第9話 もう、あなたたちの音には戻らない
翌日の協議室には、王室書記官とユリウスが同席した。中央の記録晶が淡く光り、発言を刻み始める。
昨夜は眠れた。それでも席へ着くと、指先が冷えた。隣のレオンハルトは何も言わず、卓上へ手を置く。触れてはいない。けれど、そこにある手へ視線を落とすだけで、耳飾りの奥のざわめきが少し遠のいた。
王室書記官は、記録晶が署名終了まで作動すること、虚偽の証言には責任が伴うことを最初に告げた。
父は前日と同じ説明を繰り返した。
「療養先へ移すまで、町の宿で休ませる予定だった。悪天候で馬車が遅れ、本人が先に歩き出したのは不幸な行き違いだ」
「では、確認します」
私は革袋を卓上へ置いた。銀貨が三枚、転がる。
「あの夜、私に渡されたのはこれだけです。外套も荷物もありませんでした」
ユリウスが書類を王室書記官へ渡す。
「冬館の門衛記録では、リゼット様は夜の第十鐘前に徒歩で退館。クラウゼル家名義の馬車は、その夜一台も出庫していません。町の三宿にも予約はありませんでした」
父の唇が固くなる。
「門衛は末端の使用人だ。記憶違いもある」
「記憶ではありません。交代時刻、退館者、出庫車両を記す当直簿です。お父様の家令が翌朝確認印を押しています」
ユリウスが印章部分を拡大し、記録晶へ映した。父は家令の印を偽物とは言えなかった。
「使用人の怠慢だ。私は手配を命じた」
「翌朝の修道院宛て申請には、『家から離籍させた娘を受け入れてほしい』と、お父様の署名があります」
私は写しを開いた。
「一時療養ではなく、離籍と書かれています」
王室書記官が日付と印章を確かめ、記録晶へ読み上げた。
父はもう、行き違いとは言わなかった。
代わりに、家付き医師の所見書を提出した。
「娘は強い刺激の下で判断を誤ることがある。あの夜の発言だけで、家族との関係を絶つ意思が確かだったとは言えない」
『慢性的な神経衰弱』『保護者による生活判断が望ましい』。見慣れた言葉が並んでいた。
王室書記官が、診察日を尋ねる。
「最後に本人を診たのは、いつですか」
父は答えず、医師の署名欄を指した。
私は所見書を裏返した。添付された診療記録の日付は三年前で、診察内容は父からの聞き取りのみ。脈も魔力も測られていない。
「私は、この医師と二人で話したことがありません」
ユリウスがオリヴィエの所見を提出した。低体温から回復した翌朝以降、契約内容を理解し、自分で職務判断を行えている。過敏症は意思能力を損なう病ではない、とある。
「刺激が強い場所で休む必要があることと、自分の生活を決められないことは同じですか」
王室書記官の問いに、父は沈黙した。
継母が扇を開いた。
「その文書は修道院の便宜のためよ。離籍と書かなければ、空き室を優先してもらえなかったの」
「では、翌朝には受け入れが決まっていたのですか」
「手続き中だったわ」
王室書記官が、修道院長の回答を読み上げた。申請が届いたのは翌日の昼。空室の照会はそれより後で、事前の合意はない。
「馬車が雪で遅れた時刻には、私の行き先はまだ決まっていなかったことになります」
父は、今度は継母を見なかった。
次にアーヴィンが口を開く。
「それでも婚約は登録上存続している。私には関係を修復する権利があるはずだ」
「登録が未完了なのは、慰謝料と持参金の清算が済んでいないからです」
私は冬夜会に出席した二人の貴族の証言書を示した。アーヴィンが公衆の面前で一方的に破棄を宣言したこと、私が会場を去るまで撤回しなかったことが記されている。
「私は今ここで、婚約継続へ同意しません」
王室書記官が頷いた。
「王国婚姻法上、登録は財産上の効果を確定するものであり、当事者の同意を代替しません。破棄後の再締結には双方の署名が必要です」
アーヴィンの前に置かれた新契約書が、急に薄い紙束に見えた。
「地位も医療も用意する。君に損はない」
「顧問職を辞めた私でも、同じことを言いますか」
今度は、返事がなかった。
「冬夜会で倒れた時、私は休養を頼みました。あなたは『妻になるなら慣れろ』と答えた。今、契約へ休養室を書いたのは、私を知ったからではありません。私の給与と公爵家との繋がりを知ったからです」
喉は乾いていたが、声は震えなかった。
「私の体調を理由に戻すのであれば、なぜ北境公爵家との契約報酬をラーデン家が管理する必要があるのですか。なぜ私の知見を両家へ渡す条項があるのですか」
アーヴィンは答えず、契約書の端を揃え続けた。角はもう十分に揃っている。
「私は戻りません。婚約にも同意しません」
記録晶の光が一度強くなる。
王室書記官が協議内容を確認し、署名用の紙を配った。終わったと思った、その時だった。
王室書記官は署名欄の上で手を止めた。
「最後に一点。ラーデン卿、貴方は婚約継続の意思が、クラウゼル令嬢の役職と無関係だと誓言できますか」
アーヴィンは記録晶と私を交互に見た。
「令嬢の能力は、今や彼女の一部です」
「質問は、役職がなくても婚約するかです」
返事はなかった。
記録晶の光が、その沈黙まで刻んだ。
「リゼット、少し二人で話そう」
アーヴィンが席を回り込んできた。
「話すことはありません」
「公爵に何を吹き込まれた。君は昔から、誰かに決めてもらわなければ――」
伸びた手が私の上腕をつかんだ。
私は椅子を引き、自分でその手を振り払った。
「触れないでください」
アーヴィンは背後の護衛へ目をやった。
「馬車へ案内しろ。屋敷へ戻れば落ち着く」
護衛たちが一歩出て、王室書記官の顔を見て止まった。
記録晶は、まだ消えていない。
私の背後で椅子が引かれた。
レオンハルトが立ち上がる音は、ひどく小さかった。
けれど部屋にいた全員が、その音を聞いた。




