18話:嫌だ
学園の昼休みは、いつものように穏やかで、少しだけざわついた空気が流れていた。
教室の窓からは、初夏の陽光が柔らかく差し込み、机の表面に淡い光の帯を描いている。
遠くのグラウンドからは魔法練習部の掛け声が微かに聞こえてきて、日常の音が重なり合う中、バレンフラワーさんは私の席のすぐ横に立っていた。
彼女は両手を軽く胸の前で組み、少し俯き加減に、でもしっかりと目を合わせて言葉を紡いだ。
「インフェクション……あの、この前のこと、本当にありがとう」
声は小さめで、でも心からの響きがあった。私は開いていた参考書をそっと閉じて、彼女の顔をまっすぐ見上げた。
「楽しいとは違うんだけど……すごく、心地良くて。体が全部、ふわっと溶けていくみたいで……心も、すごくリラックスできた。あんなに安心して、ぼーっとしていられたの、初めてかもしれない。ありがとう、インフェクション」
バレンフラワーさんの頰が、ほんのり桜色に染まる。
長いまつ毛が少し震えて、恥ずかしさを隠しきれていないのが分かった。私は自然と口元が緩んで、静かに答えた。
「それは良かった。遊ぶっていうのはさ、何も能動的に動いたり、笑ったりするだけじゃないよ。余暇って、ただ休むこと。体も心も全部預けて、溶かして、回復する遊びっていうのもあるんだって、そう思ってもらえれば……私、すごく嬉しいかな」
バレンフラワーさんは小さく頷いて、唇を軽く噛んだあと、さらに声を落として、でもはっきりと言った。
「うん……だから、よければ、これからも。その『休む遊び』を、一緒にしてもらえると……すごく、嬉しいな」
私は思わずくすりと笑って、彼女の言葉をからかうように返した。
「ハマっちゃった?」
「うん……とても気持ちよかった。私が受けるのも、本当に良かったんだけど……私も、インフェクションにやってあげたい。同じように、インフェクションの体も心も、全部溶かしてあげたいなって……」
その言葉に、私の胸が温かくなった。バレンフラワーさんの瞳は真剣で、少し潤んでいて、彼女の優しさがストレートに伝わってくる。
私は彼女の手にそっと自分の手を重ねて、柔らかく微笑んだ。
「嬉しいな、そう言ってもらえて。じゃあ、次はバレンフラワーさんが、私を甘やかしてくれる番だね」
バレンフラワーさんは照れたように目を伏せて、でも小さく「うん」と頷いた。
その瞬間、教室の入り口が一気に賑やかになった。パリから帰国したばかりのリコンフィグが、クラスメイトたちに囲まれながら入ってきた。
お土産が入った旅行鞄を片肩にかけ、疲れなど微塵も感じさせない、華やかな笑顔を振りまいていた。
彼女の周りには、好奇心と羨望の視線が集まっている。私は自然と立ち上がって、声を掛けた。
「お疲れ、そしてお帰り。リコンフィグ」
リコンフィグの視線が一瞬で私を捉え、瞳がぱっと輝いた。
「ああ、ただいま。嬉しいよ、そうやって迎えてくれて。私の愛しのインフェクション。私だけの、インフェクション」
次の瞬間、リコンフィグは鞄を床に置いて、私に向かって一直線に飛びついてきた。柔らかい髪が頰に触れ、甘い香水の匂いがふわりと広がる。
彼女の腕が、私の背中にしっかりと回され、強く抱きしめられた。体温が、服越しにじんわり伝わってくる。バレンフラワーさんはそっと顔を背けた。
頰が少し強張り、視線を床に落として、唇を軽く噛んでいる。隣にいたアンバーオックスは、眉をきつく寄せて、無言でリコンフィグの背中を睨みつけていた。
彼女の指先が、机の端をぎゅっと握りしめているのが見えた。リコンフィグはそんな二人の反応にまったく気づかず、私の耳元で甘く、甘く囁いた。
「インフェクション。少しだけわがままを言っても良いかい?」
私は彼女の腕の中で、静かに息を吐いて答えた。
「良いよ。言ってみて」
「インフェクションの家に遊びに行きたいんだが……構わないだろうか?」
その言葉が教室に響いた瞬間、空気が一瞬で張り詰めた。バレンフラワーさんの顔が、はっきりと曇った。
瞳に小さな影が落ち、肩がわずかに縮こまる。アンバーオックスの表情は、さらに険しくなった。彼女の視線が、私とリコンフィグを交互に鋭く刺すように行き来する。私はリコンフィグの腕の中で、ゆっくりと息を整えて、穏やかな声で、でもはっきりと答えた。
「うん、良いよ」
教室の陽光は変わらず柔らかく差し込んでいるのに、私たちの周りだけ、微妙な緊張と、複雑な感情が渦巻いていた。
誰も言葉を発さないまま、昼休みのチャイムが遠くで鳴り始める音が、静かに響き渡っていた。
