不穏な来訪者
「……はぁ……はぁ……お前が……お前がここまで追い詰めなければ……こんなことには……」
そして、その場から一人の男の姿が消えた。
◇ ◇ ◇
「やあ、トム。サムは在宅かい?」
ラチェスター邸を訪れたアントニー・フォルスターは、出迎えたトーマス・ラチェスターに親しげに声を掛けた。
「ああ、アントニーさん。父さんなら、朝食の時には顔を見たけど……さて、今はどうしてるんだろうね。また部屋に籠もって、ろくでもないことでも考えてるんじゃないかな」
トーマスは肩をすくめ、父親の部屋がある二階へちらりと目を向けた。
「はぁ……相変わらずだね、あの人は。君も苦労するなぁ」
「もう慣れたよ。どうせ何を言ったところで、聞くような人じゃないしね」
「まあ、それもそうか……。悪いんだけど、ちょっと取り次いでもらえないかな? どうしても話しておきたいことがあってね」
アントニーはいつもの調子でそう言ったが、最後の言葉だけは少し硬かった。
「もちろん。こんなところで立ち話もなんだし、とりあえず中へどうぞ」
トーマスはアントニーを屋敷へ招き入れると、応接室へ案内した。
アントニーは父親の商売相手として以前から屋敷を訪れており、トーマスとも顔なじみだった。もっとも、父親に用事がある客の相手をするのは、トーマスにとってあまり気の進むことではない。
「じゃあ、ここで少し待っててもらえるかな。父さんを呼んでくるよ」
「ああ、すまないね。急に押しかけてしまって」
「気にしないで。……イルゼ、お客様にお茶をお願いできる?」
「かしこまりました、トーマス様」
使用人のイルゼ・シュミッツが丁寧に一礼した。
「……ああ、イルゼ。君もいたんだね」
アントニーが声を掛けると、イルゼは顔を上げた。
「はい。アントニー様も、お変わりなさそうで」
「ああ、おかげさまで。……今日は少し、大事な話があってね」
「……そうですか」
イルゼは一瞬だけアントニーの顔を見つめ、それから控えめに微笑んだ。
「では、お茶をお持ちいたします」
「ああ、ありがとう」
二人のやり取りを横目に、トーマスは応接室をあとにした。
父親とは同じ屋敷に暮らしているものの、普段から顔を合わせることは少なかった。仕事のことにも口を出さず、父親の方もトーマスに何かを話そうとはしない。互いに必要以上に関わらずに済むなら、それで構わないという関係が、もう何年も続いている。
もっとも、この時間なら自室にいるだろう。そう考えながら二階へ上がったトーマスは、廊下の奥にある父親の部屋の前で足を止めた。
コンコン。
「父さん、ちょっといいですか? アントニー様がお見えですよ」
しばらく待ってみたが、返事はない。もう一度、今度は少し強めに扉を叩いてみる。
「父さん? 聞こえてます?」
やはり反応がないのでドアノブに手を掛けてみたが、扉には鍵がかかっていた。
「おや……? まさか寝てるのかな。まったく、こんな時間に……」
普段ならそのまま引き返してもよかったが、今日は客を待たせている。トーマスは仕方なく廊下を振り返り、執事長を呼ぶことにした。
「エドウィン! ちょっと来てもらえるかい?」
ほどなくして、執事長のエドウィン・マシューマンが姿を見せた。
「お呼びでしょうか、トーマス様」
「ああ、父さんを呼びに来たんだけど、何度声を掛けても返事がないんだ。鍵もかかってるし……悪いけど、開けてもらえるかな?」
「旦那様のお部屋でございますか……。承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
エドウィンは一度その場を離れ、しばらくして鍵を持って戻ってきた。扉の前で改めて声を掛けたものの、やはり室内から返事はない。
「旦那様、失礼いたします」
鍵を差し込んで解錠すると、エドウィンは扉の脇へ退いた。
「どうぞ、トーマス様」
「ありがとう。まったく、父さんも少しは人の話を……」
ぼやきながら扉を開けたトーマスは、室内を覗き込んだところで言葉を止めた。
部屋の床に、父親が横たわっている。
「……えっ? 父さん? 何やってるんですか、そんなところで……」
最初は、何かの拍子に床で眠ってしまったのかと思った。だが、近づこうとして一歩踏み出したところで、トーマスの足が止まる。
父親の身体の下から、床に赤黒いものが広がっていた。
「……父さん?」
もう一度呼び掛けても、返事はない。胸元まで赤く染まっていることに気づいたトーマスは、思わず後ずさった。
「う……うわぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴が、静かな屋敷に響き渡った。
◇ ◇ ◇
探偵事務所では、今日も朝から書類の整理に追われていた。
俺の机には依頼の記録や経費の書き付けが広がっている。日付を確認し、種類ごとに分けてから順番に揃えていくのだが、片づけても片づけても、なかなか終わりが見えてこない。
まあ、原因は分かっているんだけど……。
「……フォールさん。これ、先月の分ですよね?」
「おや、そうでしたか? いやあ、てっきり今月のものかと」
フォールは俺が差し出した書類を覗き込み、困ったように笑った。調査の時には細かいことまで見逃さない人なのに、どうして書類仕事になるとこうなんだろう。
「パパ! だから、後回しにしないでっていつも言ってるでしょ!」
隣の机で作業していたコメリアが、呆れたように顔を上げた。彼女の机には整理を終えた書類がきれいに積まれている。
「ははは。いやあ、面目ありません。気をつけてはいるんですがねぇ」
「もう! この前も同じこと言ってたじゃない!」
コメリアが腰に手を当てて睨んでも、フォールは相変わらず穏やかに笑っている。どうやら、これくらいではまったく堪えないらしい。
俺は二人のやり取りを聞きながら、手元の書類をもう一度確認した。
最初の頃は何をどう整理すればいいのかも分からなかったけど、最近はこういう作業にもずいぶん慣れてきた。とはいえ、仕事ができるようになった分だけ任される量も増えている気がする。
……いや、気のせいじゃないよな、これ。
「クニタカ、大丈夫? そっち、まだ結構残ってるみたいだけど」
コメリアが自分の机からこちらを覗き込んだ。
「ああ、何とかなると思うよ。こっちはもう分け終わったし、あとは順番にまとめるだけだから」
「そう? 無理そうだったら言ってよ。こっちが終わったら手伝うから」
「ありがとう。助かるよ」
コメリアは頷くと、自分の作業へ戻っていった。
俺も続きを始めようとしたところで、事務所の扉を叩く音がした。
「おや、お客様でしょうか」
フォールが顔を上げ、手元の書類を机に置いた。来客への対応は普段通り自分でするつもりらしく、椅子から立ち上がって扉へ向かう。
「はい、どちら様でしょう?」
「私だ。レードスだ」
聞き覚えのある声に、俺は書類を揃える手を止めた。
「ああ、レードスでしたか。どうぞ、お入りください」
扉が開き、レードス警部が姿を見せた。
「こんにちは、警部。今日はどうされたんですか?」
俺が声を掛けると、レードスは軽く頷いた。しかし、その表情はどこか硬く、いつものように挨拶を交わすこともなく、まっすぐフォールへ目を向けた。
「フォール。少し時間をもらえるか」
「ええ、もちろんです。……何かありましたか?」
フォールは扉の前に立ったまま、レードスの顔を見つめた。先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは、いつの間にか消えている。
レードスは室内にいる俺たちへ一度視線を巡らせると、改めてフォールに向き直った。
「正式な依頼だ。一緒に来てくれるか」




