鍵
次に部屋へ入ってきたのは、バイロンだった。
ヴィクターとは違い、椅子に腰掛けても姿勢を崩さない。今まで見てきた印象のまま、いかにも真面目そうな人だった。
「先ほども聞いたが、改めて確認しておきたい。あの部屋の鍵は普段あなたが管理している。それで間違いないな?」
「はい。父が亡くなってからは私が管理しています。ヴィクターに貸したのも私です。父へ貸していた本を取りたいと言われましたので」
「その話は本人からも聞いた」
フォールはそこで一度言葉を切った。
「もう一つ確認したい。遺言書がなくなれば、相続の内容も変わる。誰にとって得か損かを考えるにも、中身について知っていた人間がいるかは確認しておきたい」
なるほど。
誰が部屋に入れたかだけじゃなく、遺言書がなくなって困る人、逆に都合のいい人がいるかも調べるわけか。
「バイロンさん。あなたは遺言書の内容を知っているか?」
そこで初めて、バイロンが答えるまでに少し間が空いた。
「すべてではありません。ですが……父から、このホテルはヴィクターに相続させるつもりだと聞いています」
「え、ヴィクターさんに?」
思わず口を挟むと、バイロンが俺を見る。
「本人は知ってるんですか?」
「分かりません。少なくとも、私から話したことはありません。父がヴィクター本人にも伝えていたかどうかは……」
ヴィクターは知らないと言っていた。
つまり父親は、バイロンには話していたのに、相続する予定の本人には伝えていなかったことになる。
「でも、今ここの支配人をやってるのはバイロンさんですよね。それなのに、ホテルはヴィクターさんに?」
「父がそう決めたのであれば、私が口を挟むことではありません」
「納得していたのか?」
フォールが重ねると、バイロンは少し視線を落とした。
「……納得、ですか。難しい質問ですね」
しばらく考えてから、ゆっくりと言葉を続ける。
「私は、このホテルを残したいと思っています。父から支配人を引き継いでから、ずっとここを見てきました。働いている者もいますし、長く利用してくださっているお客様もいる。簡単になくしてよい場所だとは思っていません」
「それなら、自分が相続したかったんじゃないのか?」
「私が相続すれば、それですべて解決するのであれば……そう言えたかもしれませんね」
バイロンは少しだけ苦い顔をした。
「このホテルには、多額の負債があります」
「……借金?」
思わず聞き返した。
古いとはいえ、俺から見れば十分立派なホテルだ。そんな場所が多額の借金を抱えているなんて、見ただけでは想像もつかなかった。
「そんなにあるんですか?」
「無視できる額ではありません。支配人である以上、私も経営状態は把握しています」
そこで、さっき話したばかりのヴィクターが頭に浮かんだ。
「それ、ヴィクターさんは知ってるんですか?」
「いいえ。話していません」
「ヴァーノンさんは?」
「兄にも話していません。父が誰かに話していれば別ですが、少なくとも私は、兄弟の中で負債を把握しているのは自分だけだと思っています」
ホテルはヴィクターに相続される予定だった。
でも、そのホテルには多額の借金がある。
しかもヴィクター本人は、それを知らない。
「チャミー」
「はい」
「これって、ホテルを相続したら借金も一緒についてくるってこと?」
「この世界の相続制度について、私には判断できません」
「あ、そっか」
こういうところでは頼れない。
俺が顔を上げると、フォールがこちらを見ていた。
「何か気になるか?」
「いや……ホテルを相続したら、借金も一緒についてくるのかなって」
「ああ。基本的にはな」
「じゃあ、ホテルだけ貰って借金はいりません、みたいなのは?」
「できない。正式に相続を受け入れたあとで、都合のいいものだけ選ぶことはできん」
「やっぱりそうなんだ……」
そこは元の世界と似ているらしい。
「じゃあ、遺言書がなかった場合は?」
「遺言書がなければ、三兄弟で均等だ」
ホテルも。
借金も。
「それって……遺言書が見つからなかったら、バイロンさんもこのホテルを相続する側になるってことですよね。借金も含めて」
「そうなります」
「それでもいいんですか?」
俺が聞くと、バイロンは少し眉を寄せた。
