噛み合わない思い
「……そこまでお分かりなのであれば、もう隠しておく意味はありませんね」
バイロンは静かにそう言うと、フォールから兄弟たちへ視線を移した。
「おっしゃるとおりです。あの日、父の部屋の鍵を落としたのは、偶然ではありません。私がわざと落としました」
「……おい、バイロン。そりゃどういう意味だ?」
ヴァーノンが低い声で尋ねる。
「兄さんに拾ってもらうためです。あのとき、兄さんが廊下にいるのは分かっていましたから」
「じゃあ、お前……俺が拾うのを見てたってのか?」
「はい。それに、兄さんが父の部屋へ入るところも見ています」
「……!」
ヴァーノンが勢いよく立ち上がった。
「だったら何で黙ってた! 俺が入ったことを知ってたんなら、最初からそう言えばよかっただろうが!」
「……私が仕向けたことまで知られてしまいますから」
バイロンは兄の視線を受け止めたまま答えた。ヴァーノンは何か言い返そうとしたようだったが、結局、舌打ちして椅子へ腰を下ろした。
「それで、鍵を探しているふりをしたのですね?」
フォールが尋ねる。
「ええ。兄さんが部屋に入ったのを確認してから少し時間を置いて、部屋の前で鍵がないと、中に聞こえるように言いました。そうすれば、兄さんが返してくれると思ったので」
「……実際、俺は返したわけだ」
「はい」
ヴァーノンは苦々しい顔でバイロンを睨んだ。
「しかし、鍵を拾わせたとしても、ヴァーノンさんが部屋へ入るとは限りません。まして、遺言書をどうするかなど、あなたには分からなかったはずです」
「……そうですね。兄さんが何もしない可能性もありました」
「それでも、試したのですか?」
「はい。兄さんと父の仲がよくなかったことは知っていましたから。遺言書が自分に不利なものかもしれないと思えば、何かするのではないかと……」
「……ったく」
ヴァーノンが吐き捨てるように言い、顔を背けた。
「バイロン兄さん、どうしてそこまでしたの?」
それまで黙っていたヴィクターが口を開いた。
「遺言書がなくなったって、兄さんに何か得があるわけじゃないだろ?」
「……ヴィクター。父さんが、このホテルを誰に継がせようとしていたか、知っているかい?」
「え? いや、知らないけど……」
「父さんは、お前に継がせるつもりだったんだ」
「……僕に?」
ヴィクターは目を丸くした。
「ちょっと待ってよ。そんな話、聞いてないよ?」
「私も父さんから直接聞かされただけで、遺言書の中身を見たわけじゃない。けれど、そうするつもりだと言っていた」
「何で僕なんだよ。ホテルの仕事なんて、バイロン兄さんがずっとやってきたじゃないか」
「……それが問題だったんだ」
バイロンはそこで一度言葉を切り、膝の上で組んだ手を見つめた。
「このホテルには、多額の負債がある」
「負債って……借金?」
「ああ。支配人として経営を見てきたから、どれほど厳しい状況なのかも分かっている」
「そんな……」
「お前には自分の事業がある。父さんがなぜお前に継がせようとしたのか、本当のところは分からないが……負債まで引き受けさせていいとは思えなかったんだ」
「だったら、そう言ってくれれば……」
「言えば、お前はどうした?」
思わず口をついて出たような問いに、ヴィクターが言葉を止めた。
「負債のことを知っても、ホテルを継ぐと言ってくれたかい?」
「それは……」
ヴィクターは答えに詰まり、困ったように眉を寄せた。
「……分からないよ。そんなの、急に言われたって」
「……そうだろうね」
バイロンは小さく頷いた。
「兄さんだって、負債のことを知れば、一人で引き受けようとは思わないだろう。かといって、私一人でこの先もホテルを維持できるかと言われれば……」
そこまで言って、バイロンは口を閉じた。
「……私には、このホテルを失うなんて考えられなかったんです」
それまで落ち着いていた声が、わずかに震えた。
「祖父の代から続いてきたホテルです。私も、ずっとここで働いてきました。どうにかして残したかった。ですが……」
膝の上で組んだ手に力がこもる。
「私一人では、守りきれる自信がなかった」
バイロンは俯いたまま、しばらく動かなかった。
「……それで遺言書をなくそうってのか?」
ヴァーノンが口を挟んだ。
「……はい。遺言書がなければ、相続は三人で均等になりますから」
「ふざけんな。だったら最初から俺たちに話せばいいだろうが!」
ヴァーノンの声が部屋に響いた。
バイロンは反論せず、しばらく黙っていた。
「……先に話して、二人とも相続を望まなかったらと思うと、怖かったんです。三人で相続することになれば、そこからホテルをどうするか相談できる。負債のことも、全員が相続を引き受けると決めたあとで話すつもりでした」
「……順番が逆だろ、それ」
ヴィクターがぽつりと言った。
「そんな大事なこと、決めてから話されても困るよ」
「……」
バイロンは何か言いかけたが、言葉が続かなかった。
「……そうだね。お前の言うとおりだ」
