第11話 子どもたちのために
家族との件が片づいた後、私の仕事部屋には新しい机が入った。
城内の設備記録だけでなく、城下の工房からも点検依頼が届き始めている。私はミハイルと報告書の形式を整え、午前中に三通の返事を書いた。
昼になると、レオンハルトが本を一冊持って現れた。
「休憩だ」
「レオンハルト様が休憩を命じるのですか」
「顧問が働きすぎると、雇用主の評判が悪くなる」
彼は向かいの椅子へ座った。痛みを抑える必要のない昼なのに、私が読み始めると仕事の時より真剣に耳を傾ける。
物語の主人公が凍った川へ落ちる場面で、レオンハルトが小さく笑った。
「笑うところですか?」
「泳げないのに氷へ乗った方が悪い」
私もつられて笑う。
読み終えた後も、彼は本を返さなかった。栞を挟み、次に読む頁を確かめている。
「続きは明日でもいいか」
「仕事ではないのですから、いつでも」
「仕事でないから聞きたい」
そう言われると、返す言葉がなかった。私は空になったカップへ茶を足し、頬の熱が引くまで湯気を見た。
契約の役割からはみ出した時間が、いつの間にか増えていた。
午後、その穏やかさを切るように王都からの使者が着いた。
王立魔導院異能管理局長、サイラス・ベルン。
銀縁眼鏡の奥に、落ち着いた知性を宿した男だった。挨拶も椅子へ座る所作も寸分の乱れがない。彼の魔力は悪意で濁っていないぶん、磨き上げた金属のように均一だった。
「突然の訪問をお詫びします。リゼット様には、ぜひ御本人の判断でお話を聞いていただきたかった」
サイラスは三冊の薄い記録を卓上へ置いた。
一冊目には、鐘の音を聞くたび嘔吐する七歳の少年。二冊目には、人の多い教室へ入れず、読み書きを学べない少女。最後の一冊には、魔力灯の明滅を皮膚の痛みとして感じる兄弟の症例が記されていた。
少年の頁には、学校の始業鐘が鳴る時刻になると納屋へ隠れる、と母親の聞き書きがあった。少女は教師の声そのものではなく、教室に集まる魔力の揺れで倒れる。どちらも周囲から怠けていると思われていた。
紙の上の短い文章なのに、昔の私の喉へ同じ痛みが戻る。
「魔力感応の過敏さに苦しむ子どもたちは、国内で確認できるだけでも四十七名います。あなたの感覚を調べられれば、補助具や遮断結界の改良へ繋がるかもしれない」
幼い頃、布団の中で耳を塞いだ自分を思い出した。
「その頃のあなたに、一つだけ用意できるとしたら、何が必要でしたか」
質問は契約の説明より先に来た。
私は答えを探した。防音室。補助具。休ませてくれる医師。どれも欲しかった。
「痛いと言った時に、信じてもらうことです」
サイラスは笑わなかった。記録の余白へ、そのまま書き留める。
「症状を言葉にできない子ども向けに、色札で刺激を示す試験を始めています。青は続けられる、黄は休みたい、赤は中止。まだ現場へ浸透していませんが」
彼が出した小箱には、三色の木札が入っていた。角は子どもの手を傷つけないよう丸く削られている。
私は木札をすぐには小箱へ戻せなかった。次の提案を聞く前から、記録の子どもたちの顔が紙の上に浮かんでいた。
「私に、何ができますか」
「王都の研究棟で測定へ協力していただきます。安全な個室、専任医師、生活を支える職員を用意します。国家指定研究協力者として、十分な報酬もお支払いする」
差し出された契約案は、アーヴィンの物とは違った。研究目的も測定内容も詳しく、医学的な配慮もある。
「移住が必要なのですか」
「長期のデータが要ります。刺激を統一した環境の方が、あなたの負担も少ない」
「期間は?」
「まず二年。成果に応じて見直します」
「北境から通う形ではいけませんか。測定器をこちらへ運ぶこともできます」
「環境条件が変われば、数値の比較が難しくなる。もちろん御希望は検討しますが、研究者としては王都を勧めます」
拒絶ではない言い方だった。けれど、最初から答えは決まっている音がした。
レオンハルトの指が、肘掛けを強くつかんだ。
私は契約書を閉じず、さらに読んだ。
外出には医師の許可。ほかの仕事は管理局の承認制。検査日程は局が決定。緊急時には研究を優先する。
「子どもたちのために協力したい気持ちはあります。ただ、今日ここで署名はできません」
「当然です。明日の正午までお待ちしましょう」
サイラスは微笑み、礼をして立った。
「これは命令ではありません。国が用意できる、最も安全な環境の御提案です」
彼が去った後も、三冊の記録は卓上に残った。
私はもう一度、契約案を最初から読んだ。
末尾の付属書。契約者向けではない分類欄に、小さな活字がある。
『対象区分A――17 希少感応資源。居住下管理を推奨』
表紙には、保護対象と書かれていた。
紙の奥では、別の名前で呼ばれている。
レオンハルトが手を伸ばし、付属書の文字を読んだ。水差しの表面に霜が浮く。
「明日は私も同席する」
「はい。ただ、最初に話すのは私です」
彼は霜の向こうから私を見て、短く頷いた。




