誤解のち相互理解
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ヴァーノンは額に当てていた手を下ろすと、俯いたままのバイロンを見た。
「……まさか、お前がそこまで考えてたとはな」
「兄さん……」
「俺が親父の遺言書を気に入らねえだろうってのは、その通りだ。だがな、だからって俺が何をするかまで勝手に決めて、利用しようとするんじゃねえよ」
「……申し訳ありません」
「謝ることでもないがな。俺があの部屋で何をするかなんて、お前にも分からなかったんだろ? それなのに、よくもまあ、そんな危なっかしいことを考えたもんだ」
ヴァーノンは呆れたように首を振ったが、バイロンは黙って俯くばかりだった。しばらくその様子を眺めていたヴァーノンは、何も言い返してこない弟に焦れたのか、苛立たしげに頭をかいた。
「……おい。何とか言ったらどうなんだ」
「何を言えばいいんですか。兄さんを利用しようとしたことは事実ですし、結果として兄さんが遺言書を隠したのも事実です。今さら言い訳をするつもりはありません」
「だったら、一つ聞かせろ。お前、俺がホテルのことなんざどうでもいいと考えてたと思ってたのか?」
「……兄さんは、父さんとずっと折り合いが悪かったでしょう」
「だから何だよ」
「父さんの残したホテルを、負債まで含めて引き受けたいとは思わないだろうと……」
「……お前なあ」
ヴァーノンは呆れたように息を吐いた。
「お前が何で相談しなかったのかは、さっき聞いた。だがな、俺が親父を嫌ってたからって、ホテルまで嫌ってると決めつけるんじゃねえよ」
「ですが、兄さんは父さんと経営方針でもよく対立していましたし……」
「経営方針ねえ……。まあ、間違っちゃいねえが、そんな生易しい話じゃねえんだよ」
ヴァーノンは苦々しげに笑った。
「そもそも、お前は俺が何で親父とあそこまで喧嘩してたのか、知ってんのか?」
「それは……父さんと意見が合わなかったからでは?」
「親父はな、ホテルの金を自分の財布か何かと勘違いしてやがったんだ。趣味だの道楽だのに好き勝手使って、足りなくなりゃホテルに借金を背負わせる。俺が何度やめろと言っても、聞く耳なんざ持ちやしねえ。挙げ句、自分のホテルなんだから何をしようと勝手だときたもんだ」
「……待ってください」
バイロンが思わず身を乗り出した。
「それでは、ホテルに残された負債というのは……」
「ああ。親父が好き放題やったツケだよ。経営が楽だったなんて言わねえが、あそこまで借金が膨らんだのは、親父の浪費が原因だ」
「そんな……。私はてっきり、経営上の問題で生じた負債だと……」
バイロンは呆然と兄を見つめた。
「……兄さんは、そのことをずっと知っていたんですか?」
「ああ。俺が親父と喧嘩してた理由の一つがそれだからな。あいつがホテルの金を好き勝手に使うたびに文句を言ってたんだが、聞きゃしねえ。しまいにゃ俺が何を言っても、口を出すなと怒鳴り返すだけになりやがった」
ヴァーノンはそこで言葉を切り、苦々しげに顔を歪めた。
「祖父さんが苦労して築いたホテルを受け継いだだけのくせに、自分の好き勝手にしていいと思ってやがったんだ。俺にはそれが我慢ならなかった。だが、何を言ったところで親父は変わらねえ。顔を合わせりゃ喧嘩になって、しまいにゃ俺も親父の顔を見るだけで腹が立つようになっちまった」
「……そうだったんですか」
バイロンは俯き、しばらく黙り込んでいたが、やがて小さく口を開いた。
「それなら……どうして私に教えてくれなかったんですか?」
「はあ?」
「私はずっと、ホテルの経営が悪かったから借金ができたんだと思っていました。父さんが亡くなってから、どうすれば立て直せるのか、そればかり考えて……。兄さんが事情を知っていたのなら、なぜ何も……」
「お前だって、俺に何も言わなかっただろうが」
ヴァーノンが遮った。
「俺がホテルのことなんざどうでもいいと思ってると決めつけて、相談もしなかった。違うか?」
「それは……兄さんにまで負担をかけたくなかったんです。それに、父さんとあれだけ対立していた兄さんに、借金まで背負ってほしいなどと……」
「だから、勝手に決めつけんじゃねえって言ってんだよ。俺が嫌ってたのは親父だ。ホテルじゃねえし、お前らでもねえんだ」
ヴァーノンはそこで一度言葉を止め、バイロンの顔を見た。
「……まあ、俺も偉そうなことは言えねえか。お前らに親父のやってたことを話さなかったのは、どうせ言ったところで、親父との喧嘩に巻き込むだけだと思ってたからだからな。お前はお前で、俺には話しても無駄だと思ってたってわけだ」
バイロンは何も言い返せなかった。ヴァーノンもそれ以上責めることはせず、椅子の背にもたれて大きく息を吐いた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
それまで二人のやり取りを聞いていたヴィクターが、慌てたように声を上げた。
「今の話、本当なの? ホテルの借金って、父さんが遊びに使ったお金なの?」
「ああ。そういうことだ」
「いやいや、ちょっと待って! 俺、ホテルに借金があること自体、今日初めて聞いたんだけど! それなのに、そんな話まで出てくるなんて……」
ヴィクターは困惑した様子で二人の兄を見比べた。
「バイロン兄さんは借金のことを知ってて、ヴァーノン兄さんはその原因まで知ってた。でも、二人とも俺には何も言ってなかったってこと?」
