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16/21

16:押し倒して



放課後の教室は、窓から差し込む夕陽がオレンジ色に染めていて、どこか少しだけ現実離れした静けさに包まれていた。


 黒板のチョークの粉がまだ宙に舞っていて、遠くの部活の掛け声がかすかに聞こえてくる。

 バレンフラワーさんは私の机のすぐ横に立ったまま、両手をスカートの裾でぎゅっと握りしめていた。指先が白くなるほど力を込めているのが分かる。


「……インフェクション。今日、もし……もしよかったら、なんだけど……」


 声が小さくて、途中で何度も途切れる。


「……一緒に、遊ばない?」


 顔はもう真っ赤を通り越して、耳まで熱を持っているみたいだった。膝が小さく、細かく震えていて、スカートの裾が微かに揺れている。


 視線は私の顔と床とを何度も往復して、まるで逃げ場を探しているようだった。その緊張のベクトルが、完全に「私を誘う」という行為そのものに向いているのが痛いほど伝わってきた。私は少し疲れた頭を軽く振って、でもちゃんと笑顔を作って答えた。


「うん、いいよ。……ただ、今日はちょっと疲れててさ。あんまり歩いたり、人混みのところは正直キツいかも。それでもいいなら、付き合うよ」

「あっ……そ、そうなんだ!」


 バレンフラワーさんの目が一瞬大きく見開かれて、慌てて手を振った。


「ご、ごめんね! 全然空気読めてなくて……! 疲れてるのに、私なんかのために無理しなくていいよ! 本当に……私のことばっかり考えてて、ホントにだめな子で……」


 言葉がどんどん早口になって、しまいには自分を責めるように俯いてしまった。

 その様子を見ていられなくて、私は静かに、でもはっきりと遮った。


「バレンフラワーさん」

「……っ」

「私、誘ってくれて嬉しかったよ。本当に。だから、そんなに申し訳なくならなくていい」


 バレンフラワーさんの肩がびくっと震えて、ゆっくり顔を上げた。瞳が少し潤んでいるように見えた。


「……インフェクション……」

「ってことでさ」


 私はわざと明るい声を出して、机に置いてあったカバンを肩に掛けた。


「うちでダラダラしようぜ! ゴロゴロしながらお菓子食べて、適当に喋って、なんも予定入れない感じで」

「えっ!? ええええ!?」


 バレンフラワーさんの声が裏返った。


「ご、ご両親にご挨拶とか……!? まだ恋人にもなってないのに、そんな、いきなりお家に上がり込むなんて……!」


 私は思わず吹き出して、腹を抱えて笑った。


「あはははは! それやったらリコンフィグを完全に出し抜くことになるね。で、運悪くリコンフィグがちょうど帰ってきて、玄関開けた瞬間に修羅場発生とか最高の展開なんだけど」

「ふ、ふふ……それは、どうなんだろうね。良いことなのかな。悪いことなのかな……」


 良いわけないだろ。社会的に死ぬわ。確実に。


「……じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」


 バレンフラワーさんがようやく小さく微笑んで、恥ずかしそうに呟いた。


「わーい! バレンフラワーさんが家に来るー!」


 私が両手を挙げてはしゃぐと、彼女はくすくすと笑って、「インフェクションの家か……楽しみだな」と言った。


「と言ってもさ、ぶっちゃけやることないよ。ボードゲームはあるけど、古いやつばっかだし。あとは……ゴミ? くらいしかないかも」

「ううん。雑談メインでも、きっと楽しいよ。大丈夫」


 バレンフラワーさんはそう言って、ほんの少しだけ胸を張った。そして。我がインフェクション**の家の玄関、そして部屋を開けた瞬間。


「………」

「………」


 重い沈黙。廊下にまで溢れ出した本。床に転がった袋、空の魔法瓶が無造作に積み重なった山、洗濯物らしきものが椅子の上に崩落している光景。


「………」

「………」


 私は無言でドアを閉めた。


「……遊ぶ前に、片付けます。ごめんなさい」


 頭を深く下げると、バレンフラワーさんは慌てて両手を振った。


「ううん、私も手伝うよ! 一緒にやろう」

「すみません……ほんと、お願いします。恥ずかしくて死にそう」


 二人は黙々とゴミ袋を広げ、散らかった部屋に向き合った。夕陽がカーテンの隙間から細く差し込んで、埃の粒子がきらきらと舞っている。


「はーい魔法防護。埃で喉痛めるとまずいから」

「あ、ありがとう〜。気を遣ってもらってごめんね」

「それはむしろこちらの台詞ですよ、ホント」


 謎の薬品を片付けますが、バレンフラワーさんがぽつりと言った。


「……インフェクションの匂いがする部屋だね」

「……それ、褒めてる? 貶してる?」

「ふふ、どっちもかも」


 私は苦笑いしながら、床に転がっていたシャツを拾い上げた。なんだかすごくくだらないのに、すごく、すごく温かい時間がゆっくりと流れていた。

 

