ディクソン家の朝
ディクソン家で迎える最初の朝。
目を覚ました俺は、見慣れない天井を眺めながら、しばらくぼんやりしていた。
……そうか。昨日から、ここが俺の寝泊まりする場所になったんだっけ。
改めて考えても、なかなか無茶苦茶な一日だったな。
「チャミー。昨日のこと、まだちょっと信じられないんだけど」
「はい、都尊さん。短時間で生活環境が大きく変化したことは事実です」
「そうなんだけどさ。何というか、もっとこう……異世界に来た実感が湧くような出来事があると思ってたんだよ」
「魔法の存在や、地球とは異なる社会制度などは、すでに確認されています」
「いや、それはそうなんだけど……」
相変わらず真面目な返事だ。言われてみれば、昨日だけでも十分すぎるほど異世界らしい体験をしている。
そういえば、帰りに乗った辻馬車もそうだ。石畳を進む車輪の音を聞きながら、まさか本当に馬車に乗る日が来るとは思わなかったし、窓から見える街並みも、まるで昔のヨーロッパに迷い込んだようだった。
……いや、十分異世界を満喫してるじゃないか、俺。
それでも、目が覚めたら知らない場所にいるという状況を除けば、今のところ生活そのものに大きな違いは感じていなかった。
ベッドから起き上がり、改めて部屋を見回してみる。木製の家具に落ち着いた色合いの壁紙、窓には厚手のカーテンが掛けられていて、どこか昔のヨーロッパを思わせる雰囲気だ。
ただ、部屋の隅に置かれた照明器具だけは少し変わっていた。金属製の台座に乳白色の球体が載った、ランプのような形をしているのだが、火を灯すわけでも電気を使うわけでもない。昨夜、コメリアに使い方を教えてもらった魔道具だ。
考えてみれば、こういうものこそ異世界らしいのかもしれない。
「……魔法の明かりか。普通に使えるから、あんまり気にしてなかったな」
「生活に必要な技術が、地球とは異なる方法で実現されているということですね」
「そういうことなんだろうな。見た目は古風なのに、案外便利だし」
もっとも、まだこの部屋で一晩過ごしただけだ。こちらの暮らしについて分かったつもりになるには、さすがに早すぎるだろう。
身支度を済ませて部屋を出ると、廊下の向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。
「パパ! またこんなところに置いて!」
「おや、どうしたんだい、メリア」
「どうしたんだい、じゃないでしょ! この間の仕事の書類! どうして廊下の棚に置いてあるのよ!」
「ああ、あれか。あとで確認しようと思ってね」
「それ、昨日も言ってたわよね?」
「そうだったかな?」
「そうだったの!」
……朝から賑やかだな。
声のする方へ向かうと、数枚の書類を手にしたコメリアと、その後ろをのんびり歩くフォールの姿が見えた。どうやら書類の置き場所を巡って揉めていたらしいが、フォールには叱られているという自覚があるのかどうかも怪しい。
「あ、おはようございます」
「おや、クニタカ君。おはようございます。よく眠れましたか?」
「あ、はい。まあ……」
「それはよかった」
……いや、まだちゃんと答えてないんだけど。
フォールの隣でコメリアもこちらに気づき、少しだけ表情を和らげた。
「あら、クニタカ。もう起きてたの?」
「ああ、おはよう。……昨日は部屋を貸してくれてありがとう」
「……別に。ちゃんと眠れた?」
「思ったよりは。やっぱり知らない家だと、ちょっと落ち着かないけど」
「……まあ、それはそうでしょうね」
コメリアは納得したように頷いたあと、何か言いたげにフォールを見た。もっとも、当のフォールは気にした様子もなく、俺たちを朝食へ誘ってくれた。
食事をする部屋へ向かう途中、台所の前を通りかかったところで、ふと足が止まった。
調理台には鍋や食器が片付けられていて、その一角に、金属製の平たい器具が据えられている。形は少し違うものの、どうやらコンロらしい。ところが、見慣れたガスの配管も電源コードも見当たらなかった。
「……これも魔道具なのか?」
思わず呟くと、先を歩いていたコメリアが振り返った。
「え? ああ、調理用の魔道具のこと? そうよ」
「へえ……。料理まで魔法なんだな」
