それぞれの思い
時は少し遡る。
三兄弟はそれぞれ、誰にも明かしていない思いを抱えていた。
◇ ◇ ◇
バイロンは、手の中の鍵を見つめていた。
父親の部屋の鍵。支配人となった今、その管理も自分の仕事になっている。
父親が亡くなってから、バイロンは何度もホテルの今後について考えていた。祖父の代から続いてきたホテルを、自分の代で終わらせたくはない。しかし、帳簿に残された多額の負債は、そう簡単に片づくものではなかった。
父親はホテルをヴィクターに譲るつもりだった。事業で成功した弟なら、ホテルを立て直せると考えたのだろう。だが、ヴィクターは負債のことを知らない。何も知らないままホテルを受け継がせることなど、バイロンにはできなかった。
かといって、ヴァーノン兄さんが遺言書の内容を知れば、どう思うだろうか。
父親との仲は昔から悪かった。兄は気にしていないような顔をしていたが、本当にそうだったのかは分からない。
三人で話し合えれば、それが一番いい。
そう考えながらも、バイロンはなかなか切り出せずにいた。兄も弟も、今ではそれぞれの生活がある。以前のように気軽に顔を合わせることも少なくなっていた。
廊下の先に、ヴァーノンの姿が見えた。
バイロンは鍵を握る手に、わずかに力を込めた。
兄なら、あの部屋に入る機会を得たとき、どうするだろう。
父親から好かれていなかったことは、兄自身が誰よりよく知っている。遺言書に自分に不利なことが書かれていると考えても、おかしくはない。
もし遺言書を見つけたとしても、簡単には持ち出さないだろう。そんなことをすれば、真っ先に疑われるのは自分だと分かっているはずだ。
それなら、部屋の中に隠すかもしれない。
バイロンには、一つだけ心当たりがあった。昔から兄が知っている、あの場所だ。兄なら思いつくだろうし、実際に隠すこともできる。
あそこなら、最初から何かが隠されていると考えなければ、わざわざ調べようとは思わないだろう。
もちろん、兄が必ずそこを選ぶとは限らない。そもそも遺言書に手を出すかどうかさえ分からないのだ。
それでも、兄の性格を思えば、可能性はある。
だが、それは兄の気持ちを利用することでもあった。
バイロンは一瞬、足を緩めた。今ならまだ引き返せる。しかし、鍵を握ったまま歩き続けても、何も変わらない。
バイロンは歩調を戻し、手にしていた鍵をそっと落とした。
小さな金属音が廊下に響く。
振り返らず、そのまま歩き続けた。兄が何もせず鍵を返してきたなら、それでいい。そう自分に言い聞かせたものの、胸の奥の落ち着かない感覚は消えなかった。
しばらくして、兄から見えない位置へ移動し、そっと様子を確かめる。
ヴァーノンが父親の部屋へ入っていくところだった。
「……兄さん」
思わず、小さくつぶやいた。
予想していた行動のはずなのに、実際に目にすると胸が重くなった。兄は何をするつもりなのだろう。そして、自分は何を期待しているのだろう。
バイロンはしばらくその場に立っていたが、やがて部屋の近くへ戻った。
「おかしいですね……この辺りで鍵を落としたと思うのですが」
室内にも聞こえるよう、少し声を張る。返事はなかった。
バイロンは扉を見つめたあと、ゆっくりとその場を離れた。
◇ ◇ ◇
「……親父の部屋の鍵じゃねえか」
廊下に落ちていた鍵を拾い上げ、ヴァーノンは眉をひそめた。
こんなものを落とすとは、バイロンのやつもどうかしている。すぐに返してやればいいと思ったところで、手が止まった。
その鍵が開けるのは、父親の部屋だった。あの男が死んでからわざわざ近づこうとも思わなかったし、生きていた頃にしたって、ろくな思い出がない場所だ。
顔を合わせれば小言を言われ、何かにつけて気に入らないと文句をつけられた。父親が自分をどう思っていたかなど、今さら確かめる必要もなかった。
「……最後まで、ろくでもねえ親父だったな」
ヴァーノンは鍵を握り直した。
ホテルの負債のことを知ったときは、さすがに呆れた。経営のために金が必要だったのなら、まだ理解できたかもしれない。だが、実際には自分の趣味や道楽に金を使い、その負担をホテルへ押しつけていたのだ。
あの男が残したものを、これから誰かが背負わなければならない。
バイロンは今もホテルを守ろうとしている。昔から真面目な弟だったが、あいつは少々、何でも自分で抱え込みすぎる。
ヴィクターも、今では自分の商売で忙しいらしい。兄弟で集まる機会は減り、それぞれ何を考えているのか、最近ではよく分からない。
それでも、あの男の勝手な都合に振り回されるのは、自分一人で十分だった。
ヴァーノンは鍵を見下ろした。
遺言書がなければ、相続は三人で均等になる。もちろん、負債まで消えるわけではない。それでも、父親が最後に決めた通りにすべてが進むよりは、まだましだ。
「……ちょっと見てくるか」
誰に言うでもなくつぶやき、父親の部屋へ向かった。
扉を開けると、見慣れた室内が目に入った。昔と大して変わっていないことが、妙に腹立たしかった。あれだけ好き勝手に生きた男がいなくなっても、部屋だけは何事もなかったように残っている。
