された特等席となっていた。
こちらを振り向きもしない少年の横顔をすぐそばで観察する。
キメの細かい肌は蝋のように白い。男の子にしては長い睫毛の下にはうっすらと影が落ちていた。歳は11だったか。本来あどけなさが残っているはずの顔からは感情をはじめとした大事なものがごっそりと抜け落ち、しかし、何もない故の美しさは寒気がするほど魅惑的で、見る者を引きずりこもうとする引力を持ち合わせていた。
「君は一体何を考えてるのかなあ」
ディアナはわしゃわしゃと少年の頭を撫でる。されるがままに、少年の頭は左右に振れる。
「分隊長やルチアが言うには、私と君は似てるんだってさ。秘蔵っ子っていう立場的にはそうかもしれないけどねえ。でも正確には、私は君と同じ体験をしたわけじゃないから、気持ちまでは分からないんだよなあ」
少年の頭から手をそっと離した。さらさらした赤髪が指の間をすり抜けていった。
「――君は、7人の女神の話を聞いたことがあるかな?」
語り聞かせているのか、独り言なのか。半分半分の調子でディアナは呟いた。
7柱の女神の話。
魔法の成り立ちを説明した、この国で一番有名な神話。
曰く、神が世界を創造した後、彼の7人の娘たちが人間に贈り物を施すことにした。
1番目の娘は、火や水、風に雷、土を操る力があれば便利であろうと考え、元素系統魔術を授けた。
2番目の娘は何よりも力を重視し、強化系統魔術を。
3番目の娘は知りうることが尊いとして認識系統魔術を与え。
4番目の娘が選んだのは想像に魔力で形を与える現出系統魔術。
5番目の娘は時と空間に干渉できるように時空間系統魔術を編み出し。
そして6番目の娘は秩序を重んじたために、契約系統魔術を施した。
ここで困ったのが7番目の娘だった。
彼女は強力な力の持ち主だったが出力が酷く不安定で、魔術を使うと何が起きるかまったくわからないビックリ箱のような有様だった。
散々悩みに悩み、最終的に彼女はその力を不安定なまま地上にばら撒いた。
7番目の娘の力は一部の人間に宿り、それは特殊系統魔術と呼ばれるようになった――。
「とまあ、そういう話なわけなんだけど」
ディアナはどこか自嘲気味に笑う。
「君くらいの歳のとき、私はちょっと――いや、かなり捻くれててね。この話を聞かされたときも『なんてくだらない嘘っぱちなんだ』って思った。だって現実には、一般の人たちが使えるのは元素系統や強化系統がいいとこで、契約系統なんて個人で使ってる人なんていやしない。それを同率に語っているところが不自然だったし、特殊系統を持ち上げたいようなところも透けて見えて『こんな神話作るな』って敵愾心バリバリだったよ。世界に対して全力反抗期だったんだねえ」
本当に可愛くない子どもだった。あのまま大きくなっていたならどうなっていたことやら。
「――でもね、私には兄がいて。兄と言っても双子なんだけど。その人が私に言ってくれたんだ。『悔いなく生きるためには誰の許可も必要ない。生きる意味は自分で見つけていいんだ』って」
そのときのことを思い出してディアナはわずかに微笑む。
「だから私は、今の私でいられる。そういう人がいてくれて、今の私が形作られたんだ――ねえ、君を形作ったのはどんな人たちだったのかな?」
ディアナはここで頑なに握り締められた少年の手を開き、その上に持ってきたものを置いた。
それは、精微な細工が施された金のペンダントだった。
「あの屋敷に落ちていたもので、唯一君に渡せそうだったから持ってきたんだけど――心当たりはある?」
変化は劇的だった。
これまで反応を示そうとしなかった少年の目が、ペンダントを捉えた瞬間見開かれた。それは普通の人間であれば注視していなければ気づけないほどのわずかな差だったが、この1週間まったく相手にされてこなかったディアナからすれば、彼が生物だと初めて証明してくれる印だった。
少年はしばらくそのままの状態で固まっていた。
今度はこの表情のまま固定されてしまうのでは、とディアナが思い始めたころ。
「――あ」
少年の目がゆっくりと瞬きしたかと思いきや、その両目から澄んだ涙がこぼれ出した。
涙はとめどなく溢れて頬を伝い、真っ白なベッドシーツに染みを作る。
少年は嗚咽を漏らすことなく、表情を変えることもなく、ただ静かに、涙を流し続ける存在と化した。
ディアナには解った。
現実を受け入れられなくて、意識の狭間をたゆたっていた彼。その船であった殻がようやく割れて、今こうして涙として外に出てきたのだと。
このペンダントはきっと、少年を形作ってきた誰かのもの。それが殻に衝撃を与え、離れつつあった彼を世界につなぎとめたのだ。
これは、彼が帰ってくるためには必ず通らなければいけないプロセスだった。
しかし、仕方が無いことだったとはいえ、引き戻された彼の痛みを目の当たりにして、これを促してしまった自分に罪悪感を抱かずにはいられなかった。
生き残ってしまった――生き残されてしまった少年は、一体その小さな体の何処に溜め込んでいたのかというほどの涙を流し続け、やっとすべてが出尽くしたとき、
「……お願いが、あります」
初めて意思疎通できる言葉を発した。
かすれてはいたが、存外落ち着いた声だった。
続けてその内容を聞いたディアナは数年間分の驚きを消費し、彼のお願いが生半可なことでは実現しそうにないほど困難なこと、そして、それを叶えてあげられそうなのが自分しかいないようだということを認識した。
少年の世話係というのは上から命じられたことではあったが、それがなくてもディアナは自ら少年に関わろうとしただろう。しかし、どこまで踏み込んでいいものか遠慮のようなものもあった。
が、少年本人からの頼みがそれをすべて取っ払った。
私にしかできないことならば、私が叶えてあげよう。
使命感、責任感、罪悪感、愛情、憐憫、保護欲、投影、好奇心、現実逃避。堂々と言えるものから、あまり表には出せないようなものまで。ディアナの中で一言では言い表せない様々な感情や理屈が綯い交ぜとなっていっぺんに膨れ上がった。
ディアナの中の優先順位が大きく変わり、少年の行く末を見届けることが不動の一番にすり替わった瞬間だった。




