エピローグ 中学生になって気づくだろうけど、君も淫魔だったらしい。
ほこりっぽい教室の中、一人の少年が色褪せた文集のページを捲っていた。
あどけなく中性的な面立ちの男の子である。
真夏ということもあり、窓から照りつける太陽が眩しいが気にする様子はない。
そうして最後のページまで読み終え、汗の伝う額を手で拭うと
「ふぅ……」
と大きく息をついた。
彼は手元にある本から頭を上げ、部屋の隅にかけてある時計を確認する。
「あ、こんな時間だ……」
困ったような呟きが漏れるのも無理はない。
校則に定められた下校時刻寸前である。
六時前に帰宅しなければならないのは、夏休みだろうと関係がない。
だというのに、割り当てられた仕事が一切終わっていないのだ。
間の悪いことに、一人の背の高い男子生徒がドアを開けて入ってきた。
「あ、夏樹! てめー、さぼってんじゃねえよ!」
「ご、ごめん、彼方くん……」
咎められ、少年は申し訳なさそうに目を伏せる。
彼の名は古井 夏樹。ピカピカの中学一年生だ。
文芸部に所属する数少ない生徒の一人である。
一方、もう一人の生徒は古井 彼方といい、一つ上の二年生。
言及しておくと、苗字は同じだが兄弟ではない。
従兄弟であり、親の仲の良さもあり何かと腐れ縁だった。
「まあまあ、読書に熱中してしまうことなんてよくあることですから」
彼方より少し遅れて教室に入ってきた女性が、おっとりと嗜める。
生徒ではなく教師である。眼鏡をかけていて、長い黒髪をストレートに流していた。
「元はといえば、仁田先生がいきなり部室の掃除をしようって言い出したせいでしょうが」
彼方が不満げに口を尖らせる。
そもそも彼は文芸部に在籍していない。
練習がない日を見計らって夏樹に声をかけられた野球部である。
遊びに来たはずなのに、流れで手伝うことになってしまった。
それなのに肝心の部員がさぼっているのだから、怒り心頭になるのも当たり前というもの。
「っていうか、こんな昔の文集どうするっていうんです? 今どき紙の本なんて流行らないでしょうに」
「……そうですか? 味があると思いますけど。全部、データとして取り込んで保存する予定なんですよ」
彼方の怒りが飛び火するが、仁田は特に気にすることなく夏樹の読み終えた本を手にした。
彼女は愛おしげにザラ番紙の表紙を撫でる。
「懐かしいですね。この文集も……」
「先生、知ってるんですか?」
夏樹が興味を持ち尋ねれば、仁田ははにかみながら答える。
「そうですね。私が中学生だったころの作品ですから。わけあって作者の名前は伏せてありますけど、同級生の……女の子の作品ですよ」
「へー、そりゃ古いわけだ」
彼方が何気なく呟くと、仁田がぎろりと睨み付ける。
視線に込められたのは――殺気。
「な、夏樹。どんな話なんだ!?」
それに怯え、彼方は慌てて話を逸らそうとする。
何も悪くない夏樹までもがその余波の前に浮足立った。
「え、ええっと……ある日、男の子が女の子になっちゃうって恋愛ものだよ」
それでも必死に噛み砕こうと頑張るのだが――。
「……なんだそりゃ。意味わかんねーな。書いたやつの気がしれん」
どうやら、彼方はお気に召さなかったらしい。
呆れた風に肩をすくめる。
「……そう? 僕は結構気に入ったんだけど」
「性別が変わるなんて、現実にありえるわけないしな。まあ、創作ってそんなもんかもしれねえけど」
夏樹が擁護に回ったものの、従兄の感想はばっさりだった。
とはいえ、従兄と見解の相違を見せるのは一度や二度ではない。
インドア派の夏樹とアウトドア派の彼方。
幼馴染ではあるが真逆の嗜好である。
それでいて、実のところ運動神経は夏樹の方がいいというのが面白い。
そうこうしているうちに予鈴が鳴った。
「帰るか」
「……そうだね」
彼方に促され、夏樹はカバンを手にする。
残念ながら掃除は殆ど進んでいないが、また今度やればいいだろう――と、呑気に教室を後にしようとした瞬間のことだった。
「……本当にそう思います?」
仁田がぼそり。
「え……?」
夏樹が振り向くと、彼女は微笑んでいた。
「いいえ。なんでもないですよ。車に気を付けて帰ってくださいね」
「は、はい。先生も、お気をつけて」
「ふふっ、ありがとうございます、夏樹さん。彼方さんにもそう伝えておいてください」
そして、今度こそ夏樹は部室を後にした。
◆
「『中学生になって気づいたけど――』ですか。本当に懐かしいです」
自分以外誰もいなくなった部室で、仁田は感慨深げに一人ごちる。
教室の窓に目をやれば、夏樹と彼方が談笑しながら下駄箱の方へと向かっていた。
デコボコながらも和気藹々とした二人。
なんだか、未だ忘れえぬ青春の日々と重なるものがあり、彼女はくすりと笑った。
夏休みの時期になる度、仁田はついついかつての同級生を思い出してしまう。
いつの間にか姿を変えてしまっていた彼。当時はおどけて答えたものの酷く残念に感じたものだ。
「――今思うと、気づかなかっただけで初恋だったのかもしれませんね」
女装させてみたい――邪な欲望ではあるが、もしかしたら恋心の発露だったのかもしれない。
小学生時代、転校したばかりで緊張していた仁田の交友関係を広げてくれたのは彼なのだから。
もっとも、今更考えても後の祭りなのだが。
彼女は今でも仲の良い女友達。
それでいいのだ。
「……それにしても、クォーターでも影響ってあるんでしょうかね?」
誰ともなしに呟かれたそれに答える者はいなかった。