第10話 氷の魔王は、声を荒げずに終わらせる
床に白い線が走った。
アーヴィンの護衛たちの靴底だけが凍り、石床へ縫い止められる。肌には触れていない。それでも全員が息を止めた。
レオンハルトは私の前へ出ず、半歩後ろに立った。
「王室書記官。記録は」
「継続しております。本人の拒絶後に身体へ触れ、護衛へ移送を命じたところまで」
アーヴィンが私の腕から手を離す。
つかまれた箇所には、彼の焦りが熱い油のように残っていた。私は自分の袖を握り、呼吸を整える。レオンハルトはそれを見ても、私を抱き寄せたり、代わりに答えたりしなかった。
「誤解です。婚約者を落ち着かせようと――」
「婚約の継続に本人は同意していない」
レオンハルトの声は低いままだった。
「彼女が断った。それで交渉は終わりだ」
ユリウスが北境法典を開いた。
「成人者の明示した拒絶後、争いのある家権や婚約を根拠に移送を試みる行為は、保護ではなく強制連行未遂です。記録を王都法務院へ送付します」
父が青ざめた。
「私は命じていない」
「前日の書簡には、帰路の馬車を三人分ではなく四人分手配すると、伯爵家の執事が記しています」
ユリウスが封書の控えを示す。
綺麗に塗られていた嘘が、紙の端から剥がれた。
レオンハルトの足元から、さらに霜が広がりかける。
私は一度だけ振り返った。
彼の拳は白く、目には北境の吹雪が宿っている。
「レオンハルト様。ここまでで」
霜が止まった。
書記官は、私だけを協議室へ残した。
「この記録は、北境公爵の威圧を根拠に処理しません。貴方が提出した記録と、今の発言によって判断します」
私は、自分の背後を見た。レオンハルトは凍った靴を解くため、護衛と十歩以上離れて立っている。
「はい」
「そのことを、忘れないでください」
私は銀貨を置いた時の指先を見て、もう一度頗いた。
王室書記官は三人を別室で事情聴取し、護衛からも証言を取った。その日のうちに接触禁止の仮命令が出され、父たちは監視付きで領外へ送られた。
全員が退室した後も、私の上腕にはアーヴィンの指の形が残っていた。
オリヴィエが冷却布を巻く間、レオンハルトは室外にいた。扉は開いているのに、中へ入らない。
「閣下をお呼びしますか」
医師に聞かれ、私は少し考えた。
「手当てが終わってから、お願いします」
包帯を結び終えたところで、彼は入ってきた。凍らせた護衛の足に傷がないこと、記録晶の保全が終わったことを先に報告する。
「腕は」
「痣になるだけだそうです」
彼は私の袖口を見たまま、拳を開いたり閉じたりした。
「あの手を砕きたかった」
「砕かなかったですね」
「君に止められたからだ」
「止まってくれたからです」
同じ言葉ではない。彼はしばらく考え、ようやく頷いた。
護衛の一人は、往路で「帰りはリゼット様も同乗する」と聞かされていたと証言した。もう一人は、拒まれた場合に医師の診断を理由として連れ出す文書を預かっていた。診断欄は空白のままだった。
レオンハルトはその紙を一瞥し、暖炉へ投げ込みそうになった。王室書記官が証拠袋へ収めるまで、拳を握って耐えた。
決着が届いたのは五日後だった。
法務官室の机に、三通の命令書と一つの木箱が並ぶ。
アーヴィンには一方的な婚約破棄と強制連行未遂の責任が記録され、官職推薦は撤回。持参金の全額返還と慰謝料の支払いが命じられた。
父には、私の成人独立を妨げないこと、留め置いていた個人財産と私物を返すこと、接触禁止を守ることが命じられた。北方会議の名誉席と冬夜会の主催権も失った。
父は王室書記官の前で、独立確認書へ署名した。
私は同席を選んだ。
父は署名の直前まで、「家名を捨てれば後悔する」と言った。私は返事をせず、ペン先が最後の文字を書き終えるのを見届けた。王室書記官が紙へ砂を撒き、乾いた署名を読み上げる。
その瞬間、長く耳の奥へ残っていた砂の音が途切れた。
返された木箱を開けると、母が遺した銀の髪留めと、幼い頃の植物画が入っていた。金目の物ではない。だから処分もされず、忘れられていたのだろう。
私は髪留めを掌へ載せた。
「ほかの財産目録も確認しますか」
ユリウスに尋ねられ、頷いた。
「私の名義の物は、全部お願いします」
もう誰かの家へ戻るためではない。自分の物を、自分の手元へ戻すためだった。
法務官室を出ると、レオンハルトが廊下で待っていた。
彼は警備強化案を差し出した。城門の審査、外出時の護衛、接触禁止違反への対応が記されている。
「読むまで執行しない」
私はその場で目を通し、外出時の護衛を『常時二名』から『本人が必要と判断した時』へ直した。
レオンハルトは修正箇所を見て、異議を唱えず署名した。
「これでお願いします」
「分かった」
書類を受け取った彼の手へ、私は銀の髪留めを見せた。
「母の物です」
「戻ってきたのだな」
「はい」
箱の底には、子どもの頃に描いた北方の草花の絵も残っていた。形の歪んだ青い花へ、母の筆跡で名前が添えてある。
レオンハルトは絵を覗き込み、真剣に言った。
「今の君の図より、勢いがある」
「今の方が上手です」
「そうだろうか」
私は箱を閉じる前に笑った。父との最後の席より、その一言の方が記憶に残った。
レオンハルトは髪留めに触れず、私が箱へ収めるのを見守った。
その夜、私は内扉をいつもより大きく開けた。




