滲み出す影・5
「あら? 変ね」
大量のお菓子を買って戻ってきた姉弟は、屋敷正面の門で違和感に気がついた。
門番がいる詰所、そこがもぬけの殻になっていた。
「門番が番してないってどういうことよ。職務怠慢よ」
「どこに行ったんだろうね?」
「きっとサボりよ。ご馳走が出るからって厨房でつまみ食いでもしてるんじゃないかしら」
姉の推測に、少年は素直に同意できなかった。たしかにここにいるはずの門番はお世辞にも勤勉な性格をしているとは言えない男だった。いつも面倒くさそうに詰所の椅子に腰掛けていて、ぼーっと空を見ている様はまるで猫だった。しかし、こんなふうに持ち場を離れたことは一度もない。
雪を伴った風が冷たく吹き付けた。
「とりあえず、買ってきたお菓子を置きましょう。お仕置き考えるのはその後」
紙袋を持った手が痺れてきたのか、姉は屋敷の玄関を目指してさっさと歩き出していた。
少年はその後を追ったが、
(…………)
しんしんと積もる雪がすべての喧騒を消した世界の中、
(………………)
胸の中にチリチリとしたものが生じて、
(……………………?)
屋敷に近づくたびにそれはどんどんと大きくなっていく。
「……姉さん!」
「ん? どうかした?」
振り返った姉に少年は告げる。
「あのさ、ちょっと先に屋敷の周りを見てきてもいいかな」
姉は不思議そうな顔をして弟のことをじっと見た。少年も自分が何故そんなことを口走ったのか説明できず、困惑した表情で姉を見ていた。
「別にいいけど……私は荷物置いてから行くわよ?」
「うん、わかった」
何かに心が急いていた。
屋敷に直行する姉と別れ、少年は屋敷の外側を廻った。
姉がいなくなると辺りの静けさが一層強調された。
上も下も純白の世界。鋭い寒さが体の感覚を奪って、心にもしんとした静寂が染み込む。
ここは一族の住まう敷地内なのに、まったく見知らぬ場所のように感じるのは何故だろう。
歩いているうちに少年は、地面にうっすらと残っている足跡に気づいた。降り続く雪のせいで消えかけている、しかしたしかに存在しているそれは複数人の分で、皆庭園の方へ向いていた。
雪の上に新しい足跡をつけながら少年も同じ方向へ向かう。
庭園の中にある花の種類ごとに分かれた小さな園。薔薇園の優雅かつ重厚な門戸が開いていて、足跡はその下を通過していた。
「なんで門が開いてるんだ……?」
不思議に思いながら少年が門をくぐったとき、彼は気がついた。
「…………!?」
その奥からかすかな異臭が漂ってきていることに。
ほとんどが風に掻き消されていたが、ごまかしきれない匂いが少年の鼻腔を刺激する。
それに誘発されて少年の頭の中では、形にならなかった靄のようなものが次第に繋がり始めた。
門番どころか誰一人遭わない現状と不自然なほどの静けさ。
花一つ咲いていないこの時期に、薔薇園へと続く複数の足跡。
そして、普段はまず嗅ぐことのない異臭の正体。
嫌な予感がして少年は息をのんだ。そんなことが起きるはずはないという気持ちと導かれた結論に警鐘を鳴らす直感とが拮抗する。
この場を後にするか、薔薇園の中に進むか――。
立ちすくんでいた少年は、最終的に後者を選んだ。いずれにせよここまで来たのならば何が起きているのか確認しなければならない。自分を騙しながら前へ進む。
門の先を曲がると開けた空間が広がっていた。
薔薇が咲き乱れる時期であれば一面真っ赤に染まる場所。当然のように今は真っ白だった。
――とある部分を除いて。
薔薇園の中央には通路がある。以前姉が地層見たさに穴を掘っていた通路だ。
その先に一人の男が倒れていた。
うつ伏せに倒れた男の下には赤い液体が染み出していた。遠目からはあの部分だけ薔薇が咲いているかの如く、鮮烈な色を放っていた。おびただしい量のそれは確実に雪を侵食して、時間が経ってからまだ間もないのかほのかに湯気を発していた。
男の服装で判った。半年前に婿入りした伯父だった。
そしてその手前には二人の人間が立っていた。
一人は正門の詰所にいるはずだった門番、もう一方は
「あら、おかえりなさいませ。ぼっちゃん」
外出前と変わらぬにこやかな笑みを浮かべた歳若きメイドだった。
