17話:病
部屋は、もう完全に私の作った柔らかな檻になっていた。カーテンを二重に閉め、外の音も光もすべてを拒絶した。
部屋は柔らかな橙色の光に満ちていた。
天井の照明は消え、ベッドサイドの小さなランプと、窓辺に置いたキャンドルがゆらゆらと揺れている。
空気は少し暖かい。残されたのは、ベッドサイドの小さなランプと、枕元に置いた卓上照明だけ。
どちらも淡い蜜のようなオレンジで、壁に揺らめく影が、まるで誰かの指先のようにゆっくりと肌を撫でている。
空気にはラベンダーと、ほんの少しだけ甘いバニラの香りが溶け合って、息を吸うたびに肺の奥まで温かく染み込んでいく。
そんな香りの中で、バレンフラワーさんの体温が、かすかに漂い始める。
スマホはもう、存在しないものと同じだ。
電源を切って、引き出しの奥に押し込んだ。
今、この部屋には私とバレンフラワーさんと、互いの吐息だけが存在を許されている。ベッドには厚手のブランケットと、ふかふかのクッションが山のように積まれ、触れるだけで心が沈みそうになる。
私二人はベッドの端に並んで座っていた。
肩が触れ合う距離。
君の吐息が、静かに部屋に溶けていく。
「ふかふかのタオル、好き?」
私が聞くと、バレンフラワーさんは少し照れたように微笑んだ。
「うん……触ってるだけで、なんか安心する」
「ベッドは硬め派? それとも沈み込むふかふか派?」
「今日は……こっちがいい」
バレンフラワーさんの声はすでに少し眠たげだ。他愛ない言葉が、ゆっくりと続いた。
朝の辛さ、心が休まる時間の少なさ、くだらない日常の断片。バレンフラワーさんのまぶたが徐々に重くなり、身体が少しずつ私の方へ傾いてくる。
「このまま、リラックスする遊び……続けよっか?」
私が囁くと、バレンフラワーさんは小さく頷いた。
「うん……」
私はそっと君の肩に手を置く。
「じゃあ、服……脱がせてあげるね。全部任せて」
バレンフラワーさんは抵抗なく、腕を軽く上げた。
ゆっくりとセーターを頭から抜き、シャツのボタンを一つずつ外していく。肌が現れるたびに、君の呼吸が少し深くなる。
ブラウスを肩から滑らせ、下着だけになった君の背中が、ランプの光に柔らかく浮かび上がる。
「きれいだよ」
私が言うと、バレンフラワーさんは恥ずかしそうに目を伏せた。でも、身体は逃げない。むしろ、私に預けるように寄りかかってくる。
私はベッドサイドの小さなボトルを取った。温めたアーモンドオイル。手のひらにたっぷり垂らし、両手で温める。
「冷たくないように、ちゃんと温めたからね」
バレンフラワーさんの肩に、そっとオイルを落とす。指先で広げながら、ゆっくり円を描くように滑らせる。
肩甲骨のあたりから、首筋へ。
君の肌が、じんわりと熱を帯びていく。
「ん……」
小さな吐息が漏れた。私はバレンフラワーさんをうつ伏せにさせ、背中にまたオイルを垂らす。
両手で広げ、背骨に沿ってゆっくりと下へ。腰のくぼみまで指を滑らせ、軽く押す。
「ここ、凝ってるね……」
バレンフラワーさんの身体が、ほんの少し震えた。でも、それは心地よさからくるものだ。
私は手のひら全体を使って、大きく円を描きながら、肩から腰、腰から太ももへとオイルを馴染ませていく。時々、指先に力を入れて、固くなった筋をほぐす。
バレンフラワーさんの吐息が、だんだん深く、長くなる。
「気持ちいい……?」
私が耳元で囁くと、バレンフラワーさんは小さく、
「……うん……すごく……」
と答えた。背中全体がツヤツヤと光り、温かくなる。私はバレンフラワーさんの腕を軽く持ち上げ、腕から指先まで丁寧にオイルを塗り込む。
手のひらを君の手に重ね、指を一本ずつ伸ばすようにマッサージする。バレンフラワーさんの指が、私の指に絡まるように動いた。
最後に、首の後ろから頭皮へ。髪を優しくかき分け、頭を包むように指を動かす。
バレンフラワーさんのまぶたは完全に閉じ、唇がわずかに開いている。ベッドには厚手のブランケットを二枚重ね、その上にさらに一枚、薄手の毛布をふわりとかけてある。
触れるだけで沈み込むような柔らかさ。
クッションは大きめのものを五つ、彼女の体を優しく受け止めるように配置した。まるで、雲の層に包まれるように。