放課後、一旦それぞれ解散して、改めて集合する。鈴が鳴り、玄関のドアを開けると、リコンフィグはそこに立っていた。
白のコットンブラウスに、淡いベージュのフレアスカート。
金色の長い髪はゆるくサイドに流して、リボンで軽くまとめている。
手には小さな紙袋──おそらく手土産だろう──をぎゅっと握りしめ、ブルーの瞳は落ち着きなく瞬いていた。
いつも学校で見る、完璧で優雅なスーパーダーリンの姿とは、別人だった。
頰がほんのり赤く、肩が少し内側に入り、足元もそわそわと動いている。明らかに、狼狽していた。私は静かに微笑んで、ドアを大きく開けた。
「どうぞ、入って」
リコンフィグは一瞬、息を止めるようにして、それから小さく頷いた。靴を脱ぐ手つきもどこかぎこちなく、揃えて置く位置を二度直す。
私は先にリビングへ通し、彼女を待った。部屋は、どこにでもあるような、平凡な六畳間だった。木目のフローリングは少し傷がついていて、ローテーブルには聖書が無造作に置かれている。
壁際の本棚には魔導書がぎっしり。テレビの横にはボードゲームが並び、窓際には小さな観葉植物が一鉢だけ。
あっぶね。掃除しておいて良かった。バレンフラワーさん、ありがとう。
カーテンは淡いグレーで、陽射しを柔らかく濾している。
特別なものは何もなく、ただ、私が日常を過ごす、静かな空間。
リコンフィグは部屋の中央で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回した。
彼女はまるで、初めて見る世界に迷い込んだような顔で。
私はキッチンから冷えた麦茶を二つグラスに注ぎ、トレイに乗せて持ってきた。ローテーブルに置き、リコンフィグの前に一つを置く。彼女はソファの端に、恐る恐る腰を下ろした。
背筋はぴんと伸び、膝の上で両手をきちんと組み、でも指先は小刻みに動いている。
面接会場にでも来たかのようだった。私は向かいのソファに座り、静かに声をかけた。
「緊張している?」
リコンフィグはぱっと顔を上げ、ブルーの瞳を大きく見開いた。
「しているとも! 好きな人の家なのだから」
声が少し上ずり、頰がさらに赤く染まる。普段の優雅で落ち着いた話し方とは違い、素の、照れくさそうな少女の声だった。
私は麦茶を一口飲んで、軽く笑った。
「エッチなのは駄目だよ」
リコンフィグは一瞬、固まった。それから顔を真っ赤にし、慌てて両手を振った。
「ち、違う! そんなつもりは絶対に──!いつかはやりたいが、しかし今日いきなりやるつもりはない。インフェクション、そんな冗談、やめてほしい……!」
声が裏返り、最後はほとんど蚊の鳴くような音になった。私はくすくすと笑い、首を振る。
「冗談だよ。ごめんね。落ち着いて。ここはただの私の部屋だから、好きなようにしてていいよ」
リコンフィグはまだ頰を赤くしたまま、麦茶のグラスに手を伸ばした。冷たいガラスを両手で包み込むように握り、ゆっくりと一口飲む。
喉が小さく動くのが見えた。
「……ありがとう、インフェクション」
少し落ち着いた声で、彼女は呟いた。
「本当に、来れて嬉しい。こんな普通の……インフェクションの部屋に、入れるなんて、夢みたいで」
私は立ち上がり、彼女の隣に移動して座った。肩が軽く触れる距離。
「私も、リコンフィグが来てくれて嬉しいよ。今日はゆっくりしていこう。ゲームでもする? それとも、ただおしゃべりでもいいし」
リコンフィグは少し驚いたように私を見上げ、それから──初めて、ほんの少し、緊張の糸が緩んだような笑みを浮かべた。
「……うん。インフェクションと、なんでもいい」
窓から差し込む柔らかな陽射りが、私二人の影を、静かに重ねていた。部屋には、穏やかな、温かな空気だけが満ちていた。
部屋の空気は、いつしか重く、甘く、熱を帯びていた。
麦茶のグラスはとうに空になり、ローテーブルに無造作に置かれたまま。
窓から差し込む陽射しは西に傾き、オレンジ色の柔らかな光がカーテンを透かし、床に長い影を落としている。
ゲームの話から始まり、学校のこと、最近見た映画のこと、くだらないクラスメイトの噂話へと、会話はゆるやかに続いていた。
リコンフィグの笑い声が小さく響くたび、彼女の金色の髪が揺れ、私の肩に軽く触れる。最初は、ただ寄り添うだけだった。
リコンフィグが少しずつ距離を詰めてくる。肩が触れ、腕が絡まり、彼女の体温が伝わってくる。
甘いシャンプーの香りと、ほのかに熱を帯びた息が、私の頰をくすぐる。私は軽く笑って、彼女の顔を覗き込んだ。