普段と変わるところがない二人の態度。
対照的に凄惨な薔薇園の光景。
メイドはいつも通り白いエプロンを着けていたが、常に清潔感が保たれていたそれが今は返り血で真っ赤に染まっていた。彼らの手に握られたのは――同じ色の液体がぬるりと滴った鋭いナイフ。
「…………!」
少年は弾かれたように紙袋をぶん投げると元来た道を全速力で引き返した。理性ではなく本能がそうさせた。
まずい、まずい。
早く伝えなければ。誰に? 両親か、それとも姉と合流したほうが早いか。
何故あんなことになっている? 見間違いではないのか、これは紛れもない現実なのか。
ぐちゃぐちゃに混乱している頭を置き去りにして足は地を蹴る。雪で走りにくいことなどおかまいなしに。コートの裾がまとわりつくのも気にしない。
嫌な予感はしていた。だが、さっき見たものはその予感を遥かに超える最悪そのものだった。
何故。
何故、家族同然に過ごしていた彼らが――。
その事実自体も衝撃的だったが、加えて少年は彼らの異常性に当てられていた。彼らはまったく動じていなかった。少年は確信する。間違いなく彼らは、門番として来訪者の対応をするときのように、またはメイドとして食事をテーブルに並べるときのように、何食わぬ顔であれをやってのけたのだ。
さらにその異常性もさることながら、それを隠し悟られないようにしながら生活に溶け込んでいたことにぞっとした。寝所に蛇が潜んでいたようなもの。今の今まで気づけなかった自分の愚かさと、隠し通した彼らの狡猾さに対して、叫び声をあげたかったがその余裕すらなかった。
屋敷の角を曲がる。先に屋敷の玄関が見えた。
玄関のすぐ傍に薔薇園へ向かったときにはなかった人影を見つける。
「……先生!」
その人物が自分と姉の専属教師だとわかると、少年は彼に駆け寄った。
「どうしましたか? そんなに血相を変えて」
彼は父親の執事も兼任している優秀な男だった。歳はまだ25にも届いていないはずだったが、仕事が早く誰よりも頭が切れた。
雪に紛れようもないかっちりとした黒いスーツに美しく締められたタイ。今日が特別な日だということもあり、いつも以上に身嗜みが整えられていた。
スラリと背が高いその男は、膝を曲げて自分と少年の目線を合わせた。
「先生、あの、伯父さんが……!」
薔薇園の光景が頭の中に蘇ってぐらりとした。あれは、本当に幻ではないのか?
「そういえば先ほどから見かけませんね。どちらに行かれたのか」
「そうじゃありません! そんな話じゃないんです、先生」
悠長なことを言っている男に少年は叫んだ。
「伯父さんは、刺されました。門番とメイドに。多分――死んでいます」
口に出してしまったとき、「あ、やはりあれは現実だったのだ」と思った。混乱で燃えるように熱かった体の芯が急激に冷えた。
伯父は、死んだ。
「…………少し落ち着きましたか?」
少年の頭の上に手を置くと、男は静かに語りかけた。
「…………はい」
「いつも言っているでしょう。不測の事態が起きたときこそ冷静に対処すべきだと」
「はい」
男は少年の頭を撫でた。その指は細く長く、安心感が足りているようなものではなかったが少年の頭をすっぽりと覆っていた。
「君は賢い。魔術の才も十分すぎるほどある」
男の手の動きが止まる。
「だが――惜しいかな。もう少し人間観察をするべきだ」
少年の体を衝撃が貫いた。
視界が一回転する。自分で自分を支えることができず、どさりと雪の上に伏せた。
男の手から伝播してきたそれは雷の如く少年を打ちつけて一瞬のうちに自由を奪った。
「――あ……」
薄れ行く意識の中で少年はようやく、今更ながらすべてを悟った。
何故、凶行に及んだのが門番とメイドの二人だけだと錯覚してしまったのか。
何故、一族以外の人間がグルだという考えに至らなかったのか。
信頼しているものが音を立てて瓦解していくのを感じながら、少年の意識は闇の中に落ちていく。
最後に視界の切れ端に見えたものは――。
先生と呼んでいた男の、銀縁めがねの奥にある酷薄な瞳。
そして、玄関ホールの隅に転がされている姉のドレスだった。