私はバレンフラワーさんの手を、指先から掌まで、ゆっくりと絡め取る。彼女の指はまだ少し冷たくて、それが愛おしい。
そのままベッドの端に座らせて、背中をクッションに預けさせる。彼女の肩が、ほんの少しだけ落ちる。
もう、抵抗する気力すら溶け始めているのが分かる。
「今日は……全部、私に預けて」
低い声で、耳のすぐそばで囁く。吐息が彼女の耳朶を撫でると、バレンフラワーさんの肩が小さく震えた。
「何も考えなくていい。何も決めなくていい。私が全部、決めてあげるから……いいね?」
彼女の体を、ゆっくり横にさせる。背中がマットレスに沈む瞬間、ブランケットの重みが彼女の体を優しく押しつぶすように包み込んだ。
大きな手のひらにすっぽり収められたみたいに。
「足の先から……重〜くなっていくよ」
私は足の甲に指を這わせる。
爪先を、ゆっくりと円を描くように撫でながら、言葉を落とす。
「つま先が……ぽかぽかして……どんどん沈んでいく……かかとが……ずっしりと重くなって……地面に根が生えたみたいに……ふくらはぎ……溶けるように重たくて……膝の裏が……熱くなって……太もも……内側まで、じんわりと……力が抜けていく……」
一つひとつの言葉を、彼女の肌に染み込ませるように、ゆっくり繰り返す。
バレンフラワーさんの足の指が、最初は小さく動いていたのに、だんだん、ぴくりともしなくなる。
完全に、私の声に委ねられた。
「今度は……一緒に、呼吸しよう」
私は彼女の横に体を寄せて、自分の胸を彼女の背中に軽く触れさせる。息を合わせるように、大きく、ゆっくり吐き出す。
「……ゆっくり、吐いて〜……全部の力が、抜けていく……」
彼女の吐息が、私の吐息に重なる。最初は少し震えていたのに、だんだん長く、深く、甘く変わっていく。
「……吸って〜……胸がいっぱいになって……お腹が温かくなって……」
何度も、何度も。
息が重なるたびに、彼女の体が、私の体に寄り添うように近づいてくる。
「お腹の中が……熱くなって……胸が……ふわふわに広がって……肩が……どんどん下がって……首の力が抜けて……耳の後ろが……じんわり熱くなって……」
肩に手を置いて、親指でゆっくり円を描く。背中を、指の腹でなぞるように撫で下ろす。時々、手を握って、指を一本一本絡めて、掌の中心をそっと押す。
バレンフラワーさんの指が、私の手に絡みついて、甘えるようにぎゅっと握り返してくる。その小さな力が、たまらなく愛おしい。
「今、バレンフラワーさんは……温かいお風呂に、ずっと浸かっているみたい。体中がぽかぽかして……重たくて……気持ちよくて……ふわふわの雲の上に、浮かんで……雲が体を優しく包んで……どこまでも沈んでいく……誰も何も言ってこない……ただ、安心して……ここにいられる……私の声だけが、ずっとそばにいて……」
まぶたが、完全に落ちていた。
長いまつ毛が、微動だにしない。
口元が少し開いて、時折、小さく「ん……」と、甘く溶けたような吐息が漏れる。
頰が緩んで、ほんのり赤く染まっている。
その表情を見ているだけで、私の胸の奥が熱くなる。
「……気持ちいいね……すごく、気持ちいいよね……」
耳元で、もっと低く、もっと甘く囁く。
吐息を彼女の耳朶に直接吹きかけるように。
「そろそろ……歯も、きれいにしちゃおうか」
バレンフラワーの瞳が、薄く、ゆっくり開く。
ぼんやりとした視線が、私を捉える。
焦点が合っていないのに、どこか恍惚とした、幸せに溺れたような表情。その瞳を見ているだけで、喉の奥が疼く。
「私が全部やってあげるから……ぼーっとしてて……いい子でいてね」
柔らかめの歯ブラシに、ピーチの甘い香りの歯磨き粉をたっぷりつける。
「口、開けて……」
バレンフラワーさんは素直に、ゆっくり口を開けた。顎が少し下がって、力が抜けきっている。その無防備さが、たまらなく愛おしくて、官能的だ。
「いい子……本当に、いい子だね」
とてもゆっくり、丁寧に磨いていく。奥歯の内側を、ブラシの先で優しくなぞる。溝の奥まで、丁寧に。前歯を、円を描くように、ゆっくり。
舌も、軽く、そっと撫でるように。泡が少し出てくると。
