第6話 静かな嫉妬と、私の仕事
七日目の朝、レオンハルトは契約書を机の中央へ置いた。
「試用期間は今日までだ」
いつもより早く起きたらしく、署名済みの書類が机に積まれている。けれど、私の返事を待つ一枚だけは白紙だった。
「一か月、延長したいです」
彼の指から力が抜けた。
「それと、設備の感覚点検を正式な職務へ加えてください。ミハイルさんと点検記録の形式を作ります」
「喜んで頼みたい」
ユリウス法務官が契約を整え、職名は『北境公爵家魔力感覚顧問』となった。報酬は私名義の口座へ支払われる。
口座を作るため、城下の金庫役が確認書を持ってきた。彼は家長の承認欄を探し、私が成人だとユリウスに教えられると、その欄を二本線で消した。
口座名の紙に、私の名前だけが残る。
初回の支払いは七日分だった。封筒の金額と明細を二度数え、支出帳の『本人受領』という四文字の横へ署名する。王都の平均報酬、冬期危険手当、専門職手当が分けて書かれ、何にいくら支払われたかが分かった。
父から落とされた銀貨三枚は、まだ革袋に入れてある。使わずに、最初の給料とは別の引き出しにしまった。
ただし職務登録を行う以上、まだ家籍上の処理が終わっていないクラウゼル家と、婚約解消の登録前であるラーデン家へ通知が届くという。
「通知を避ける方法もあります」
ユリウスはそう言ったが、私は規定どおりに出してもらった。
「知られないために名前を隠したくありません」
レオンハルトは何も口出しせず、私の署名の後へ自分の署名を重ねた。
仕事が始まると、日々は忙しくなった。
城の見取り図を区画ごとに分け、炉、給湯管、結界柱へ番号を振る。午前は現場を回り、午後は記録を整える。私には小さな仕事机が与えられたが、レオンハルトの執務室に近いため、扉を開けておけば互いの気配が分かった。
彼は昼になると、私の机へ何も言わず食事の盆を置く。私は彼が時間を忘れていれば、読みかけの書類へ栞を挟んだ。いつからか、どちらが世話をしているのか分からなくなっていた。
私は城内の炉や結界柱を回り、聞こえた揺らぎを記録する。原因を決めつけず、音の高さ、間隔、天候、出力だけを書いた。ミハイルが計器の値と照合し、二人で点検手順を作っていく。
三日目には、温室の給湯管で実地試験をした。
ミハイルが私に知らせず、十二ある弁の一つだけをわずかに緩める。私は温室の入口から順に歩き、響きが細く途切れる場所へ青い札を置いた。正解は七番。私が置いたのは六番と七番の継ぎ目だった。
「場所は半区画ずれました」
「最初の感知としては十分です。そこから計器で絞れます」
試験を見ていた若い技師が、聞こえ方を尋ねた。
「水の音ではありません。陶器の縁を濡れた指で擦ったような……でも、出力が上がるともっと低くなります」
彼は理解しようと何度も指を動かし、最後には『感覚顧問の青札から左右一系統を測定』と手順へ書いた。
私がいなければ何も動かない仕組みにはしない。その方針をミハイルも守ってくれた。点検の最後は必ず計器と目視で確かめ、判断者の欄には技師の名が入る。私の欄は『感知位置・確信度』だけだ。
自分の限界まで書けることが、仕事の信頼になる。
「この記録なら、リゼット様が不在でも異常の傾向を追えます」
「私の耳だけを当てにする仕組みにはしたくありません」
執務室の一角で話し込んでいると、机の向こうで小さな音がした。
レオンハルトの傍らにあるインク瓶が、うっすら曇っていた。
彼はこちらを見ない。ミハイルを追い出しもしない。ただ、同じ行を三度読んでいる。
話が終わり、ミハイルが退出した後、私は彼の机へ新しい茶を置いた。
インク瓶を持ち上げると、底に薄い氷が一枚できている。私は布で包んで溶かし、使えることを確かめてから戻した。
「一本、駄目にするところでした」
「弁償する」
「そういう話ではありません」
「冷める前にどうぞ」
「……今日は、長く話していたな」
「炉の出力表が合わなかったんです」
「そうか」
カップを持つ横顔が、少しだけほどける。
「心配でしたか」
「あの技師の話は有益だ。君の仕事を妨げる気もない」
そこで言葉を切り、彼は曇ったインク瓶へ目を落とした。
「だが、愉快ではなかった」
あまりに率直で、私は笑いそうになった。
「私は仕事の話をしていただけです」
「分かっている。分かっているから、ここに座っていた」
彼の手がカップを包む。陶器の表面から、薄い霜が消えていった。
夜、症状の記録を付け終えると、レオンハルトは内扉の前で足を止めた。
「一か月後も、仕事は続けられる」
「はい」
「仕事以外にも、君がここへ残る理由を作れるだろうか」
答えは喉まで出かかった。けれど、まだ形にならない。
契約がなくても、朝に彼の顔を見たい。そう言えば何かが変わる気がして、怖かった。
レオンハルトも答えを迫らない。差し出した私の手を見て、問いをいったん胸の内へ戻した。
私は代わりに、彼へ向けて手を差し出した。
レオンハルトはしばらく見つめた後、そっと指を重ねた。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ、リゼット」
今は、それで十分だった。