「何よ、その言い方。普通に料理できるわよ?」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
どうも、うまく伝わらない。俺が驚いているのは料理ができるかどうかではなく、そのための道具まで魔法で動いていることなのだが、コメリアにとっては何を今さらという話なのだろう。
魔法と聞けば、つい派手な光や不思議な現象を想像してしまう。けれど、この世界では部屋を照らすことも、食事を作ることも、当たり前のように魔法の技術に支えられているらしい。
「クニタカ君の世界とは、ずいぶん違うようですね」
フォールが興味深そうに笑った。
「ええ。俺のいたところだと、こういうのはガスとか電気を使ってましたから」
「なるほど。それはまた、興味深いですね」
フォールは何か考え始めたようだったが、そこへコメリアの声が割り込んだ。
「パパ、クニタカ。そんなところで話してないで、早く食べましょ。朝ご飯が冷めちゃうわよ」
「ああ、ごめん」
「おっと、そうでしたね」
慌てて食卓へ向かいながら、俺はもう一度だけ台所を振り返った。
……異世界の魔法って、思ってた以上に生活感があるんだな。
食卓にはすでに朝食が並んでいた。勧められた席に座ったものの、昨日初めて会った人たちと一緒に食事をするというのは、やはり少し落ち着かない。そんな俺をよそに、ディクソン親子はいつもどおりの朝を過ごしているようだった。
コメリアは持っていた書類を食卓から離れた場所へ置き、席に着くと、さっそくフォールへ念を押した。
「パパ。あの書類、あとでちゃんと片付けておいてよね」
「もちろんだよ、メリア」
「昨日もそう言ってたんだからね?」
「ははは。なかなか手厳しいね」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
コメリアは呆れたように言いながらも、フォールの前に置かれた食器を少し寄せた。フォールは礼を言って食事を始め、コメリアもそれ以上は何も言わなかった。
それにしても、昨日の事件を調べていたときとは、ずいぶん雰囲気が違う。フォールは仕事中も穏やかだったけれど、こうして家にいると、どこにでもいる気さくな父親に見える。
「チャミー。フォールさんって、家ではこんな感じなんだな」
「はい。ただし、普段から同様であるかについては、まだ十分な情報がありません」
「……まあ、昨日会ったばかりだもんな」
小声で話していると、コメリアがこちらを向いた。
「……クニタカ、何か言った?」
「え? ああ、ちょっとチャミーと話してた。フォールさんって、家だとずいぶん雰囲気が違うなって」
「……ああ、そういうこと。仕事のときはちゃんとしてるのよ、パパも」
「おや、メリア。家ではちゃんとしていないように聞こえるね」
「そう言ってるのよ?」
「……おやおや。これは手厳しい」
フォールは困ったように笑ったが、反論する気はなさそうだった。
……否定しないんだ。
思わず笑いそうになった俺に、コメリアがじろりと視線を向ける。
「何よ。クニタカまで笑わなくてもいいでしょ」
「いや、別に……仲がいいんだなって」
「普通よ、普通」
そう言いながら、コメリアは何事もなかったように食事を続けた。昨日、事件の調査に同行していたときも思ったけれど、コメリアは父親に対して遠慮がない。ただ、文句を言いながらも何かと世話を焼いているあたり、普段からこんな調子なのだろう。
食事が進むにつれて、俺の緊張も少しずつ薄れてきた。フォールは時折こちらへ話を振ってくれるし、コメリアも俺が食卓で戸惑っていると、さりげなく教えてくれる。昨日の事件のときには気づかなかったが、二人とも思った以上に気を遣ってくれているようだ。
「そういえば、コメリアって、いつもフォールさんの仕事を手伝ってるの?」
「いつもってわけじゃないけど、手伝えるときは一緒に行くわよ。どうして?」
「いや、親子で探偵の仕事をしてるって、ちょっと珍しいなと思って」
「そうかしら? まあ、パパが一人で出かけちゃうこともあるけどね」
コメリアが何気なく口にすると、フォールは少し困ったように笑った。
「私としては、ちゃんと声をかけているつもりなんですがね」
「出かける直前に言われても困るのよ。こっちにも準備があるんだから」