「そのまま……ぼーっとしてて……いいよ……」
小さく確認しながら。
「気持ちいい?」
「……ん……きもち……いい……」
「もっと優しくしてほしい?」
「……このままで……ずっと……」
終わったら、コップにぬるま湯を入れて、そっと口に運んであげる。彼女がゆすぐのを、じっと見つめながら。柔らかいタオルで、頰の泡を指先で丁寧に拭き取る。
唇の端に残った泡を、親指の腹でそっと取ってあげる。
「もう全部、きれいになったよ……本当に、えらいね……」
「えへへ」
バレンフラワーさんの頰が、熱を持っている。
眠たげな瞳が、幸せそうに細まって、私をじっと見つめている。その視線に、胸の奥が疼く。手を繋ぐ。
彼女をそっと横にさせて、ブランケットを肩まで、首元まで、耳の後ろまでかけてあげる。隣に横になって、彼女の背中に体を寄せる。
私の胸が、彼女の背中にぴたりと触れる。
「もうそのまま……眠っていいよ」
背中を、優しくトントンと叩く。
髪を、指で梳くようにゆっくり撫でる。
耳の後ろを、指先で軽く撫でてあげる。
彼女の体が、もっと深く、私に預かってくる。
「私が、ずっとそばにいるから……何も心配しなくていい……全部、私が守ってるから……バレンフラワーさんは、ただ……甘えて……溶けて……いいんだよ……」
バレンフラワーの呼吸が、ますます深くなっていく。小さな寝息が、静かな部屋に溶け込んで、甘いリズムを刻む。暖かな光の中で、
二人の体温が、ゆっくりと混じり合って、
永遠のように、優しく、熱く、続いていた。
◆
バレンフラワーさんがすっかり眠りに落ちたのを確認すると、私は静かに息を吐いた。
彼女の胸はゆっくり上下し、長い睫毛が静かに影を落としている。オイルの残り香が部屋に薄く漂い、キャンドルの小さな炎がゆらゆらと揺れる。
ベッドサイドのランプは暖かな橙色を投げかけ、ふかふかのブランケットに柔らかい輪郭を与えていた。私はそっと立ち上がり、彼女の額に軽く触れた。
熱はない。ただ、安心しきった温もりだけ。
「いい夢見てね」
小さな囁きを残し、ドアノブを回す。音を立てないよう、ゆっくりとドアを閉めた。廊下に出ると、空気が少し冷たい。
家の中は静かで、遠くの時計の秒針だけが小さく響く。階段を下り、リビングの灯りが漏れる扉の前に立つと、そこに妹がいた。
ソファに膝を抱えて座り、スマホの画面をぼんやり見つめている。
少し幼いままの顔立ち。
私と同じ遺伝子を持ちながら、どこか守られているような柔らかさがある。
「おつー、お姉ちゃん」
妹が顔を上げた。声は眠そうで、少しからかうような響き。
「友達と遊んでるんじゃなかったの?」
私は肩をすくめて、ソファの端に腰を下ろす。
「遊んだよ。バレンフラワーさん……ああ、友達が寝ちゃったから、邪魔しないように部屋から出てきたの」
妹はくすりと笑った。
「また毒牙に掛けたんだ」
「酷いな、この妹は。毒牙って」
私は眉を寄せて、軽く睨むふりをする。でも、口元は緩んでいる。妹はスマホを膝に置き、膝を抱えたまま私を見た。
「ほんと、お姉ちゃんは変わったよね。いや……戻ったっていうべきなのかな」
「変わった? 戻った? ってどういう意味?」
妹は少し考えて、言葉を選ぶように言った。
「昔から明るかったじゃない。人の中心にいるタイプ。でも中学生の時に壊れて、引きこもって。それから病院やらなんやら……色々あって家に戻ってきた」
私は頷いた。視線を落として、膝の上で指を絡める。
「あの頃は、中学で失敗して、周囲から孤立した。……孤立じゃなくて孤独になった。虐められていた。私を虐めた連中は赦せないし、腹立しいけど、私に問題がなかったのか、と言われれば、それはきっと、あったんだよ」
妹が小さく首を傾げる。
「虐められる側にも罪はあるってやつ?」
「いいや、罪はない。ただ、過失や原因はあると思う。虐めだって、種類がある。あのときの私は八方美人の嫌なやつだったっていうのは、自覚してる」
妹は少し間を置いて、
「かもね。でも、今は違うんだ?」
私はゆっくり息を吐いた。
「そうだね。知識と経験がある。それらによって錬磨されたスキルを、主体的な意志を持って使用する自分がある。だから、同じことが起こっても、違う結末になると思うよ」