 部屋の中は、片付けが終わったばかりの清潔な空気に変わっていた。さっきまで床を埋め尽くしていた服の山は、きちんと畳まれてクローゼットに収まり、転がっていた魔法瓶や食べ物袋は分別されてゴミ袋の中にきちんと詰め込まれている。

 

「おお……おおぉ」

 

 埃っぽかった空気も少し澄んで、窓から差し込む夕陽が床に柔らかいオレンジの帯を描いていた。

 

 バレンフラワーさんは最後のゴミ袋の口をきゅっと縛って、満足そうに小さく息を吐いた。その手つきは本当に慣れていて、まるで毎日のルーチンの一部のように自然だった。

 

 私はベッドの端に腰掛けたまま、思わず感心した声を漏らした。

 

「……なんか、手際良すぎるね。ゴミの分別も完璧だし……部屋の掃除とか、普段から結構やってるの?」

 

 バレンフラワーさんは少し照れたように笑って、額に張り付いた髪を指で払った。

 

「うん。私の部屋自体は汚くならないように気をつけてるんだけど……チビ達の部屋の片付けは、ほぼ毎日やってるから」

 

 チビ達——バレンフラワーさんの弟二人。まだ小学生と幼稚園児くらいだったはず。精神はまだまだ幼くて、散らかすスピードだけは尋常じゃない。

 おもちゃを広げて、服を脱ぎ散らかして、お菓子を食べ散らかして……その後始末をいつも姉であるバレンフラワーが引き受けているのだろう。

 

「前に話したみたいに、叱るだけじゃなく、一緒に片付けるようにしてるんだよね。

『片付けなさい』って口だけで言っても、絶対動いてくれないし……結局、私が手伝わないと終わらないから。怒るのも教育に良くないって意見もあるし」

「……はぁん、そういうこと」

 

 

 『一緒にやる』というのは、それは確かに優しいし、正しい教育だと思う。でも、毎回二人の分の散らかりを片付けるとなると、相当な負担になるはずだ。

 人に尽くすのが当たり前になってしまっているバレンフラワーさんだからこそ、自分の疲れやストレスを後回しにしてしまう。

 

 人生のバランスが、どんどん崩れていく。そもそも、バレンフラワーさんの親は何をしているんだ——という疑問が頭をよぎるけど、今それを口にするのは違う気がした。

 

 バレンフラワーさんが自分で限界を感じて、私に頼ってきたとき、その話題に触れるだけでいいだろう。

 

「……ふぅ。これで、ようやく綺麗になったね」

 

 バレンフラワーさんが立ち上がって、軽く腰を伸ばした。部屋を見回すその表情は、どこか誇らしげで、少しだけ子供みたいに無邪気だった。

 

「うん、めっちゃ綺麗になった。ありがとう、バレンフラワーさん。助かったよ」

「ううん、いいよ。……私も、なんかスッキリした気分」

 

 彼女はそう言って、ふっと微笑んだ。

 

「さて、これからどうしようか? 何かおすすめのボードゲームとかある? チビ達がいつも騒いでるから、新しい話題作くらいは名前だけは知ってるんだけど……」

 

 私はベッドに座ったまま、ゆっくりとバレンフラワーさんを見上げた。

 

「……んー、そうだね。バレンフラワーさん」

 

 そのまま、そっと手を伸ばす。細い肩に指をかけ、抵抗されないように、でも確実に引き寄せた。

 

 バレンフラワーさんの体が少しだけびくっと震えて、私のほうに傾く。そのまま、ゆっくりと押し倒す。背中がマットレスに沈み込むと、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。

 

 柔らかいシーツの感触が、二人を包み込む。夕陽の光がカーテンの隙間から細く差し込んで、バレンフラワーさんの頬を淡く染めていた。大きな瞳が驚きで見開かれて、私の顔を真正面から見つめてくる。

 

 息が少し乱れているのが、近くて分かった。私は覆い被さるように近づいて、静かに、でもはっきりと囁いた。

 

「バレンフラワーさんには、今日は……子供になってもらう。人に甘える快楽を、たっぷり味わわせてあげる」

「へぇ!?」

 

 バレンフラワーの声が一瞬で裏返った。顔が耳まで真っ赤になって、瞳がぱちぱちと瞬く。両手は私の胸元を押すように置かれているのに、力はほとんど入っていない。

 

「……い、インフェクションちゃん……?」

 

 小さな声が震えていて、でもどこか期待と戸惑いが混じった、甘い響きを帯びていた。部屋の中には、片付けたばかりの静けさと、二人の高鳴る鼓動の音だけが、ゆっくりと響き合っていた。

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