「リコンフィグ、どうしたの?」
返ってきたのは、言葉ではなく、行動だった。リコンフィグの細い指が、私の腕を強く掴む。
ブルーの瞳が、いつもより深く、濡れたように輝いている。
「え」
次の瞬間、彼女は急に力を込めて、私をソファに押し倒した。背中が柔らかなクッションに沈み、桃色のボブヘアが乱れて視界の端に散る。
「うわっ」
リコンフィグの長い金髪が、両側からカーテンのように降り注ぎ、私の顔を覆う。彼女の上体が完全に覆い被さり、細い腕が私の両肩を押さえつける。
息が近い。
熱い。
「リコンフィグ……これはどういう意図だと捉えたらいいの?」
「インフェクション……好きだ。好きなんだ」
「……リコンフィグ」
私は静かに、でも少しだけ諭すような声で言った。
「駄目だよ、リコンフィグ」
リコンフィグは答えなかった。ただ、息を荒くしながら、顔をさらに近づけてくる。頰が赤く染まり、瞳が潤み、普段の完璧な仮面はどこにもない。
「私は嫌だから、やめてほしい」
声が少し上ずり、頰がさらに赤く染まる。普段の優雅で落ち着いた話し方とは違い、素の、照れくさそうな少女の声だった。
私は麦茶を一口飲んで、軽く笑った。
「エッチなのは駄目だよ」
リコンフィグは一瞬、固まった。それから顔を真っ赤にし、慌てて両手を振った。
「ち、違う! そんなつもりは絶対に──!いつかはやりたいが、しかし今日いきなりやるつもりはない。インフェクション、そんな冗談、やめてほしい……!」
声が裏返り、最後はほとんど蚊の鳴くような音になった。私はくすくすと笑い、首を振る。
「冗談だよ。ごめんね。落ち着いて。ここはただの私の部屋だから、好きなようにしてていいよ」
リコンフィグはまだ頰を赤くしたまま、麦茶のグラスに手を伸ばした。冷たいガラスを両手で包み込むように握り、ゆっくりと一口飲む。
喉が小さく動くのが見えた。
「……ありがとう、インフェクション」
少し落ち着いた声で、彼女は呟いた。
「本当に、来れて嬉しい。こんな普通の……インフェクションの部屋に、入れるなんて、夢みたいで」
私は立ち上がり、彼女の隣に移動して座った。肩が軽く触れる距離。
「私も、リコンフィグが来てくれて嬉しいよ。今日はゆっくりしていこう。ゲームでもする? それとも、ただおしゃべりでもいいし」
リコンフィグは少し驚いたように私を見上げ、それから──初めて、ほんの少し、緊張の糸が緩んだような笑みを浮かべた。
「……うん。インフェクションと、なんでもいい」
窓から差し込む柔らかな陽射りが、私二人の影を、静かに重ねていた。部屋には、穏やかな、温かな空気だけが満ちていた。
部屋の空気は、いつしか重く、甘く、熱を帯びていた。
麦茶のグラスはとうに空になり、ローテーブルに無造作に置かれたまま。
窓から差し込む陽射しは西に傾き、オレンジ色の柔らかな光がカーテンを透かし、床に長い影を落としている。
ボードゲームの話から始まり、学園のこと、最近見た映画のこと、くだらないクラスメイトの噂話へと、会話はゆるやかに続いていた。
リコンフィグの笑い声が小さく響くたび、彼女の金色の髪が揺れ、私の肩に軽く触れる。最初は、ただ寄り添うだけだった。
リコンフィグが少しずつ距離を詰めてくる。肩が触れ、腕が絡まり、彼女の体温が伝わってくる。
甘いシャンプーの香りと、ほのかに熱を帯びた息が、私の頰をくすぐる。私は軽く笑って、彼女の顔を覗き込んだ。
「リコンフィグ、どうしたの?」
返ってきたのは、言葉ではなく、行動だった。リコンフィグの細い指が、私の腕を強く掴む。
ブルーの瞳が、いつもより深く、濡れたように輝いている。
「え」
次の瞬間、彼女は急に力を込めて、私をソファに押し倒した。背中が柔らかなクッションに沈み、桃色のボブヘアが乱れて視界の端に散る。
「うわっ」
リコンフィグの長い金髪が、両側からカーテンのように降り注ぎ、私の顔を覆う。彼女の上体が完全に覆い被さり、細い腕が私の両肩を押さえつける。
息が近い。
熱い。
「リコンフィグ……これはどういう意図だと捉えたらいいの?」
「インフェクション……好きだ。好きなんだ」
「……リコンフィグ」
私は静かに、でも少しだけ諭すような声で言った。
「駄目だよ、リコンフィグ」
リコンフィグは答えなかった。ただ、息を荒くしながら、顔をさらに近づけてくる。頰が赤く染まり、瞳が潤み、普段の完璧な仮面はどこにもない。
「私は嫌だから、やめてほしい」




