初めての給料
探偵事務所で助手として働き始めてから、どれくらい経っただろうか。
最初は何をするにも戸惑っていたけど、最近は依頼の記録をまとめたり、書類を整理したりと、少しずつ仕事にも慣れてきた。もちろん、調査に同行すれば分からないことだらけだし、妙な暗号に振り回されることもある。
……まあ、暗号については探偵助手だから仕方ないのかもしれないけど、最近は少々振り回されすぎな気もするんだよなあ。
そんなことを考えながら、俺は今日も事務所の机に向かっていた。
依頼の記録を日付順に並べ、内容を確認しながら必要なものをまとめていく。最初の頃は何がどこに書かれているのかさっぱりだったけど、こうして整理してみると、それぞれの依頼で何を調べていたのかが意外とよく分かる。
「クニタカ君、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょう?」
顔を上げると、フォールさんが机の引き出しから小さな袋を取り出していた。何か頼まれるのかと思って手を止めると、フォールさんは俺のところまで歩いてきて、その袋を差し出した。
「はい、これを。今月分のお給料ですよ」
「……え? 給料、ですか?」
「ええ。いつも頑張ってもらっていますからね」
差し出された袋を見つめたまま、思わず固まってしまった。
いや、確かに助手として働いてはいるけど……給料?
「部屋まで用意してもらって、食事もいただいてるのに……いいんですか?」
「もちろんですよ。クニタカ君には助手として働いてもらっているんですから。遠慮せずに受け取ってください」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます!」
両手で袋を受け取ると、中で硬貨が小さな音を立てた。思っていたよりもしっかりとした重みがあって、何となく手のひらの上で転がしてみる。
これが、俺の給料か。
「何? クニタカ、どうしたの?」
そこへ、書類を抱えたコメリアが入ってきた。俺の手元にある袋を見て、何かあったのかと首を傾げている。
「ああ、フォールさんから給料をいただいてさ。まさかもらえるとは思ってなかったから、ちょっと驚いてたんだ」
「えっ、何で? クニタカだってちゃんと働いてるじゃない。もらって当然でしょ?」
「まあ、そう言われればそうなんだけどな」
「そうよ! それに、最近は書類仕事もずいぶん任せられるようになったしね!」
コメリアはそう言いながら、俺の机に並べられた書類を覗き込んだ。整理を終えた分と、これから確認する分を分けて置いてあるのを見て、満足そうに頷いている。
「最初の頃なんて、何が何だか分からないって顔してたのにね!」
「……いや、実際分からなかったんだから仕方ないだろ」
「あははっ! まあ、それもそうね!」
まったく、楽しそうに笑ってくれるなあ。
でも、こうして仕事を任せてもらえるようになったのは、少し嬉しい。
「せっかくのお給料ですから、何か好きなものを買うのもいいと思いますよ」
フォールさんにそう言われて、俺は改めて袋の口を開いてみた。
中には硬貨がいくつか入っている。こちらの物価は日本とは違うから単純な比較はできないけど、決して大きな金額というわけではなさそうだ。
とはいえ、普段の生活に必要なものはほとんど用意してもらっている。そう考えると、これを何に使うかは案外自由なのかもしれない。
「そうですね……せっかくだし、何か買ってみようかな」
「いいじゃない! 何か欲しいものでもあるの?」
「いや、それが特に思いつかなくてさ」
言われてみれば、この世界に来てから、自分のために何かを買おうと考えること自体があまりなかった気がする。必要なものを揃えるのと、欲しいものを選ぶのとでは、随分勝手が違う。
「チャミー、お前なら何を買う?」
『購入目的によります。日用品の補充、仕事に必要な道具の購入、あるいは将来に備えた貯蓄などが考えられます』
「いや、そういう実用的な話じゃなくてさ。初給料で何か記念になるものを買うなら、ってことなんだけど」
『記念品であれば、購入後も長期間使用または保管できるものが適していると考えられます。ただし、具体的な候補を挙げるには、都尊さんの希望する品目や予算について、もう少し情報が必要です』
「……結局、俺が決めないといけないってことか」
『はい。都尊さんが何を記念にしたいのかは、私が決定することではありませんので』
「まあ、そりゃそうだよなあ」
