第4話 声だけでも、痛みがほどける
「――南の海は、陽を砕いた銀片のように光っていた」
昼下がりの執務室で、私は紀行文を読み上げていた。
レオンハルトは国境砦から届いた報告書へ目を通している。私が読み始めてから、ペン先を止めてこめかみを押さえる回数が減った。
報告書には、第三砦の備蓄麦が予定より二十袋少ないこと、雪崩で東道が塞がったこと、山村へ薬草を送る必要があることが記されていた。彼は朗読を聞きながらも、副官へ迂回路と配給量を指示し、一つずつ署名していく。
耳を塞いでいた八年間も、この作業を毎日続けてきたのだろう。机の端には、音を使わず命令を伝えるための手旗図と、各砦から届いた色札が並んでいた。
「声も届くのですね」
「君の声だけは、音のまま聞こえる」
彼は書類から目を上げた。
「八年の間、命令は筆談と手信号で出してきた。人の声を聞きながら仕事ができるとは思わなかった」
私は次の頁を開いた。彼が楽になることを知ると、読む声も自然に柔らかくなる。
数行進んだところで、別の響きが混じった。
低く、不規則な震え。人の感情ではない。
「待ってください」
私は本を閉じ、壁際の大型暖房炉へ近づいた。
「この奥です。右下の刻印から、擦れるような音がします」
レオンハルトは理由を問い返さず、すぐに登録工房へ使いを出した。
駆けつけた技師ミハイルは、初めこそ計器の正常値を示したが、私が指した箇所へ探傷具を当てると顔色を変えた。
「第六刻印の基盤に亀裂です。今夜まで稼働していたら、熱交換室が破裂していました」
彼は炉を止め、部品を外した。原因は長年の熱収縮。通常点検では見つけにくい場所だった。
停止した炉の代わりに、廊下の補助炉が動き始めた。グレンは近隣区画の使用人を食堂へ集め、暖の取れる部屋へ移す。窓の外では薪を積んだ橇が厨房棟へ走った。
一つの亀裂を見つけただけで、多くの人が動く。私の耳が拾った小さな違和感の先に、眠っている侍女や夜番の兵士たちの命があった。
「点検担当を罰する前に、原因を確認してください」
私が言うと、レオンハルトはミハイルへ視線を向けた。
「個人の処罰ではなく、同型炉の点検工程を改めろ。亀裂箇所を全設備へ共有し、今夜中に予備熱源を回せ」
「承知しました」
怒鳴りもせず、彼は修繕、人員、城内の保温手順まで決めた。
ミハイルは事故未遂報告書を取り出した。
「大型炉ですので、王立魔導院安全部への報告義務があります。第一発見者はリゼット・クラウゼル様、異常共振を事前感知、と記します。閣下の病状については触れません」
「それでいい」
自分の名が公的な書面へ書かれていく。
ミハイルは報告欄を埋める前に、私へ内容を読み上げた。『異常音』ではなく『異常共振』と記すこと、私が原因を断定したとは書かないことを二人で確認する。
私の言葉が勝手に大きくされず、専門家の言葉へ正しく置き換えられていく。父の診断書へ一方的に『虚弱』と書かれた時とは違う。
修理が終わるまで、私はミハイルの隣で共振の変化を聞いた。亀裂を外すと低い擦過音が止まり、新しい基盤へ魔力を流すと、今度は一定の丸い響きになる。
「これが正常音ですか」
「私には計器の針でしか分かりません。リゼット様には、どう聞こえるのです」
私は言葉を探し、乾いた豆を木の器へ落とす音に近いと答えた。ミハイルは笑わず、その比喩まで記録へ書いた。
夕方には、同型炉を点検するための仮の手順が一枚できた。感覚だけで終わらず、次の点検へ残る形になったことが嬉しかった。
翌朝、ミハイルは形の同じ金属片を六枚、布の上へ並べた。五枚は正常な炉から外した物、一枚だけが昨日の亀裂箇所と同じ傷を持っている。
「目を閉じた状態で、分かりますか」
最初の二枚は何も聞こえない。三枚目には細い震えを感じたが、探傷具は正常を示した。四枚目で、あの擦れる響きがした。
技師が印を確かめる。傷のある一枚だった。
「三枚目は外しました」
「いいえ。近くの補助炉へ反応したのかもしれません。私が間違える条件も記録しましょう」
窓を閉じ、炉の出力を落として試すと、三枚目の震えは消えた。ミハイルは点検表へ『周辺設備の停止後に再確認』と加えた。
私の感覚は便利でも、答えそのものではない。だからこそ、計器と人の手へ繋げれば仕事になる。
これまで体質を記す紙には、決まって「社交困難」「要監督」という文字が並んだ。今日は違った。
「正式な仕事にしよう」
レオンハルトが言った。
「設備の原因を突き止めるのは技師だ。だが、計器より先に異常へ気づいたのは君だ。感覚点検を依頼したい」
私は報告書の自分の名を見つめたまま頷いた。
「やります。ミハイルさんたちと方法を作らせてください」
「必要な器具も、人員も付ける」
胸が熱くなった。彼は私を褒めるために技師を貶さず、私にできる部分だけを仕事として差し出した。
夕方、執務が終わってもレオンハルトは席を立たなかった。
「続きを読もうか」
私が本へ手を伸ばすと、彼は視線を窓へ逸らした。
「仕事は終わった」
「では、明日にしますか」
「……君の声がないと、昼も少し長い」
私は本を開き直した。
頁をめくる音の向こうで、彼の口元がわずかに緩んだ。