妹の目が、少し優しくなる。
「前向きだね」
「私は後ろ向きだよ。でも、意識的に前向きにもなれるってだけ。大切なのは選択肢があること。その選択肢を選ぶ主体性があること。」
リビングの灯りが、私たちの影を長く伸ばす。妹は膝から手を離し、私の肩に軽く頭を預けてきた。
小さくて、温かい。
昔と同じ重さ。
「これは素朴な疑問だから、聞き流してくれても良いんだけどさ」
「うん、何?」
「そこまで優しくする必要はあるのかな? リコンフィグ先輩、アンバーオックス先輩、そしてバレンフラワー先輩。確かに『人に好かれるキャラクター』を意図を持って目指すと、今のお姉ちゃんになるのかもしれないけど、それってそこまで大切なのかな。なあなぁで、適当に、その場しのぎで生きていった方が楽じゃない?」
私は思わず、笑ってしまった。我が妹は、本当に、本当に、優しい子だな、と。
「……なかなかストレートな感想だねぇ。何故そこまで優しくするのか、って? いやいや、勘違いしないでよ。私は『優しくしてる』なんて、一ミリも思ってない」
「本当に?」
「私はただ、バランスを取ってるだけなんだよ。『面倒な事情』とか『精神的な弱さ』とか、そんなものにいちいち感情を動かされてるわけじゃない。それこそが一番面倒なことだからね。人間はさ、放っておけば勝手に助かるんだ」
ひとは一人で勝手に助かるだけ。誰かが誰かを助けるなんてことはできない。
有名なアニメのセリフだ。
「助かるのも、助けるのも自分だけ。だったら私がやるべきことは、たった一つ。その『勝手に助かる』ための邪魔になるような、極端な傾きだけを、ちょっぴり直してあげること」
「それは優しさだと思うけど」
「そんな甘っちょろいものじゃないよ。ただの物理法則みたいな調整。天秤が傾きすぎると、どっちも落ちる。それだけのこと。私だって、同じだよ。データ型とか、分析とか、天候とか滑稽な事を言っているけど、弱くて儚い人間だと、感じるばかりだよ」
「どうして? 別に自分さえ扱えない人が多い中で、お姉ちゃんは自分を理解して生きている」
「だってさ、世界は一人じゃ回らないんだよ。私がどんなに精神的な孤独を貫こうと、私の周りで誰かがバランスを崩せば、遅かれ早かれその余波は私にも来る。だったら最初から、ほんの少しだけ道筋を整えて、後は見守る。それが一番手っ取り早くて、私にとっても一番安全なんだ」
私は自分の考えを口にする。
「だからね。私はみんなを『助けてる』んじゃない。彼女たちが自分で立ち上がれるように、邪魔な石ころをちょっとだけどかしてるだけ。それ以上でも以下でもないよ……ま、他の人がそれを『優しさ』って呼ぶなら、勝手に呼べばいいけど。でもこれは、人間に課せられた仕事に近いんじゃないかな」
空気は少し重く、静かで、さっきまでの柔らかな余韻がまだ残っているようだった。妹はソファに腰掛けたまま、膝を抱えるようにして体を丸めている。
私は彼女の対面に座り、肘を膝に乗せて、静かに妹の顔を見つめていた。
「そっか。なら、それで良いんじゃないかな。駄菓子より甘いお姉ちゃんも、私は好きだよ」
「私も、クソ生意気な妹のことは大好きだよ。だから何かあったら頼ること。一人で抱えず、誰かを頼り、生きること」
「えー、私ってそんなに脆そうに見える?」
「さて、どうかな」
私は強い人が壊れた姿を何度も見てきた。
上級貴族の人間が酒に溺れ、数万の洋服を売りつけるベテランの洋服の定員さんがリストカットの常習犯、単純に無能で人間関係が苦手な人。
精神の病。
そうなるまでは、様々な社会的立場があった人間が、現実に押し潰されて、使い潰されて『心が壊れた人間』達が集まる場所に、私も入っていた。
「強い人間が、強いままでいられるとは限らない」
「それはそうだけど」
「人生、何が起こるかわからない。セーフィーネットは張り巡らせておいて損はないからさ。この偉大なるお姉様からの救いの糸は、常に垂らされている。それは覚えておいてね」
「ううん? お姉ちゃんは、やっぱ変わったね。頭良くなった」
「はっ、はっ、はっ。殴るぞ」