「お前はホテルを離れてるんだ。知らなくても仕方ねえだろ」
「いや、そういう問題じゃなくない? 俺だって息子なんだけど?」
ヴィクターは呆れたように両手を広げた。
「父さんが何やってたか知らないのは仕方ないとしてもさ、兄さんたちがそんなこと考えてたなんて、全然知らなかったよ。言ってくれればよかったのに」
「言ってどうすんだよ。お前にはお前の仕事があるだろうが」
「だからって、最初から俺を勘定に入れないのは違うでしょ。俺だって、できることがあれば協力するよ。何でもできるなんて言わないけど、何も知らされないまま、兄さんたちだけで勝手に決められるのは嫌だな」
いつもの軽い口調のままだったが、ヴィクターは真剣な表情で二人の兄を見ていた。
「……ヴィクター」
バイロンが小さく呟いた。
「私も、あなたには余計な負担をかけたくなかったんです」
「うん。それは分かるよ。でもさ、バイロン兄さんが一人で背負い込んで、結果がこれじゃん? だったら、もうちょっと俺たちを信用してくれてもよかったんじゃない?」
バイロンは返す言葉を探しているようだったが、結局、何も言わずに目を伏せた。
ヴァーノンも黙って弟を見ていたが、やがて深いため息をついた。
「……ったく。偉そうなこと言ってるが、俺も人のことは言えねえか」
「兄さん?」
「親父の遺言書を隠した理由だよ。さっき、ろくなことが書いてねえと思ったって言っただろ。あれは本当だ。だが、それだけじゃねえ」
ヴァーノンは腕を組み直し、しばらく弟たちの顔を眺めていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「俺はな、親父に嫌われてたんだよ。お前らも知ってるだろ。顔を合わせりゃ喧嘩ばっかりで、まともに話したことなんざ数えるほどしかねえ。あいつにとっちゃ、俺は自分に逆らう厄介者だったんだろうな」
「……そんなこと」
ヴィクターが言いかけたが、ヴァーノンは首を振った。
「いいんだよ。俺だって親父が大嫌いだったんだから、お互い様だ。だがな……」
そこまで言って、ヴァーノンは口を閉じた。
先ほどまであれほど勢いよく怒鳴っていた男が、今は何か言いにくそうに視線を逸らしている。バイロンもヴィクターも、そんな兄を急かすことなく待っていた。
「……親父が死んで、遺言書があるって聞いたとき、真っ先に思ったんだ。どうせ俺には何も残さねえつもりなんだろうってな」
「兄さんは、遺言書の内容をご存じないんですよね?」
バイロンの問いに、ヴァーノンは頷いた。
「ああ。知らねえよ。だが、あの親父のことだ。俺に都合のいいことが書いてあるなんざ、到底思えなかった」
「でもさ、それなら中身を確かめてからでも……」
「分かってるよ、ヴィクター。俺だって馬鹿なことしたと思ってる。だがな、もし本当に俺だけが外されてたら、どうすりゃよかったんだ?」
ヴィクターは答えに詰まった。
「俺は別に、お前らより多く欲しいわけじゃねえ。ホテルを独り占めしたいとも思ってねえよ。だが、親父に嫌われてたってだけで、俺一人が相続から外されるのは……」
ヴァーノンはそこで言葉を止め、乱暴に頭をかいた。
「……くそっ。何言ってんだ、俺は」
「兄さん……」
「笑いたきゃ笑えよ。いい歳して、親父に嫌われてたのがそんなに悔しいのかってな」
「笑わないよ」
ヴィクターが即座に答えた。
「俺たち、兄弟じゃん。父さんがどう思ってたかなんて関係ないでしょ。少なくとも俺は、ヴァーノン兄さんを兄弟じゃないなんて思ったこと、一度もないよ」
ヴァーノンは意外そうに弟を見たものの、何も言わなかった。
「……私もです」
バイロンが静かに続けた。
「兄さんが父さんと対立していたことは知っています。でも、それで兄さんを家族ではないと思ったことなどありません。だからこそ、私は三人でホテルを相続できればと……」
「だったら、最初からそう言えよ」
ヴァーノンが遮ったが、その声に先ほどまでの荒々しさはなかった。
「俺がお前らのことをどう思ってるか、聞けばよかっただろ。勝手に俺を利用して、遺言書をなくそうとするんじゃなくてよ」
「……おっしゃる通りです」
「ったく……。まあ、俺も同じか。お前らがどう思ってるか聞きもしねえで、親父の遺言書がなくなりゃ三人で相続できるって、そればっかり考えてたんだからな」
バイロンは俯き、ヴィクターも少し困ったように笑った。
「なんかさ……俺たち、ちゃんと話すの久しぶりだよね」
「……そうですね」
「それで、久しぶりに集まってやってることが、遺言書を隠しただの、隠させようとしただのって……。いや、兄さんたち、もうちょっと何とかならなかったの?」
「うるせえな。お前に言われなくたって分かってるよ」
ヴァーノンはそう言って顔を背けたが、今度は怒鳴らなかった。バイロンも何か言いかけ、結局、小さく苦笑するだけにとどめた。
俺は三人のやり取りを黙って見ていた。
最初は遺言書を巡って互いに疑い合っていた兄弟が、今になってようやく、それぞれの事情を知ることになったらしい。もっと早く話し合っていれば、こんな事件にはならなかったんじゃないかとも思うが、俺が口を挟むようなことでもないだろう。
「さて、皆様」
それまで黙って三兄弟のやり取りを見守っていたフォールが、頃合いを見計らったように口を開いた。
「ご三方のお考えも、互いにお分かりになったところで……そろそろ遺言書のお話に戻らせていただいてもよろしいでしょうか?」
三兄弟の視線がフォールへ向けられた。




