滲み出す影・3
部活が終わっても歌い足りないときや独りで歌って自分の声を確認したいとき、玖凪は河原に来る。
鼻歌くらいであれば自室でも歌うが、さすがに下宿で思いっきり歌うのはコトリ弁当に迷惑なのではばかられるのだった。
澄んだ空気に歌声を乗せる。
綺麗な旋律で少しばかりの哀愁を漂わせたこの曲を玖凪は特に気に入っていた。
時間が止まったと錯覚するような今。このときがずっと続けばいいのにと思いながら、玖凪は歌い続ける。
夢心地な玖凪は歌いながらふらふらと川縁に近づいていた。
玖凪の足下には大小様々な石が敷きつめられている。バランスを取るため無意識に伸ばされた両腕。
「――あ」
ずるり、と。
河原の石に足をとられた玖凪は、大きくバランスを崩した。
「お、おいっ!」
後ろから誰かの声がした。と思ったら、左手首を強い力で掴まれる。玖凪の身体は吊られた状態になり、川に落ちるのはかろうじて回避された。
玖凪が首を後ろに捻るとそこにいたのは――。
「か、寒凪さん?」
「何をしているんだ、お前は……」
思いがけない人物の登場に、玖凪は目を丸くする。次に、しっかりと握られている自分の左手首を見た。
秋水もつられて自分の右手に視線を移す。一拍おいてから状況を認識し、その手を慌てて離した。
「あだっ!」
急に離されたことで尻もちをつく玖凪。
「わ、悪い」
「い、いえ。ありがとうございます。川に落ちずにすみました」
立ち上がってスカートの裾を軽くはたいた玖凪は、何故かいたたまれないように微妙に目を逸らしている秋水に問うてみる。
「寒凪さんはなぜこちらに?」
「河原をふらふらしている怪しい女子高生を見かけたからだ。お前こそ、こんなところで何をしていたんだ」
「歌を歌っていました」
「いや、まあそうなんだろうが」
自分が訊きたいことを自分でも分かりかねているのか、秋水は困ったような顔をして少しだけ首を傾けた。
「あ、寒凪さんにはお話ししてませんでしたね。私、高校では合唱部に入ってるんです」
「合唱部?」
「そうです、ハーモニーです。でも、独りで練習したいときはたまにここに来るんです」
この河原は夏の花火大会を除けばほとんど人通りがないので練習にはもってこいの穴場だった。それがまさか知り合い、よりにもよって秋水と遭遇するとは思いも寄らなかった。
「お前は将来歌手になりたいのか?」
唐突に秋水が訊ねた。
「え? どうしてそうなるんですか?」
合唱部で歌っているという話の何をどうしたら将来の夢に繫がるのか。発言の真意が分からずにキョトンとした玖凪は、秋水も同じような表情をしていることに気がついた。「何かおかしなことを言ったか?」といった感じだった。
「寒凪さん、私は歌手になるつもりで歌ってるわけではないですよ。うん、将来的になりたいと思う可能性はありますが、今のところその予定はありませんね」
「そうなのか?」
地球が丸いということを初めて知った幼児のような表情。端整な顔の秋水がそれをするとひどくアンバランスだった。
「じゃあ寒凪さん、歌手になるっていう絶対的な目標がなければ歌ってはいけないんですか? みこちゃんも、コトリ弁当を継ぐ意志がなければお店のお手伝いをしてはいけないんですか?」
玖凪が秋水と知り合ってからまだ日も浅いので、彼の事情を詳しく知っているわけではない。それでもこの数日で玖凪は秋水のいろんな面を見てきた。
達観したような顔で他人と距離を取ろうとするところ。
そのくせお人好しで、困った人を見捨てられないところ。
そして――正体は判らないが何かが確実に欠けているところ。
その部分を少しでも埋めてあげることができれば、恩返しが出来たと言えるのではないか――。
「一つにこだわる必要はないと思うんです。面白そうだからなんとなくやってみるって、きっと素敵なことですよ」
納得したのかどうかは判りかねたが、秋水は「そうか」と小さく呟いた。川の反対側に向けられていた視線が、しばらくして玖凪のほうに向いた。
「お前の――」
何かを言いかけて小さく開いた秋水の口がすぐに動かなくなった。お前の、なんだろう?
秋水は自分に呆れたように苦笑すると、言いかけた言葉は閉まって別の言葉を出した。
「――さっきの歌をもう一度歌ってくれないか」
「え? 歌ですか?」
まさかのご所望に、玖凪の思考が一瞬鈍った。よく考えたら独唱はすでに聴かれていたわけであって、それすらとても気恥ずかしいのに、それを改めてとか……!
秋水の顔をチラリと伺う。秋水は特に変なお願いをしているつもりはないとばかりに真顔だった。夕日に照らされた真紅の瞳は初めて出逢ったときと変わらずに静かに燃えていて、玖凪のことを真っ直ぐ捉えていた。
……ああ、ずるい。ホントのホントにずるい。こんな目で見られたら――断れないじゃない。
「ほ、本気ですか。本気なんですか」
「何がだ。歌ってほしいと言っている」
「笑うの禁止ですよ!」
「? 笑う要素のある歌なのか?」
「あー、んー、そういう意味じゃないですけど」
「じゃあ、いいじゃないか」
「……じゃあ、歌いますよ」
この人、天然か。
観念した玖凪は、歌い始めのために短くも深い息を吸った。
結局のところ。
歌い始めたらなんだか楽しくなってしまって、この歌だけにとどまらずたくさんの歌を歌った。
秋水は口を挟むことなく、静かに歌を聴いていた。
この玖凪のリサイタルは、いつまでたっても戻ってこない秋水に痺れを切らして彼の携帯電話がけたたましく鳴るまで続いたのだった。