「それは確かにそうだね。今度から気をつけよう」
「……本当でしょうね?」
コメリアは疑わしそうな顔をしていたが、フォールが笑うと、それ以上は追及しなかった。どうやら、このやり取りも二人にとっては珍しくないらしい。
仕事中の二人を見たのは昨日が初めてだが、コメリアはただ父親について回っているわけではないのだろう。フォールも彼女を助手として頼りにしているようだったし、少なくとも、俺よりずっと探偵の仕事に慣れていることは間違いない。
「ところで、クニタカ君」
フォールが食器を置き、こちらへ顔を向けた。
「昨日のことで、何か気になることはありませんでしたか? 分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「そうよ、クニタカ。分からないことがあったら、ちゃんと聞いてね。勝手に判断して動かれると困るから」
「ああ、それは分かってる。知らないことだらけだし、むしろ色々教えてもらわないと困るよ」
コメリアは頷いたあと、ふと思い出したようにフォールへ顔を向けた。
「……パパも同じだからね」
「おや、私もですか?」
「そうよ。パパだって、気になることを見つけると一人でさっさと行っちゃうことがあるでしょ?」
「ははは。耳が痛いな」
フォールは素直に笑っているが、コメリアの方はまだ何か言いたそうだった。
「……まったく。クニタカが来たからって、二人で勝手に出かけたりしないでよね」
「もちろんだよ。メリアにも声をかけるさ」
「だから、出かける直前じゃ遅いんだってば!」
コメリアが声を上げると、フォールはまた楽しそうに笑った。どうやら、俺が助手になったことで、彼女の心配事が一つ増えてしまったらしい。
とはいえ、俺自身もまだ助手として何をすればいいのか、よく分かっていない。昨日は事件に巻き込まれる形でフォールたちと行動したけれど、これからはそれが仕事になるのだ。
知らない世界で、知らない仕事を始める。朝食を囲んでいる間は忘れかけていたが、考えてみれば、これもなかなか無茶な話だよな……。
「チャミー。俺、ちゃんとやっていけるかな……」
「都尊さん。探偵助手としての経験はありませんが、必要な知識を身につけていくことは可能です」
「……そうだよな。最初から何でもできるわけじゃないし」
昨日の事件だって、チャミーと一緒に考えなければ、どうなっていたか分からない。これからも分からないことは一つずつ覚えていくしかないのだろう。
「クニタカ君、どうかしましたか?」
顔を上げると、フォールがこちらを見ていた。
「あ、いえ。助手の仕事、ちゃんとできるかなと思って」
「ははは。最初から何でもできる人はいませんよ。私も、まだまだ知らないことばかりですからね」
「……パパの場合は、知らないことがあるとすぐ調べに行っちゃうんだけどね」
「それが一番確かですからね」
フォールは当然のように答え、コメリアは呆れた顔をしたものの、今度は何も言い返さなかった。
しばらくして、食事も終わりに近づいたころ。フォールが何かを思い出したように顔を上げた。
「そうだ、メリア。先ほどの書類ですが……」
「何?」
「あとで確認しようと思っていたんですが、どこに置きましたか?」
「……パパの後ろよ。さっき私が置いたでしょ」
「ああ、そうだったね。ありがとう、メリア。助かったよ」
フォールは振り返って書類を見つけると、納得したように頷いた。コメリアは小さくため息をつき、今度こそちゃんと片付けるように念を押している。
「もちろんだよ」
そう答えたフォールが、さっそく書類へ手を伸ばした。
……あ。
「パパ! 食事中に書類を広げないで!」
「おっと、そうだった」
俺はとうとう笑ってしまった。
コメリアも呆れた顔をしていたが、最後にはつられて笑っている。フォールに至っては、最初からずっと楽しそうだ。
昨日まで、まったく知らなかった人たちと、こうして同じ食卓を囲んでいるのが何だか不思議だった。まだ遠慮はあるし、これからどうなるのかも分からないけれど、少なくとも居心地が悪いわけではない。
俺は残っていた食事に手を伸ばしながら、笑い合う二人を眺めた。
……この家での生活、退屈することだけはなさそうだ。




