19話:心なし
翌日の朝、学園はまだ眠たげな静けさに包まれていた。
校舎の廊下には早朝の生徒がまばらで、足音が響くたびに少しだけ空気が震える。窓から差し込む朝陽は柔らかく、床に長い淡い影を落としていた。
教室に入る直前、私のポケットに小さな折り畳まれたメモが滑り込んできた。
差出人は一目で分かった。
『屋上へ。急ぎ。——アンバーオックス』
短い文面に、彼女のいつものクールさが滲んでいる。アンバーオックスさんが授業をサボらせるような真似をするなんて、珍しい。
それだけ、話したいことが溜まっているのだろう。屋上のドアを開けると、朝の冷たい風が頰を撫でた。
コンクリートの床は昨夜の雨で少し湿っており、足元に小さな水溜まりが残っている。
フェンス越しに校舎の屋根が広がり、遠くの街並みが朝霧にぼんやりと霞んで見えた。
アンバーオックスさんはすでにそこに立っていた。
深い漆黒のロングヘアが風に軽く揺れ、光の加減で青みがかった艶が一瞬だけ輝く。制服のリボンは固く結ばれ、スカートは規程どおり。
少し色褪せた生地が、彼女の貧乏を静かに物語っていたが、清潔感だけは完璧に保たれていた。
赤い瞳はいつも通りクールで、でもその奥に微かな疲れと苛立ちが沈んでいるのが分かった。
私がドアを閉める音に、彼女はゆっくり振り返った。
私は小さく息を吐いて、いつもの淡々とした声で切り出した。
「授業をサボらせるなんて、アンバーオックスさんらしくないね。それだけシリアスな話なんだろうけど……もしかして、遊べる魔法の絵本の知識聞きたいとか?」
私は軽く笑って、フェンスに寄りかかった。朝の風が髪を乱す中、アンバーオックスさんは一瞬目を細めてから、静かに頷いた。
「そうね。アイスブレイクとして、ききましょう。所持しているキャラが消滅していくステージ、カマキリと円盤は粉砕したのに、シルバーになって復活してくるとか……ふざけてない?」
私は思わず吹き出しそうになった。
最新のクエストでよくあるギミックだ。敵が形態変化して復活し、しかも所持キャラが次々消滅していくやつ。
カマキリみたいな敵、UFOみたいな円盤、んでシルバーアーマーで蘇るパターン。 一気にストーリーを進めた読者ほど、戦力不足で詰まる。
「あー、あれはねぇ。一気にストーリー進めた人ほど辛いよね。古参はキャラが揃ってるから戦力余らせることあるけど、最近始めた人が一気に進めると純粋に戦力足りないよね。特にイベントマス踏めてない人とか、悲惨だよ」
アンバーオックスさんは腕を組んで、軽くため息をついた。白い肌が朝陽に透けて、目の下の薄いクマが微かに浮かんでいる。
彼女はいつも睡眠時間を削って勉強とバイトをこなしている。それでも表情は崩さない。
「ええ、必殺技チャージ持たせて必殺技連射してたらキャラ不足になって詰んだわ。昨日こそは……敵を完全粉砕してやろうと意気込んで、勉強を終わらせたのに」
「脳筋だ……まぁ、流石にいちいち装備変えるの怠いもんね。チャージして必殺技ぶっ放し連発が楽だから、つい頼っちゃうよね」
アンバーオックスさんは小さく頷いて、視線をフェンスの向こうに移した。風が彼女の髪を優しく揺らし、黒髪が朝陽に青く光る。
「ええ、それも含めて。昨日こそ、敵を完全粉砕してやろうと意気込んで勉強を終わらせたのに……奴が来たわ」
「奴?」
アンバーオックスさんの声が、少し低くなった。赤い瞳に、静かな苛立ちと、どこか諦めのようなものが宿る。
「リコンフィグ」
「あー、ちょっと察した。ごめん」
私は小さく頷いた。
昨日、教室で起きたこと。
リコンフィグが、ゴールドソーサー帰国して私に飛びつき、私の家に遊びに行きたいと言った瞬間。バレンフラワーさんとアンバーオックスさんの険しくなった表情。
このクールな努力家が、朝イチで私を呼び出す理由は、それしかない。アンバーオックスさんはフェンスに両手をかけ、遠くの街並みをじっと見つめた。風が彼女の髪を乱し、制服のスカートを軽く揺らす。
彼女の背中はいつも通りまっすぐで、でも肩がわずかに落ちているように見えた。
「……あいつ、夜に突然家に途端、愚痴を垂れ流してあんな風に、当然のように……こういったわ」
言葉はそこで途切れ、アンバーオックスさんは唇を固く結ぶ。そして言った。
「好きではない人から抱かれる感覚を知りたい。君は私が好きだろう? しかし私は好きではない。だから抱いてほしい」
「は?」
…………うわぁ。
…………………うわぁ。予想外。馬鹿なんじゃないの?
さぁ、みんなで、せーの。
人の心ないンか?
