滲み出す影・4
くりすは玖凪が時々河原で練習していることを知っていた。河原で姿を見かけたら声をかけて、歌に対しての感想を言い合った後に二人で帰るのが常だった。
この日は昼食を一緒に取ることができなかったため、玖凪を見かけたのはこの河原が最初だった。少し離れたところから玖凪の姿を確認したくりすは、いつも通り彼女に声をかけようと近づいた。
だが、できなかった。
玖凪の傍には、彼女が必死に探していた弁当屋のアルバイトくんがいたから。
玖凪は歌を歌っていた。くりすも何度か聴いたことのある歌だ。透きとおった歌声が大気を伝播する。
歌う玖凪と聴くことに集中している少年。その光景を見ていたら、眩しくて直視出来なくて――同時に胸の奥底から閉じ込めたはずの黒いものが燻ってきて、くりすは逃げるようにその場を後にした。
一刻も早く河原を離れたくて、気がついたら走っていた。
走って、走って、息が切れて、それでも走って――。
足が限界を迎えたとき、くりすは河原からだいぶ離れた住宅街にたどり着いていた。
「はぁっ……本当に、最低だ……」
人様の家の外壁にもたれかかると、独りで悪態をついた。
玖凪の歌が美しいのは事実だし、荒木田が用意したバラードにも問題なく合わせられるだろう。
荒木田の発言も、玖凪に気があるとかそういうわけではないことはもちろん分かっている。ただ自身の音楽の可能性を考えたら当たり前のように出てきた結論だっただけで、悪気は一切ない。
あのアルバイトくんが玖凪の歌に聴き惚れていたことだって結構なことだ。くりすが口を出すようなものではない。
全部、全部解っている。
……このムシャクシャした気持ちは、全部自分の問題なのだ。
こんな感情を持て余している自分に自己嫌悪を抱きながら、くりすは黒く染まり始めた空を見上げた。
明日、玖凪や先輩の前で何事もなかったかのように振る舞えるだろうか。
走ったせいで、髪やスカートは酷く乱れていた。もたれかかった部分にも泥がついている。一体なにしてるんだろう。体を自立させて、ふぅ……と小さなため息をついたそのとき。
「いやあ、君のその感情は普通だよ。普通」
と。
何処からともなく声が聞こえた。
「普通も普通。健全すぎてつまらないくらい。これで逆恨みの果てに関係者全員皆殺しとかだったら見ていて面白いんだけどねえ。――あ、失礼。この世界はそういうの禁止されてた? 許されてたのは何処だったかな……」
ぞわりと総毛立った。
その男の声は乾燥した空気さながらに軽かった。カラカラしていてつかみどころがない。――それなのに、沼地をじっとりと這う蛇のような粘着性を含んでいた。
「いいんじゃないの。自分の想いに気づいてくれない先輩が嫌。そして先輩が目をかけるほどの才能を持ち、挙げ句他の男の子と仲良くしている親友が妬ましい。そういうことだろう?」
「ち、違う!」
反射的に声が出た、が。
「違うって何がかなあ? 心の底から友人を祝えるならば、こんな処まであんな悲壮な顔して走ってくる必要ないよな。君はたしかに呪ったんだよ、あのときに」
「…………」
そこから先は何も出てこなかった。
「君が認めようが認めまいが関係ないからさ。そうだったからこそ、わざわざ君に接触してるんだ」
男の姿は見えない。見えないのに、――確かにここにいる。
くりすは後ずさりしようとしたが叶わなかった。足が地面にピッタリと縫い付けられたかのように動かない。
何かが絡みついている。
慌てて顔をあげたとき、くりすは気がついた。幅の狭い住宅街の道路。自分が立っている道路。
その先が不自然なほどに真っ暗だった。
確かに空は暗くなってきていたが、それが原因である暗さではない。
この空間だけが切り離されている感覚。あの先には、たぶん、何もない。
ここでどんなに声をあげたとしても、誰も助けには来てくれない。くりすはそれを悟ってしまった。
「あなた、誰……?」
「あー、君にそれを教えることに意味はないし、もう面倒くさいんだよね。だから本題に入らせてもらうけど」
絞り出した声に対して、男は最後まで姿を見せなかった。
「君のその隙間、ちょっと借りるから」