「良いか悪いかで言えば、負債などない方がいいに決まっていますよ」
「あ、そりゃそうですよね」
「ですが、負債があるからといってホテルを捨てるつもりもありません。必要なら、私が背負ってでも残します」
静かな声だった。
今までと同じ落ち着いた話し方なのに、そこだけは迷いがない。
この人がホテルを残したいと思っているのは、本当なんだろう。
でも、遺言書がなくなれば自分も相続する側になる。
それもまた事実だった。
「もう一つ、鍵について確認しておきたい」
フォールが話を戻した。
「ヴィクターさんに貸したとき以外に、あの鍵があなたの手元から離れたことは?」
バイロンはすぐには答えず、記憶を探るように少し考えた。
「……一度だけあります。私が落としてしまったことがありまして」
「落とした?」
「はい。しばらくして、鍵がないことに気づきました。どこかで落としたのだと思って探していたのですが……あとでヴァーノン兄さんが持ってきました。落ちていたのを拾った、と」
「ヴァーノンさんが?」
「はい」
俺はフォールを見る。
鍵を借りて部屋へ入ったヴィクターとヴェルガ。
それとは別に、ヴァーノンもあの部屋の鍵を持っていた。
「拾ってから返してくるまで、どれくらいあったか分かるか?」
「正確には分かりません。私も、いつ落としたのかまでは分かりませんでしたから。ただ……すぐに返されたわけではありません」
バイロンはそこで少し考え、言葉を続けた。
「私が鍵を探していると、そのあとで兄が『これを落としていただろう』と持ってきました」
「その間に、ヴァーノンさんが部屋へ入った可能性は?」
俺が聞くと、バイロンはわずかに眉を寄せた。
「兄がその間に何をしていたのかまでは、私には分かりません」
鍵を持っていたことは分かる。
でも、その間に何をしていたかまでは分からない。
「分かった。ありがとう」
フォールが話を切り上げると、バイロンは一礼して立ち上がった。
扉が閉まる。
俺はその扉を見たまま、さっき聞いた話を頭の中でもう一度繰り返した。
「……次、ヴァーノンさんですよね?」
「ああ」
「聞くこと、増えましたね」
「そうだな」
◇
「まだあるのかよ」
入ってくるなり、ヴァーノンは露骨に嫌そうな顔をした。
「あるから呼んだ」
「ったく……」
椅子を引いてどかりと腰を下ろす。長い脚が窮屈そうに見えた。
「父親とは仲が悪かったそうだな」
「……いきなりそれかよ」
「違うなら訂正してくれ」
「違わねえよ。昔から反りが合わなかった。それで?」
ヴァーノンの機嫌が、目に見えて悪くなる。
「遺言書の内容は知っていたか?」
「知らん」
「自分に有利な内容だと思っていた?」
「そりゃ思わねえだろ」
吐き捨てるように答えると、ヴァーノンは鼻を鳴らした。
「あの親父が俺に何か残してやろうなんて考えてた方が驚きだ。どうせろくなことは書いてねえ。中身なんざ見なくても、それくらいは分かる」
「じゃあ、遺言書がなくなって困ることはない?」
「……何が言いてえ」
声が一段低くなった。
俺ならここで一回話題を変えたくなるけど、フォールはまるで気にしない。
「遺言書がなければ三兄弟で均等に相続する。あなたも知っていたはずだ」
「知ってるよ。だから何だ? 親父と仲が悪かった俺なら、遺言書を消してもおかしくねえってか?」
「まだそこまでは言ってない」
「言ってるようなもんだろうが」
ヴァーノンは苛立ったように腕を組んだ。
やっぱり怖い。
ヴィクターとは別方向で、ものすごく話しかけづらい。
それでもフォールは顔色一つ変えず、続けた。
「バイロンさんから聞いた。あなたは一度、鍵を拾っているな?」
ヴァーノンの眉が動いた。
「……ああ。それがどうした」
「どこで拾った?」
「廊下だよ。鍵が落ちてたから拾った。それだけだ」
「前支配人の部屋の鍵だとは分かっていたのか?」
「知るわけねえだろ。拾ったときは、何の鍵かなんざ分からなかった」
ヴァーノンは面倒そうに吐き捨てた。
「あとでバイロンが鍵を探してるのを聞いて、あいつのだったのかと思って返した。それだけだ」
「拾ってから返すまで、ずっと持っていた?」
「ああ。わざわざ鍵一本の持ち主を探して歩けってのか?」