正論だ。実に正論なんだけど、もう少し夢のある答えを期待した俺が間違っていたのかもしれない。
「ねえ、クニタカ。さっきからチャミーと何を内緒話してるの?」
コメリアが横からスマホを覗き込んできた。
「いや、初給料で何を買うか相談してたんだけど、なかなか決まらなくてさ」
「そんなの、お店に行ってから考えればいいじゃない!」
「……ああ、そういう手もあるか」
「そうよ! 見て回ってるうちに、欲しいものが見つかるかもしれないでしょ?」
コメリアは何でもないことのように言うと、何か思いついたらしく、ぱっと顔を明るくした。
「そうだ! 今度、一緒に買い物に行かない?」
「いいのか? まだこっちのお店には詳しくないし、案内してもらえるなら助かるけど」
「もちろん! クニタカ一人じゃ、どこに行けばいいかも迷いそうだものね!」
「……そこまで頼りないつもりはないんだけどな」
「ふふん! 任せなさい!」
コメリアは得意そうに胸を張っている。
まあ、実際に知らない店も多いし、案内してもらえるならありがたい。何より、買うものを決めずに店を見て回るというのも、たまには悪くなさそうだ。
「それじゃあ、今度よろしく頼むよ」
「うん! 楽しみにしてて!」
そう言って笑うコメリアを見ていると、何だか俺まで楽しみになってきた。
この世界で初めて働いて得たお金で、何かを買う。
考えてみれば、ちょっとした記念日みたいなものかもしれない。
何を買うかはまだ決まっていないけど、せっかくだから、あとで思い出せるようなものがいいな。
「さて、それではクニタカ君」
フォールさんの声に振り返ると、いつの間にか別の書類の束を手にしていた。
「お給料もお渡しできましたし、こちらの整理もお願いできますか?」
「あ、はい。……って、結構な量ですね、それ」
「ははは。少し溜まってしまいましてね」
フォールさんが机に置いた書類を見て、俺は思わず目を瞬かせた。
いや、少しって……これ、結構あるぞ?
「お父さん! またそんなに溜め込んでたの!?」
「いやあ、調査の方が忙しかったものですから。つい後回しになってしまいましてね」
「もう! そうやって後回しにするから、どんどん増えるんでしょ!」
「ははは。いやあ、面目ありません」
コメリアが呆れたように腰に手を当てる一方、フォールさんは困ったように笑っている。
調査のときはあんなに頼りになるのに、書類仕事になるとどうしてこうなんだろうなあ。
「すみませんね、クニタカ君。お願いできますか?」
「もちろんです。俺の仕事ですから」
そう答えて書類を受け取り、ざっと中身を確認してみる。依頼の記録や経費の書き付けが混ざっているので、まずは種類ごとに分けた方がよさそうだ。
……うん。これは少々時間がかかるな。
さっきまで整理していた書類を端に寄せ、新しく受け取った束を机に広げていると、コメリアがこちらを覗き込んできた。
「……クニタカ、大丈夫? 私も少し手伝おうか?」
「ああ、ありがとう。でも、こっちは何とかなりそうだし、コメリアも自分の仕事があるだろ?」
「そうだけど……あんまり無理しないでよね」
「分かってるって」
コメリアは少し気にしている様子だったけど、俺が笑って答えると、自分の机へ戻っていった。
さて、こっちも始めるか。
日付を確認して、依頼ごとに分けて……と。
作業を進めながら、ふと机の端に置いた小さな袋へ目を向ける。
ここに来たばかりの頃は、何もかもフォールさんたちに頼りきりだった。それが今では、こうして仕事を任せてもらっている。
まだまだ世話になっていることの方が多いけど、少しはこの世界での暮らしにも馴染んできたのかもしれない。
そんなことを考えていると、何となく口元が緩んだ。
……さて、何を買おうかな。
せっかくだし、コメリアに案内してもらって、いろいろ見て回るのも楽しそうだ。
もっとも、その前にこの書類を片付けないといけないんだけど……。
改めて机の上に広がる書類を眺める。
住み込みで食事付き。給料も出るし、仕事も教えてもらえる。
……ただし、勤務時間は依頼次第で、休日も特に決まっていない。おまけに仕事は次から次へと増えていく。
これ、日本の労働基準法に当てはめたら、どういう扱いになるんだろうな?
いや、もちろん不満があるわけじゃないぞ。フォールさんには感謝しているし、仕事だって嫌いじゃない。
嫌いじゃないんだけど……。
……やっぱり、ちょっとだけブラック企業っぽくないか、この事務所?




