消えない傷跡・6
未知が秋水の欠陥に気づいたのは、共に過ごし始めてからどれくらい経過したころだっただろうか。
劇的な出来事があったわけではない。武勇伝とか感動秘話とか、そういった類のものとは一切関係がない。
ただ、推理小説の犯人が自然に判ってしまったときのように、川の水が川上から川下に流れるのは当然だと知っているように、そういうものなのだという実感が未知に訪れた。
秋水は、何も求めない。
目標に向かう向上心も、何かを成し遂げたいという発起心も、気分転換を支える好奇心すら、何もない。
生きていくのに必要最低限のことを淡々とこなしていくだけ。
やりたいことがない無気力な人間というのは当然どこの世界にもいるものだ。行動を起こしていても本当に自分がしたいことなのか、漠然としている人間だっているだろう。
だが、そんな彼らと秋水の間には決定的な違いが存在した。
目的がない、何をしたいのかわからない。そんな人間はない人間なりに、自分に対して焦燥や劣等感を、成功している人物に対して嫉妬や羨望を、心の何処かで抱いている。この状態は好ましくないと、居心地の悪さを感じている。どんなに小さくとも自覚がなくとも、必ず。そして、この閉塞を打ち破ってくれる何かの登場を夢見たりしている。
秋水にはそれがなかった。
皆無と言ってもいい。
能動的な興味がないことが普通だと普通に捉えていた。
喜怒哀楽はある。仕事に対する責任感もある。他者への思いやりもあるし、恐怖や驚きも抱くことができる。
ただ、自分から欲することが根こそぎ欠けていた。
未知は事件以前の秋水を知らないため、元々彼にそういう傾向があったのかは分からない。だが、あの事件が秋水の内面に大きな影響を与えたことは疑いようもなかった。
何も求めない秋水の唯一の例外、願いは、魔力や魔術が存在しない世界に移ることだった。
あの世界に充満する魔力や魔術に嫌気がさしたというのは十分理解できる。あの手の現場に慣れた大人でさえ吐いてしばらく寝込む惨状を進行形で見せられて、しかもその対象が愛する家族で、逃避したくならないほうがおかしい。
しかし、それは秋水が異世界移動を決心した理由のごく一部でしかなかった。
今の未知にはわかる。
何も求めない、否、何も求められなくなってしまった秋水は、代わりに姉の夢に依存することにしたのだと。
「他の世界を見てみたい」と言った姉の願いを叶えることで、自分の存在意義を保とうとした。
姉の遺志を継いで、と言えば聞こえはいい。しかしそこにあるのは、姉の夢を表面だけ愚直にトレースして良しとしている姿。
その証拠に、魔力がないこの世界に来て5年、秋水が前向きに楽しんでいるそぶりは一向に見られなかった。生きるために必要な欲としか付き合わない様は、厳格な修行僧のよう。そして気がかりなことに、親しくできそうな人や心地よい居場所を見つけても、もう少しでそこに踏み込めるという直前で自ら距離を取ってしまうのだった。
未知は未来を幻視した。
このまま秋水は無意識に無欲を続けて独りで生き、世界に埋没し、そのずっと先、独りで終わりを迎えるだろう。特に何かを遺すことなく。
こんな人生、幸せと呼べるのか?
それは、とても、淋しいことではないのか?
未知が秋水と一緒にいられる時間には限りがある。
なんとかきっかけを見つけてあげたいと思うものの、自分がしてあげられることは僅かだと未知は薄々気づいていた。
これは、秋水自身が手を伸ばさなければ手に入らない。
――だから。
秋水が自らの意志で、あろうことか魔力コントロールまで使って玖凪を助けたと知ったとき、光明が見えたと思った。
ようやく悟った。秋水が必要としていたのは、玖凪のような人だったのだと。
秋水は魔力を厭うている。
家族を死に追いやった惨劇を引き起こしたのはその身に宿る能力。魔力さえなければ、魔術が認知されている世界でなければ、あんな苦しみを味わうこともなかった。秋水の心に刻まれた傷跡は生々しく、未だに向き合うことが困難なほど膿んでいる。
しかしその一方で、魔力がまったくない人間たちに溶け込むことも、秋水は満足にできなかった。
なにしろ、どんなに厭うたところで秋水が魔力持ちなのは変わらない。そして、この世界の大部分の人間が魔力と無縁なことも当たり前すぎる事実だった。
彼らと一緒にいると秋水は思い知らされるのだ。自身が魔力持ちであり、彼らとは根本的に異なるということを。脈々と流れる血筋から逃れることはできないということを。否が応でも突きつけられる現実が秋水に二の足を踏ませていた。
どちらの世界にも適応できない、宙ぶらりんな存在。あぶれてしまった異端者。
そんな秋水の前に――ある日急に現れた。
この世界の異質。魔力持ち。
白南風玖凪という少女が。
彼女は魔力との付き合い方を秋水に教え諭せるだけのスキルを持ち合わせていなかった。むしろ、身に余る魔力を扱いきれない自分にコンプレックスを抱いていた。秋水と同じように、魔力を持て余していた。
それでいて、魔力のことをしつこく訊いてくるでもない。玖凪はあくまでも自助しようと努力し、秋水とは魔力を会話の媒介として持ち出すことなく、その人格をもって対等な付き合いをしようと望んだ。
この世界で、魔力という名の苦労を密かに共有できる相手。
口には出さなくても、根元の部分で分かり合える人。
同類。似た者同士。
こういう言葉は日常で使うには気恥ずかしくて陳腐だと思っていたが、未知はこれ以外の言葉を当てはめることができなかった。
奇跡。
秋水が玖凪に出逢えたことは奇跡中の奇跡だと。
玖凪が秋水を明るいほうへ導き始めたことを感じ取って、未知は5年の月日で一度も出会ってこなかった満ち足りた気持ちに浸っていた。暖かい陽射しが溢れ、若草が芽を出し、花が嬉しそうにほころぶ――長い冬が終わりを告げて春が巡ってきたようだと。
ようやく。
やっと、やっと――!
それなのに。
そのはずだったのに。
何故。
何故このタイミングで、奴らが出てくる?
長い時間を経て、秋水はようやく幸せになれる糸口を掴もうとしている。自分のために生きる意味に気づきかけている。
まさにその好機、なのに。
それを断ち切らんとする魔の手が日影から湧いて出てきた。
背後から忍び寄り、前を向こうとした決意を挫き、簡単には忘れさせないと囁く。秋水を暗がりに引き戻すために別の糸を絡めようと狙っている。
秋水が幸せになることを頑なに妨害する悪意に、未知は閉口した。
不幸の元は、全部、片っ端から捨ててきたのに。振り払って、ここまで来たのに。
今さら何の用だ。
秋水が一体何をしたというのだ?
少し特殊な家に生まれてしまっただけで、才能を持ってしまっただけで。
幸せになる権利がないとでも言うつもりか?
犠牲になるのが当たり前だとでも?
――ふざけるな、ふざけるなよ。
そんなこと、絶対に認めない。
追い縋って来るようなら――全身全霊をもって、まとわりつくすべてを払い落とす。
未知はこれまでの人生で一番激しい感情に体を委ねていた。アメジストの双眸が危ういまでに妖しく光る。
「……一人残らず捜し出してぶちのめしてやる」
その静かな憤怒は猛々しく、最強の魔術師の中で燃え盛っていた。




