第5話 部屋を隣に移してもいいか
暖房炉の交換から二日後、レオンハルトは執務書類へ署名しながら言った。
「今日中に、君の部屋を隣へ移す」
羽根ペンが止まった。
彼は自分の言葉を一度噛みしめ、紙から顔を上げる。
命令を撤回したせいで、室内に妙な間ができた。副官グレンが書類から顔を上げ、すぐ何も見ていないふりをする。レオンハルトは咳払いを一つした。
「……移してもいいか。内扉のある部屋なら、夜ごと廊下を歩かずに済む」
私はすぐには答えず、隣室を見せてもらった。
内扉の鍵穴は私の側にだけあり、廊下への扉にも別の鍵が付いている。窓からは雪をかぶった中庭が見えた。
「ここにします」
レオンハルトが握っていた鍵を、私の掌へ置く。指が触れそうになって、彼の手は先に離れた。
部屋には寝台のほか、窓辺の読書椅子と小さな机があった。机の高さは私に合うよう直され、暖房炉には新しい安全刻印が入っている。
内扉の向こうは彼の寝室だが、壁は厚く、私が閉めれば声もほとんど届かない。近くに置くことと、一人でいられることが両立するよう考えられていた。
荷ほどきはすぐ終わった。
小さな革袋と、この城で用意してもらった平服が数着。広い衣装棚は半分どころか、一段も埋まらない。
手伝っていた女性使用人が黙り、戸口のレオンハルトも動かなくなった。
「実家の私物は?」
「持ち出す時間がありませんでした。もともと多くはありません」
彼の手元で、インク瓶の表面だけが白く曇った。
しばらくして、彼は封筒を一つ机へ置いた。
「生活準備金だ。必要な衣服や本を、自分で選んでほしい。給与とは別に公爵家が負担する」
「こんなに受け取れません」
「私が選ぶと、黒と灰色の服しか届かない」
真顔で言われ、思わず笑った。
レオンハルトもつられたように目元を緩める。
女性使用人が用意してくれた購入帳には、衣服、靴、寝具、本棚、洗面具と項目が分かれていた。私は欲しい物の欄へ数を自分で書く。
上等な夜会服は要らない。代わりに、雪道を歩ける長靴と厚い外套を最初に選んだ。あの夜に持てなかった物だった。
本棚は二段。植物図鑑を置く場所を空ける。カーテンは濃い青にした。黒と灰色しか選ばないというレオンハルトの予想より、少しだけ明るい部屋になりそうだった。
寝具の欄には、絹、綿、羊毛と三つの見本が添えられていた。実家では肌に合わない布でも、贅沢を言うなと取り替えてもらえなかった。私は指先で一枚ずつ確かめ、魔力を帯びにくい綿を選ぶ。
「予備も同じ物を二組でよろしいですか」
購入係の侍女に聞かれ、少し迷って一組にした。
「使ってから決めます。合わなければ別の物を試したいので」
一度に完璧な部屋を作らなくてもいい。暮らしながら変えられる。その考えは、契約書の解除条項と同じくらい私を楽にした。
二日後、最初に届いたのは深い焦茶の長靴と、灰青色の外套だった。
私は外套を着て、中庭へ出た。雪は浅く、靴底が滑らない。あの夜にはできなかった歩き方で、噴水の周りを一周する。
回廊の柱陰にレオンハルトがいた。偶然を装っているが、黒い外套も着ず、室内靴のままだ。
「見に来たのですか」
「窓から見えた」
「寒いでしょう」
彼は否定しようとして、くしゃみを一つした。
私は笑いながら自分の外套の襟を示した。
「これは温かいです。自分で選んで正解でした」
「そのようだ」
レオンハルトは私の足元を見て、長靴の留め具が緩んでいることへ気づいた。手を伸ばしかけたが、私が自分で締め直すまで待つ。
城へ戻る時だけ、転ばないよう腕を差し出した。私は自分から、その腕を取った。
回廊へ上がると、購入係が次の見本帳を抱えて待っていた。レオンハルトは青、緑、赤のカーテン布を順に見て、どれも同じ顔をする。
「本当に色が分からないのですか」
「違いは分かる。選んだ理由が分からない」
「朝の光が柔らかく見えるから、青にしました」
彼は中庭の雪と、私の肩の灰青色を見比べた。
「では、その理由ごと覚える」
購入帳へ口を出すことはなかった。ただ、翌日から執務室の窓にも、同じ青の細い房飾りが一つ増えた。
「余れば返してくれ。足りなければ、ユリウスへ追加を申請すればいい」
贈り物ではなく、使途の決まった予算として渡されたことで、私は封筒を受け取れた。
夜、内扉の前へ立つ。
鍵を回せば、扉は私の側からだけ開いた。
向こうの部屋で、レオンハルトは本を開いていた。頁は一枚も進んでいない。
「開けてくれたか」
「はい」
私は扉を半分まで開き、衝立の位置を自分で確かめた。
「今日からこちらで休みます」
「分かった」
彼は読んでいた本を閉じ、寝台脇の卓へ置いた。表紙が上下逆になっている。
私は指摘しなかった。待っていた時間の長さが、その一冊で十分伝わったからだ。
「それから……おやすみなさい、レオンハルト様」
初めて名を呼ぶと、彼は息を止めた。
「おやすみ、リゼット」
低い声が部屋を渡る。
私は内扉を開けたまま、自分の寝台へ入った。壁一枚隔てていた昨日より、彼の呼吸が近い。
夜が待ち遠しいと思ったのは、これが初めてだった。




