逃げ道のない選択
◇ ◇ ◇
すべてが狂い始めたのは、いつの頃からだっただろうか。
最初は、ただ運が悪いのだと思っていた。
長年付き合いのあった取引先から、突然契約を打ち切られた。理由を尋ねても曖昧な返事しか戻ってこず、別の相手を探しても、なぜか同じようなことが続いた。ようやくまとまりかけた話が直前になって白紙に戻されることも、一度や二度ではなかった。
商売をしていれば、思いどおりにいかないこともある。それまでも苦しい時期は何度かあったが、そのたびに何とか乗り越えてきた。今回も、しばらく辛抱すれば状況は変わるはずだった。
しかし、いくら手を尽くしても仕事は戻らず、収入が減る一方で支払いだけが積み重なっていった。長く一緒に働いてきた者たちも、一人、また一人と去っていく。引き留める言葉はあっても、彼らの生活を保証できるだけの金はなかった。
そんなとき、手を差し伸べてきた人物がいた。
「ずいぶん困っているそうじゃないか」
男は事情を聞くと、いかにも気の毒そうな顔をした。
「商売というのは難しいものだ。真面目に働いているだけでは、どうにもならないこともある。まあ、私で力になれることがあれば相談に乗ろうじゃないか」
その言葉が、どれほどありがたかったことか。
男は資金を貸してくれるという。提示された条件は決して軽いものではなかったが、ほかに頼れる相手もいなかった。借りた金で当面の支払いを済ませ、何とか持ちこたえることができたときには、これでようやく立て直せると信じていた。
だが、状況は変わらなかった。
仕事が戻らなければ、借りた金も減っていく。返済の期限が近づくたびに男のもとへ頭を下げ、ときには新たな借金を重ねることになった。
「困ったときはお互い様だ。私も鬼ではないからね」
そう言って笑う男に、何度礼を述べただろう。返済の見通しが立たないことを申し訳なく思い、次こそは約束を守ろうと、残された仕事に必死で取り組んだ。
ところが、借金が膨らむにつれ、男の態度は少しずつ変わっていった。
「君も、そろそろ現実を見た方がいい。返せる見込みもないのに、いつまでも待ってくれと言われても困るんだよ」
「……もう少しだけ、時間をいただけませんか。必ず何とかしますので」
「何とか、か。君はいつもそう言うね。私だって慈善事業をしているわけじゃないんだ。そろそろ、こちらの事情も考えてもらいたいものだよ」
借りた金を返せていない以上、言い返すことはできなかった。それでも、何かがおかしいという思いは、日に日に強くなっていた。
取引先が次々と離れていったことも、ようやく決まりかけた仕事が突然なくなったことも、今になって考えれば不自然なことばかりだった。
そして、あるとき知ってしまった。
自分を窮地に追い込んだ出来事の裏に、あの男が関わっていたことを。
最初は信じられなかった。苦しいときに金を貸してくれた相手が、そもそも苦境を作り出した張本人だったなどと、どうして信じられるだろう。
しかし、それまで不可解だった出来事を振り返るほど、男の親切が別のものに思えてきた。
あの男は、困っている自分を助けたのではない。
逃げ道を塞いでから、手を差し伸べてきたのだ。
◇ ◇ ◇
その日も、男はいつもと変わらない調子だった。
「ずいぶん難しい顔をしているじゃないか」
聞き覚えのある声に顔を向けると、男がこちらを見て笑っていた。
「それで、少しは状況が良くなったのかね?」
「……ご存じでしょう。何も変わっていません」
「おや、随分な言い方だね。私はただ、君のことを心配しているだけなんだが」
以前と変わらない、人当たりのよい笑顔だった。かつてはその顔を見るだけで安心したものだが、今では男が何を言い出すのかと、身構えずにはいられない。
「まあ、いい。今日は借金の件で話があるんだ。いつまでも返済を待つわけにはいかないからね。そろそろ、きちんと決着をつけてもらいたい」
「返済については、もう少し時間をいただければ……」
「またそれかね?」
男は呆れたように首を振った。
「もう少し待ってくれ、何とかする、必ず返す。君の言葉を信じて、私は何度待ってやったと思う? その結果がこれでは、さすがに私も困るんだよ」
男の口ぶりは、こちらの無責任さを諭すようなものだった。だが、その言葉を聞きながら思い浮かんだのは、突然仕事を断ってきた取引先の顔だった。
「……それで、どうしろとおっしゃるんですか」
「なに、難しい話じゃない。君が今、必死になって守ろうとしているものを、私に譲ればいいんだよ」
男は、まるで以前から決まっていたことを確認するように言った。
「このままでは、いずれ何もかも失うことになる。それなら、今のうちに手放した方がいい。借金のことも考えてやれるし、君だって少しは楽になるだろう?」
「……それだけは、できません」
「まだそんなことを言うのかね。困ったものだなあ。君のためを思って言っているというのに」
男は小さくため息をついた。その態度に、これまで抑えてきた怒りが込み上げてきた。
「私のため……ですか」
「そうだとも。ほかに何があるというんだ?」
「だったら、教えてください。どうして、あんなことをしたんですか」
男の笑みがわずかに薄れた。
「……何の話だね?」
「取引先との話が突然なくなったことも、何度も仕事を断られたことも……。あなたが関わっていたんでしょう?」
男はすぐには答えなかった。しばらくこちらの顔を眺めたあと、何がおかしいのか、小さく笑った。
「ずいぶん面白いことを言うじゃないか。私が君の商売を邪魔したとでも?」
「違うんですか?」
「さあね。だが、仮にそうだったとして、それがどうしたというんだ?」
あまりにも平然とした返答に、言葉を失った。
「商売というのは、綺麗事だけではやっていけないものだよ。君は少し、人が良すぎるんじゃないかね」
「……人が良すぎる?」
「そうとも。世の中には、利用する者と利用される者がいる。君はもう少し、物事を賢く考えた方がいい」
男はそこで、諭すように声を和らげた。
「もっとも、今からでも遅くはない。私の提案を受け入れれば、これまでのことは水に流してやってもいいんだよ」
何を水に流すというのだろう。
失った仕事も、去っていった人々も、返せる当てのない借金も、すべてこちらの責任だと言いたいのか。
男に助けられたと思っていた日々が、ひどく滑稽なものに感じられた。あのとき何度も頭を下げ、心から礼を言った相手が、今は目の前で同じ笑顔を浮かべている。
「……お断りします」
「何だって?」
「あなたには、何も渡しません」
男の笑みが消えた。
「ほう……。随分と強気になったものだね。だが、君は少し自分の立場を勘違いしているんじゃないか?」
「勘違いなどしていません。借りた金は返します。ですが、それとこれとは別です」
「返す、返すと言いながら、今まで一体いくら返したというんだね? 君のような人間に、まだ選ぶ権利があると思っているのか?」
男の声から、これまでの穏やかさが消え始めていた。
「いいかね。私がその気になれば、君など簡単に――」
その先の言葉は、最後まで耳に入らなかった。
◇ ◇ ◇
自分が何をしてしまったのか、理解するまでにどれほど時間が掛かったのだろう。
あれほど腹立たしかった男の言葉も、必死になって言い返した自分の声も、今では遠い出来事のように感じられた。何度思い返しても、あのとき何をすればよかったのか、答えは見つからない。
ただ一つ、取り返しのつかないことをしてしまったという事実だけが、頭から離れなかった。