「いや。ただ、その間に何をしていたのか確認したい」
その一言で、ヴァーノンの目つきが変わった。
「……おい。何が言いてえ」
フォールは構わず続ける。
「あなたが拾ったのは、前支配人の部屋の鍵だった。そして、返すまでには時間があった」
「だから何だよ。俺は何の鍵か知らなかったって言ってんだろ」
「あなたがそう言っていることは分かっている」
「だったら――」
「だが、鍵を持っていたことも事実だ」
ヴァーノンが黙る。
俺もようやく、フォールが何を確認しているのか分かった。
「……つまり」
思わず口を挟む。
「何の鍵か知らなかったっていうのが本当なら別だけど……知ってたなら、部屋には入れた?」
ヴァーノンがぎろりと俺を見る。
「何だ、お前まで俺を疑ってんのか?」
「いや、疑ってるというか……入れたか入れなかったかで言えば」
「知らねえ鍵でどうやって入るんだよ」
「あ、はい。そうですよね」
「クニタカ君」
フォールが笑いを堪えながら俺を見る。
「今、丸め込まれたぞ」
「え?」
「余計なこと言うんじゃねえよ、探偵」
「悪い悪い」
怒られた。
フォールはまだ笑っていたが、それ以上ヴァーノンを追及しなかった。
拾ったときには何の鍵か知らなかった。
ヴァーノンの話が本当なら、それまでだ。
ただ、鍵を持っていた時間があったことだけは変わらない。
◇
ヴァーノンが部屋を出ていくと、俺はすぐスマートフォンへ顔を向けた。
「チャミー。今の、どう思う?」
「質問の範囲が不明確です」
「ヴァーノンさんのこと。怪しくない?」
「『怪しい』という評価は主観的です。事実を整理しますか?」
「お願いします」
「バイロンさんは問題の部屋の鍵を管理しています。ヴィクターさんへ貸したことに加えて、ヴァーノンさんが拾って所持していた時間があったことが分かりました」
「でも本人は、何の鍵か知らなかったって」
「はい。それが事実であれば、ヴァーノンさんが前支配人の部屋へ入るために鍵を使用したと考える根拠は弱くなります」
「だよなあ」
「ただし、それが事実であることも確認できていません」
「……そっちもか」
「はい。現時点で確認できるのは、ヴァーノンさんが鍵を拾い、返却するまで一定時間所持していたことです」
相変わらず慎重だ。
でも、二人の話を聞く前とは状況が変わった。
ヴィクターとヴェルガだけじゃない。
ヴァーノンにも、あの部屋へ入れた可能性がある。
「もしヴァーノンさんが、あれが何の鍵か知ってたとして……遺言書を持っていったなら、今も持ってる可能性もあるよな」
「持ち出したのであれば、その可能性はあります」
そこで、フォールが俺たちの方を見た。
「ヴァーノンさんが今も持ってる可能性って、調べられないんですか?」
「調べてるぞ」
「え?」
「当たり前だろ。なくなった物を誰かが持ち出した可能性くらい、最初に考える」
言われてみれば当然だった。
「本人たちが身につけている物や荷物は確認した。遺言書は出てきてない」
「じゃあ、誰かが今も持ってるってわけじゃない……」
「そこまでは言えん。持っていないことが分かっただけだ」
「あ、そっか」
持っていない。
でも、それだけでヴァーノンが何もしていないとは限らない。
「チャミー。ヴァーノンさんが、どこかに遺言書を移したって可能性は?」
「否定できません」
「だよな」
「ただし、都尊さんは一つの可能性を前提にしています」
「……前提?」
「はい。遺言書が前支配人の部屋から持ち出された、という前提です」
言われて、少し引っかかった。
遺言書がなくなった。
だから誰かが持っていった。
ずっと、そう考えていた。
でも――。
「そもそもさ」
俺はさっきまでいた部屋の方を見る。
「遺言書が『なくなった』って言ってるけど……本当に部屋からなくなったのかな」
「現時点で確認されているのは、遺言書が本来あった場所から見つからなくなっていることです。部屋の外へ持ち出されたことは確認されていません」
「だよな」
持ち出された。
燃やされた。
どこか別の場所へ移された。
そればかり考えていた。
でも、まだ一つ残っている。
「……まだ、あの部屋にある?」
「その可能性はあります」
急に、もう一度あの部屋を見たくなった。




