消えない傷跡・1
降りしきる雨は一向に止む気配がなかった。
雨粒が窓ガラスに当たる音。それ以外に聞こえるのは、壁に掛かったアナログ時計の秒針が時を刻む音のみ。
白、黄緑、青。寒色のインテリアでまとめられたこじんまりとした部屋は、広さはないものの整理整頓が行き届いて清潔感があった。日常的にアロマオイルでも使っているのか、ほのかに花の香りが漂っていた。
部屋の主、白南風玖凪はベッドの上に横たわっていた。
見ていて痛々しいほどに肌が白い。その肌の至るところに包帯やガーゼがパッチワークさながらに施され、無傷な場所を探すほうが困難だった。
特に目を背けたくなるのは、首。華奢な首に包帯がぐるりと巻かれていて、否が応でも下にある傷を想像させられる。
髪を下ろし、ぴくりとも動かないその姿からは生の息吹が感じられず、このままずっと目を覚まさないのではないかという嫌な錯覚を与え続けていた。
「秋水くん」
ドアのところで未知が呼びかけると、玖凪の傍らに付き添っていた秋水が緩慢な動きで振り向いた。
その顔も、玖凪に負けず劣らず真っ白になっていた。
この少年はこういう人間なのだ。気の毒すぎるほどに。現状をやすやすと受け入れられるほど強靭ではなく、あっさりと切り捨てられるほど非情でもない。どちらかでも当てはまっていればもう少し楽に呼吸ができるのに。
「玖凪ちゃんのお友達は気を失ってるだけだった。じきに目を覚ますだろう」
秋水の気持ちを僅かでも和らげたくて、比較的良い報告を行う。
しかし秋水は未知の姿を確認すると、昏睡状態の玖凪を見ながらぽつりと呟いた。
「どうにか治せないのか?」
その言葉の意味を受け止めかねて、未知は一瞬固まった。秋水の口からこんな言葉を聞かされる日が来ようとは。まさかこの自分に、手術等の現代医療技術を期待しているわけではあるまい。
「治せない、わけではないよ」
未知は慎重に言葉を選んだ。
魔術を使えば、玖凪の傷を消すことなど造作もない。
「じゃあ……!」
非難の目を向けてきた秋水の次の言葉を未知は制止した。
治せる。治せるのだが、
「今の玖凪ちゃんに魔術をかけることはお勧めできない。何が起きても責任は取れない、そういう状態だ」
白南風玖凪は危害から身を守るために能力を開花させた。開花させたと言えば聞こえはいいが、死を回避するために死に物狂いでこじ開けたと言うほうがよほど正しい。
無理が祟ったせいで現在の玖凪の魔力は非常に不安定だ。加えて、外部の魔力に対して過敏になっている。
傷を癒すために魔術を施しても、それが攻撃だと誤認されてしまう危険性が高すぎた。
「最悪の場合、玖凪ちゃん自身の魔力が暴発して怪我を悪化させる。それでも君は治る可能性に賭ける?」
秋水は酷く傷ついた顔をして口を噤んだ。
胸の奥が痛んだ。だが、未知はこれからもっと辛い提案を彼に行わなければならない。
「それで、ね。これからのことなんだけど」
意を決して告げる。これ以上は引き伸ばせない。寒凪秋水唯一の我儘を、叶え続けてあげることが困難だという無情な事実を。
「私たちは一度、あちらの世界に戻るべきだと思うんだ」
予想はしていたのか、それを聞いた秋水に顕著な変化は見られなかった。ただ、纏う諦めの色がより濃くなったような気がした。
「今回襲撃してきたのは一人だけだったが、他の奴らがどう動くかまったくわからない。この世界に来ているのか、他の世界に散らばっているのかそれもわからない。そもそも何をしたくてどうやって脱獄したのかもわからない」
「…………」
「確かなこととして断言できるのは、君を狙っているということだ」
「なんで……今更なんだろうな」
「さてね。ぶん殴って聞き出すしかあるまい。そのためには――」
「迎え討つための準備がいる、と」
「そう。当然、襲撃はされるほうが不利だ。こちらには身を守る城塞はないし、敵の人数が増えてくれば私一人では対処しきれないかもしれない。だから、次の手を出される前に戻って備えるのが最善だ」
秋水は異を唱えようとはしなかった。聡いこの少年のことだ。そんなわかりきったことは、未知に言われるまでもなく自分で辿り着いているに決まっている。
秋水はくすんだ目を一回瞬くと無言のまま再度玖凪を見た。
生気を失った赤色は、今にも消えそうな蝋燭の火をイメージさせた。
「これから『門』を出現させるから。少しばかり時間を頂戴」
「これからって……この世界でそんなにすぐに出来るのか」
「私を誰だと思ってるのかな? なに、夜のほうが『門』を出しやすいし、月もいい位置にある。雨降りなのはマイナス要素だけど――逆に今夜を逃したほうが大変だよ」
「どれくらいかかる?」
「日がまたぐころには。準備ができたら呼ぶから。それまで玖凪ちゃんについててあげて」
部屋を出てドアを閉める。毎朝玖凪を起こすために開け閉めしていたこのドアが、こんなに重いものだったとは知らなかった。
「秋水くん……」
魔術など使わなくとも手に取るようにわかる。再び未知が声をかけるそのときまで、秋水は玖凪に懺悔を繰り返すだろう。
すぐに動き出さなければいけないのに、未知はしばらくドアの前から離れることができなかった。
そっと、労わるようにドアの表面を手でなぞる。
何故自分の胸がこんなにキリキリと悲鳴をあげているのか。その理由を探った未知は一つの心当たりに行き着いた。
道理で既視感があったはずだ。
磨りガラスのような虚ろな目で玖凪を看ていた秋水の表情が、初めて出会ったあの頃と酷似していたから。
戻りかけているのだ。突如降って湧いた災厄に翻弄され、戻されかけている。
灯りが消された廊下は薄暗く、窓の外から入ってくる車の光がたまに激しく屋内を満たす以外は静かなものだった。
未知はこの旅の始まり、自分が秋水と共に異世界に渡ることを決意した5年前のあの日のことを思い出していた。




