小さな変化
その日は珍しく依頼もなく、探偵事務所にはのんびりとした時間が流れていた。フォールは机に向かって書類を眺め、俺はソファーで本を読んでいる。コメリアはといえば、さっきから窓の外を眺めたり、部屋の中を歩き回ったりと、どうにも落ち着かない様子だった。
「ねえ、パパ。何か面白い話でもないの?」
「何だ、メリア。退屈なのか?」
「だって、こうも静かだと暇なんだもの」
「ははは。何も起きないのは、平和でいいことじゃありませんか」
「そう言いながら、パパだって事件があると楽しそうにするくせに!」
「おや、そんなに顔に出ていますかねえ」
「出てるわよ! 思いっきり!」
フォールは困ったように笑っているが、否定する気はなさそうだ。俺が本を閉じて二人のやり取りを眺めていると、ちょうど事務所の扉がノックされた。
「こんにちは。皆さん、いらっしゃいますか?」
「あら、ジャン先生!」
コメリアが真っ先に扉へ向かい、入ってきたジャンをソファーまで案内する。ジャンは俺たちに挨拶をすると、フォールに勧められるまま腰を下ろした。
「近くまで来たものですから、少し顔を出そうかと思いまして。それと、皆さんにお伝えしたいことがありましてね」
「おや、何でしょう?」
「メリーさんのことなんです。あれからずいぶん調子がよくなりまして」
「えっ、メリーさん!?」
コメリアが勢いよく身を乗り出すものだから、ジャンは少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ええ。ローズさんが作るスープを、今では毎日しっかり食べているそうですよ。最初は本当に少しずつだったんですが、最近では自分から食べたいと言うこともあるそうです」
「本当ですか! よかった……!」
思わず声が出た。あのときは、ローズと一緒にスープを工夫してみたものの、実際にメリーが食べられるかどうかまでは分からなかった。それだけに、こうして結果を聞けたのは嬉しい。
「ねえ、クニタカ! あのスープよね? 私が味見した!」
「そうだけど、なんで真っ先にコメリアの味見が出てくるんだよ」
「だって、おいしかったもの! メリーさんも気に入ってくれたんでしょ?」
「まあ、そういうことなんだろうけど……」
「ふふっ。ローズさんも喜んでいらっしゃいましたよ。今では食べる量も増えてきたので、そろそろ柔らかい固形物を試してみてもいいかもしれません」
「それなら、もう普通の食事もできるようになるのね!」
「メリア、まだ少し気が早いんじゃないかな」
「えー、そう?」
「ははは。私も早くそうなってほしいと思っていますよ。ただ、せっかく食べられるようになったんですから、焦らず進めていきたいところですね」
ジャンはそう言ってから、思い出したように付け加えた。
「それと、夜中に歩き回ることも、あれ以来なくなっているそうです」
「えっ、あれも!?」
「はい。最近は夜もよく眠れているようですよ」
「じゃあ、もう治ったってこと?」
「さて、どうでしょうね。今のところは落ち着いていますが、もう少し様子を見たいところです」
睡眠時遊行症は、ストレスや睡眠不足などが引き金になることもあると大学で習った覚えがある。今回もそうだったのかもしれないが、原因を決めつけることはできないし、症状が出なくなったからといって安心しきるのも早いだろう。
「先生、メリーさんの普段の様子はどうなんです?」
「以前より、ずっと明るくなりましたよ。診察のときもよく笑うようになりましてね。先日なんて、ローズさんとのおしゃべりに夢中で、私が帰ろうとしていることにも気づかなかったくらいです」
「ははは! それは先生も寂しかったでしょう」
「ええ、少しばかり。でも、あんなに楽しそうな二人を見ていたら、声を掛けるのも悪い気がしましてね」
ジャンは照れくさそうに笑った。どうやら、俺たちが知らない間に二人の関係もずいぶん変わってきたらしい。