ヴィクターから目を逸らし、俯く。
「私は……三人で話し合うところまで持っていければ、何か方法が見つかると思っていたんだ。でも、その前にお前たちがどうしたいのか、聞こうともしなかった」
「……兄さん」
ヴィクターが小さく呼びかけたが、バイロンは顔を上げなかった。
「では、私を呼んだ理由についても、お聞かせいただけますか?」
フォールが尋ねると、バイロンはゆっくりと顔を上げた。
「……遺言書が見つからなくても、誰かが故意に失わせたと分かれば、私の考えたようにはなりません。だから、あなたに調べてもらう必要があったんです」
「私が調査しても見つからず、原因も分からなければ、紛失したという判断に信用が生まれる。そう考えたのですね?」
「はい。私たちだけでそう主張するよりも、ずっと信用してもらえると思いました」
「ですが、私が真相を突き止める可能性もあった」
「……ええ。賭けでした」
バイロンは苦笑した。
「それでも、あなたにお願いするしかないと思ったんです。失敗したら、その結果は受け入れるつもりでした」
フォールはすぐには答えず、バイロンを見つめていた。
「……なるほど。お話は分かりました」
「申し訳ありません。あなたまで巻き込むつもりで依頼したことは、謝らなければなりませんね」
「謝罪については、後ほど改めて伺いましょう。まだ確認したいことがありますので」
バイロンが頷く。
「あなたは、ヴァーノンさんがこの部屋へ入るところを見たとおっしゃいましたね。その後、部屋の中で何をしたかについては?」
「……分かりません。私は中まで見ていませんから。遺言書をどうしたのかまでは……」
バイロンは言いかけて口を閉じ、ヴァーノンへ目を向けた。
その視線を受けたヴァーノンが、不機嫌そうに眉をひそめる。
「……何だよ」
「兄さん。私があんなことをしなければ、兄さんが疑われることもなかったかもしれません。本当に、すみませんでした」
バイロンは深く頭を下げた。
ヴァーノンは黙ったまま、その姿を見下ろしていた。怒鳴り返すかと思ったが、しばらくすると大きく息を吐き、椅子の背にもたれた。
「……ったく。勝手なことしやがって」
バイロンは頭を下げたまま動かなかった。
やがて、フォールがヴァーノンへ向き直る。
「ヴァーノンさん。先ほどは、この部屋へ入っていないとおっしゃいましたね」
「……ああ」
「ですが、バイロンさんはあなたが入るところを見たと証言されています。もう一度、お尋ねしてもよろしいですか?」
ヴァーノンは腕を組んだまま、フォールを睨んでいた。
「あなたは、あの日この部屋へ入って、何をしたのですか?」
「……ちっ」
ヴァーノンが舌打ちする。
「入ったよ。それでいいんだろ」
「では、部屋の中では?」
「……机の上に遺言書が置いてあったんだよ」
ヴァーノンは面倒くさそうに答えたものの、それ以上は続けようとしなかった。フォールが先を促すように待っていると、やがて諦めたように口を開く。
「隠したんだよ。どうせ親父のことだ。ろくなこと書いてねえと思ったんでな」
「中身は確認されたのですか?」
「してねえよ。読む気もなかった」
あまりにもあっさりした答えに、俺は思わずヴァーノンの顔を見た。父親が何を書いたのか確かめもせず、遺言書を隠したというのか。
「ちょっと待ってくれよ、兄さん!」
ヴィクターが身を乗り出した。
「中身も読まずに隠したの? 何が書いてあるか分からないのに?」
「分からなくても、ろくなもんじゃねえってことぐらい想像つくんだよ。あの親父のことだからな」
「いや、でも……え? それだけで?」
ヴィクターは戸惑ったようにヴァーノンを見つめた。
「……分かってるよ。褒められたことじゃねえってのはな」
ヴァーノンは椅子の背に深くもたれた。
「ただな、俺にはどうしても、親父がまともなことを書いたとは思えなかったんだよ。生きてる間だって、散々好き勝手やってきたんだ。死んだからって、急に俺たちのことを考えるようになるとは思えねえだろ」
ヴィクターは言い返しかけたが、結局、何も言わなかった。
「……それで、隠したのですね」
フォールの言葉に、ヴァーノンは頷いた。
「ああ。もっとも、最初からどうこうするつもりで部屋に入ったわけじゃねえ。机の上に置いてあったのが目に入って、つい手に取っちまったんだ。そしたら外から鍵がねえって声が聞こえてきやがった。遺言書を持ったまま出るわけにもいかねえし、かといって机に戻す気にもならなかった。それで、とっさに隠したんだよ」
ヴァーノンはそこでバイロンへ視線を向けた。
「俺は親父の遺言書なんざ見たくもなかったってのに、お前は俺が何かするのを期待して、わざわざ鍵を落としたってわけか」
「……はい」
「まったく、何考えてんだか……」
ヴァーノンは呆れたように言い、片手で額を押さえた。
バイロンは何も言い返さず、俯いた。ヴィクターも二人の兄を交互に見ていたが、何を言えばいいのか分からないようだった。
俺も、そんな兄弟の様子を黙って見ているしかなかった。