「それはまた、はぁー」
屋上の空は、朝陽が昇りきって青みを帯び始め、遠くの雲がゆっくりと流れていた。冷たい風がフェンスの鎖を軽く鳴らし、アンバーオックスさんの黒髪を優しく乱す。
彼女は両手をフェンスにかけ、指を強く握りしめながら、赤い瞳を細めて私を見据えた。
その視線はいつもより鋭く、抑えきれない怒りが静かに燃えていた。
「……リコンフィグから全部話は聞いているけど……貴方からも説明しなさい。一方からの説明では、正しい情報は得られないのだから」
アンバーオックスさんの声は低く、抑揚を抑えているのに、底に潜む苛立ちが波のように伝わってくる。
色褪せた制服のリボンが風に小さく震え、彼女の白い肌に朝の光が透けて、目の下の薄いクマがよりはっきり浮かび上がっていた。
私はフェンスに背を預けたまま、ゆっくりと息を吐いて、視線を少し逸らした。
「……そうだね。でも、単純だよ」
私は朝の空を見上げてから、淡々と、でもはっきりと話し始めた。
「私の家で遊んでいたら……リコンフィグに押し倒されて、エッチなことされそうになった。私が拒絶したんだけど、やめてくれなくて。そのまま妹に目撃されて……それで、恋人を解消したって感じ」
アンバーオックスさんは一瞬、息を止めた。赤い瞳がわずかに見開かれ、すぐに細くなる。彼女は唇を強く噛み、拳を握りしめた。指の関節が白くなり、フェンスの鎖が小さく軋む音がした。
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
私は小さく頷いた。
アンバーオックスさんは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。その息が、震えていた。
「……リコンフィグは、そんなことを平気でする人間だったのか。私が知ってるリコンフィグは、わがままだけど……そんなに自分勝手で、人の拒絶を無視して、相手の気持ちを踏みにじるような……そんな人間だったのか……わからなくなったわ」
彼女の声が、徐々に低く、鋭くなっていく。怒りが、言葉一つひとつに重みを加えていた。
「私を『好きではない人』として道具みたいに扱うだけじゃなく、インフェクションに対しても、そんな強引に……拒絶を無視して、押し倒して……妹にまで見られて、関係を壊して……それで済むと思ってるの? あいつはいつもそうよ。
自分の欲求だけを優先して、周りを傷つけて、傷つけたことにすら気づかない。いや、気づいてても『仕方ない』って済ませるんだ。私の気持ちなんて、最初から眼中になかったみたいに」
アンバーオックスさんはフェンスを強く握り、肩が小さく震えた。赤い瞳に、怒りと失望が混ざり合い、薄い水膜が張る。でも、涙は決して零さない。
それは、彼女の最後の意地だった。
「……私があいつのためにどれだけ我慢してきたか。どれだけ自分を削って、そばにいようとしてきたか。貧乏で、時間も金もなくて、勉強もバイトも全部詰め込んで、それでも『私がいるからリコンフィグは一人じゃない』って思わせてきたのに……あいつは、私を軽んじて、インフェクションを傷つけて……そんな人間のために、私がここまでしてきた意味なんて、もう……」
ぎりっと奥歯が鳴る。
「大切なお母さんに、美味しいご飯を毎日食べさせてあげたくないの? お金の心配しないで、普通に笑って、遊んで、旅行に行って、温泉に入って、細かい雑貨で頭を悩ませない日常を……プレゼントしてあげたくないの?」
長い沈黙。アンバーオックスさんのまつ毛が、ゆっくりと濡れていくのが見えた。
「……ほしい」
声は小さく、ほとんど吐息に近かった。
「ハッキリと」
「ごめんなさい、見栄を張った。やっぱ辛いわ。お金、欲しい!! お母さんが幸せな生活を送れるくらい!! 過労死の心配とか、絶対嫌!! 美味しいご飯をいっぱい食べて、旅行に行ったり、温泉に入ったり、欲しいものがあったら我慢しないで買える生活をさせてあげたい!! お母さんが笑ってる顔を、毎日見たい!!」
最後の言葉は、ほとんど叫びに近かった。インフェクションは静かに頷き、優しく微笑んだ。
「言えたじゃない、アンバーオックスさん。……じゃあ、リコンフィグに慰謝料請求しよう」
「それはそれで友達に戻れないと思うのだけれど!?」
「ギャンブルしたいんでしょ?」
「ギャンブルするのはインフェクションでしょ!!」
二人が同時に声を上げて笑った瞬間――テーブルの上で、私の脳内に魔法通信が響く。相手を知ると自然と私の目が、鋭く細くなるを感じた。
「誰から?」
アンバーオックスさんが身を乗り出した。
「秘密。……だけど、リコンフィグの居場所が分かったよ」
私はゆっくり立ち上がり、伸びをした。背筋が伸びる音が小さく聞こえる。
「勇者と魔王の戦いの始まりだ」
アンバーオックスさんも立ち上がった。膝の上で握りしめていた拳を、ゆっくりと開く。表情はもう、いつもの皮肉っぽい笑みではなく、静かで、どこか燃えるような覚悟を宿していた。
「私達はどっち?」
私は振り返り、にやりと口角を上げた。
「勿論、勇者」
「二人だから?」
「そう。私達は二人。絆の最強よ」
アンバーオックスさんは少し黙った。
「自己評価低いのね。貴方なら、一人でも最強かもしれないのに」
「ナイナイ。インフェクションは八握剣異戒神将くらいが精々ですよ」
「それはそれで自己評価高い気がするわね」
二人は同時にドアの方へ歩き出した。背後で、テーブルの上にはまだ開けかけのお菓子と、溶けかけたチョコレートと、泡の消えかけたジュースが、静かに取り残されていた。外はもう、薄暗くなり始めていた。
「あのハイスペックに適応する! それまで持ち堪えてね。アンバーオックスさん」
「ええ、魔導書を教科書にして次元斬で真っ二つにしてやるわ。あのリコンフィグが無様に散る姿を見るのは楽しみね」
冬の風が、窓の隙間からかすかに忍び込んでくる。