「それじゃあ、もう一緒に暮らしているんですか?」
「いいえ。メリーさんは今も自分の部屋で暮らしています。ただ、最近は自分からローズさんの部屋を訪ねるようになったそうですよ」
「自分から?」
「ええ。先日も突然やってきて、『今日は一緒に食べてもいい?』と聞かれたそうです。ローズさん、その話をしているとき、今にも泣き出しそうな顔をしていましたよ」
「うわぁ……それは嬉しいでしょうね!」
コメリアが頬を緩める。俺も、あのときのローズの姿を思い出していた。
少しでもメリーに食べてほしいと、具だくさんのスープを用意していたローズ。何とかしてあげたいのに、どうすればいいか分からず、困り果てていたあの人にとって、メリーの方から食事に誘ってくれたことがどれほど嬉しかったか。
「それじゃあ、もう親子みたいなものじゃない!」
「メリア、まだ少し気が早いんじゃないかな」
「もう、パパったら! さっきからそればっかり!」
「ははは。ですが、二人には二人の歩み方があるでしょう。急ぐこともありませんよ」
「分かってるわよ。でも、嬉しいじゃない!」
「ええ、それは私も同じですよ」
フォールが微笑むと、コメリアもようやく満足したように頷いた。
「ローズさんも、今はそれで十分だとおっしゃっていました。メリーさんが来てくれるなら、いつでも迎えてあげたいそうです」
「そうですか……」
同じ建物の同じ階に住んでいても、以前はなかなか近づけなかった二人。それが今では、メリーの方からローズの扉を叩くようになった。あのときの調査では、二つの部屋が似ていることが謎を解く鍵になったけれど、今はその近さが、少し違う意味を持つようになったのかもしれない。
「それにしても、クニタカ君。ローズさんから、何度もお礼を言われましたよ。スープの作り方を教えてもらえて、本当によかったと」
「いやいや、俺は具を細かくしただけですから。元々おいしいスープでしたし」
「ふふっ。ローズさんも同じようなことをおっしゃっていましたよ。『私はいつものスープを作っただけです』って」
「ははは! では、お二人の合作ということですね」
フォールが楽しそうに笑うと、コメリアがすかさず口を挟んできた。
「ちょっと! 私だって味見したんだから!」
「さっきから味見にこだわるなあ、コメリア!」
「何よ! 大事な仕事でしょ!」
「ははは。それなら、今度はコメリアさんにも手伝っていただきましょうか」
ジャンの冗談にコメリアが目を輝かせる。
「それ、いいわね! クニタカ、今度あのスープ作ってよ!」
「は? なんで俺が?」
「だって、作り方知ってるでしょ?」
「具を細かくしただけだって言ってるだろ!」
「それは楽しみですねえ。私も、もう一度いただいてみたいと思っていたんですよ」
「フォールさんまで!? 俺、料理人じゃなくて探偵助手ですからね!」
「ははは! もちろん分かっていますよ。まあ、機会があればということで」
まったく、この親子は油断も隙もない。助けを求めてジャンを見ると、ジャンまで楽しそうに笑っている。
「いやあ、本当にありがとうございました。皆さんにお願いしてよかったですよ」
「こちらこそ、わざわざ知らせに来ていただいてありがとうございます」
「先生、またメリーさんの話、聞かせてね!」
「ええ、もちろんです」
ジャンが笑顔で頷くと、コメリアはまだ諦めていないらしく、こちらをちらちらと見ている。どうやら、スープの話は終わっていないようだ。
「……チャミー。俺、探偵助手だよな?」
『はい。少なくとも、料理人として雇用された記録はありません』
「だよな! ほら、チャミーもこう言ってるぞ!」
「じゃあ、今からお願いすればいいのね!」
「そういう意味じゃない!」
楽しそうに笑う三人を前に、俺は思わず天井を仰いだ。
……次こそは、ちゃんと探偵らしい仕事がしたい。