ヴァーノンは舌打ちし、遺言書を探し始めた。
ほどなくして、目当てのものを見つける。
「……これか」
手に取ってみても、中に何が書かれているかは分からない。だが、父親が自分に都合のいいことを書いているとは、とても思えなかった。
そのとき、廊下から声が聞こえてきた。
「おかしいですね……この辺りで鍵を落としたと思うのですが」
バイロンだ。
「ちっ、もう気づきやがったか」
ヴァーノンは思わず扉へ目を向けた。
鍵を持っているところを見られれば、ここへ入ったことを疑われるかもしれない。このまま遺言書を持ち出すのもまずい。かといって、元の場所へ戻す気にもなれなかった。
ヴァーノンは室内を見回した。
昔、父親に呼びつけられて何度もこの部屋へ来た。嫌な思い出ばかりだったが、そのおかげで部屋の中のことはよく覚えている。
ふと、ある場所が頭に浮かんだ。
「……ああ、そういや」
昔の記憶をたどりながら、もう一度その場所を確かめる。
あそこなら、そう簡単には見つからないだろう。それに、今の自分なら余計なものを動かさずに済む。
「……ここならいけるか」
ヴァーノンは遺言書を手に、その場所へ向かった。
しばらくして、廊下の気配が遠ざかった。ヴァーノンは部屋を出ると、扉に鍵をかけた。
あとは、何も知らない顔をして返せばいい。
そう思ったところで、ふとバイロンの顔が浮かんだ。あいつは、このホテルをどうするつもりなのだろう。聞いたところで、素直に答えるかどうか。
「……まったく、面倒くせえ」
ヴァーノンは鍵を握り、弟を探しに歩き出した。
◇ ◇ ◇
「ヴェルガ、ちょっと付き合ってくれない?」
ヴィクターが声をかけると、ヴェルガは手を止めて振り返った。
「どちらへでしょうか?」
「親父の部屋。前に貸した本が、まだ置いてあるはずなんだよね」
「旦那様のお部屋、ですか……」
ヴェルガの表情が、ほんの少し曇った。
ヴィクターは気づかないふりをして、いつものように笑った。
「そうそう。せっかく帰ってきたんだし、持って帰ろうと思ってさ」
ヴェルガには、子供の頃からずいぶん世話になった。父親に叱られたときも、何か失敗したときも、気づけば彼女がそばにいた。
今でこそ自分の仕事を持ち、昔ほどホテルへ帰ってくることもなくなったが、ヴェルガの前では、どうにも子供の頃の調子が抜けない。
そんな彼女が父親から金を借りていたことを、ヴィクターは知っていた。
返済すること自体を嫌がっているわけではない。ただ、父親のことが話題になると、ヴェルガは時折、ひどくつらそうな顔をする。以前は何でも話してくれた相手なのに、そのことだけは詳しく聞こうとしても口を閉ざしてしまう。
ヴィクターも、それ以上は聞けなかった。
父親が亡くなっても、借用書はあの部屋に残っている。ヴェルガがそのことを気にしているのは、何となく分かっていた。
「……ヴィクター様、お一人で行かれた方がよろしいのでは?」
「えー、なんで? 別に二人で行ってもいいじゃん」
「ですが、旦那様のお部屋ですし……」
「親父はもういないんだし、そんなに気にしなくていいって」
軽く言ってから、ヴィクターは少しだけ後悔した。ヴェルガにとって、父親は自分とは違う存在だったのだろう。それを簡単に気にするなと言って済ませられるものではない。
「……まあ、無理にとは言わないけどさ」
ヴィクターがそう付け加えると、ヴェルガは少し驚いたように顔を上げた。
「いえ、そういうわけでは……」
「だったら、一緒に行こうよ。昔はよく俺の用事に付き合ってくれたじゃん」
「それは、ヴィクター様がいつも勝手なことをなさるので、目を離せなかっただけです」
「えっ、そうだったの?」
「そうですよ」
ヴェルガが、かすかに笑った。
久しぶりに見た、昔と変わらない笑顔だった。ヴィクターもつられて笑う。
あの頃は、ヴェルガが困った顔をするのが面白くて、わざと手のかかることをしたものだ。今思えば、ずいぶん迷惑をかけた。
だからというわけでもないが、今度くらいは自分が何かしてやりたい。
父親に貸した本を取りに行くのは、本当の用事だ。バイロン兄さんに鍵を借りれば、部屋へ入ることもできる。
ヴェルガがあの借用書をどうするつもりなのか、ヴィクターには分からない。けれど、彼女が何かをしたいと思っているのなら、その機会くらいは作ってやれる。
「じゃ、決まりね。バイロン兄さんのところで鍵を借りてくるよ」
「……ヴィクター様」
「ん?」
ヴェルガは何か言いかけて、口を閉じた。その様子を見て、ヴィクターはいつもの調子で肩をすくめた。
「大丈夫だって。本を取ってくるだけなんだから」
「……はい」
ヴェルガが静かにうなずく。
ヴィクターはそれ以上、何も聞かなかった。
◇ ◇ ◇
三兄弟とヴェルガのもとを順に訪ねたコメリアは、それぞれに同じ用件を伝えた。
「父が遺言書のことでお話があるそうです。前支配人室にお集まりいただけますか?」




