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婚約破棄された魔力過敏令嬢の心音だけが、氷の魔王公爵を眠らせる ~捨てられた夜に拾われ、安眠係として溺愛されています~  作者: 他力本願寺


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第3話 あなたのそばだけ、眠れる

夜半、壁の向こうで何かが軋んだ。


 耳で聞く音ではない。強い魔力が自分自身を締めつける時の、ひどく細い悲鳴だった。


 私は寝台を下り、鍵を開けた。


 レオンハルトの部屋の前には、呼びに来ようとしていた副官グレンが立っていた。私を見ると、安堵を隠さず脇へ退く。


 扉の内側で、レオンハルトは寝台の縁に腰かけていた。両手で耳を塞ぎ、呼吸を押し殺している。


「リゼット」


 私の名を呼んだだけで、強張った魔力が少し下がった。


「毎夜ここへ呼ぶつもりはなかった」


 彼が示した部屋の奥には、もう一つ寝台が置かれていた。間には厚い衝立がある。


「同じ部屋なら、発作が起きる前に抑えられるらしい。だが、君の睡眠を仕事に食わせたくない。嫌なら撤去させる」


 私は二つの寝台を見比べた。


「私も、ここなら眠れます」


 レオンハルトが顔を上げる。


「実家では、壁越しにも人の魔力が聞こえました。公爵様の近くでは、それがないんです。ですから、今夜はこちらを使います」


 私は自分で衝立の向こうへ回り、毛布をめくった。


 灯りが落ちる。


 衝立の向こうで寝台が軋んだ。彼が横になっただけの音だと分かっていても、最初は背筋が固くなる。知らない男と夜を過ごす怖さは、魔力が穏やかだからといって消えるものではない。


 私は腰の小さな鍵を枕元へ置いた。廊下へ出る扉も、衝立の脇の間隔も、眠る前に自分で確認している。


 そのうえで耳を澄ますと、聞こえるのは一人分の呼吸だけだった。


 初めは、姿の見えない男と同室にいる緊張で目が冴えていた。けれど聞こえてくるのは、布が擦れる音と、ゆっくり戻っていく呼吸だけだった。


 それらは私の感覚を逆撫でしない。広間の悪意も、父の砂のような声も、今夜は夢の入口まで追ってこなかった。


 子どもの頃、眠れない夜には窓を少し開けた。人の気配より冬風の音の方がましだったからだ。侍女に見つかれば叱られ、翌朝には鍵を掛けられた。


 今は窓を開けなくていい。寒さへ逃げなくても、同じ部屋にいる人の呼吸で眠れる。


「リゼット」


「起きています」


「……ありがとう」


 衝立の向こうで、寝返りの音がした。


「私も、ありがとうございます」


 返事を待たずに目を閉じる。次に開いた時には、窓が白んでいた。


 悪夢を見なかった。


 起き上がろうとして、袖が引かれていることに気づく。


 衝立の端で、レオンハルトが床へ座ったまま眠っていた。私の寝台へ踏み込まず、長い指だけが袖口をつかんでいる。夜中に気配を探して、そこで止まったらしい。


 私が袖を少し動かすと、彼は目を覚ました。


 手を離す動きがあまりに速く、指が寝台の縁へ当たった。


「すまない。約束を破った」


「袖だけです」


「それでも無断だった」


 彼は床から立ち、衝立の向こうへ戻ろうとした。


 私は皺になった袖口を見た。嫌悪は来なかった。残っているのは、そこまでして私の気配を求めたことへの戸惑いだけだ。


「昨夜、怖くはありませんでした」


 レオンハルトの足が止まった。


「今夜は、衝立を少しずらしましょうか。袖を探さなくても、声が届くくらいに」


 振り返った彼は、しばらく何も言えなかった。


 朝食の後、使用人が衝立を半歩だけ動かした。私が指定した距離だった。


 夜になり、二つの寝台へ入る。レオンハルトは腕を伸ばせば届きそうな場所にいるのに、境を越えなかった。


 灯りを消す前、彼の手が毛布の上へ置かれる。こちらへ向けられているが、途中で止まっていた。


 私は自分の手を伸ばし、指先だけを重ねた。


 彼が長く息を吐く。


 それだけで、二人とも朝まで眠れた。


 翌朝、食卓には二人分の朝食が用意された。


 レオンハルトは黒パンへ蜂蜜を塗りながら、何度も私の顔色を見た。


「眠れたか」


「はい。公爵様は?」


「君が指を離さなかったから」


 答えた後で、彼は言い方を誤ったと思ったらしい。


「責めているのではない」


「分かっています」


 私が笑うと、彼は蜂蜜を塗りすぎた黒パンへ視線を落とした。氷の魔王にも、取り繕えない朝があるらしい。


 食後、彼は昨夜の衝立の位置を図面へ描き、私に差し出した。


「次から動かす時は、君が印を付けてくれ」


 私は寝台の間に残したい幅へ線を引いた。彼はそこへ定規を当て、使用人へ正確な寸法を伝えた。


 その日の昼、彼は別室で休むと言った。毎晩を当然にしないためだろう。


 私は自室で本を開いたが、隣室から細い軋みが届くたび、文字が頭へ入らなくなった。呼ばれてはいない。契約上、行く義務もない。


 半刻迷ってから、私は本を閉じた。


 扉をノックすると、レオンハルトが驚いた顔で現れた。


「どうした」


「今夜も、あちらの寝台を使います。私がそうしたいので」


 彼はすぐに礼を言わず、私の顔をよく見た。本心を確かめた後で、扉を大きく開けた。


 頼まれる前に自分から来たことが、昨夜とは違っていた。


 その晩は、手を重ねずに眠った。


 私は自分の寝台で本を読み、彼は衝立の向こうで報告書を閉じる。灯りを消してからも、互いに一度ずつ寝返りを打った。彼の呼吸が浅くなるたび、私は声をかけるべきか迷ったが、やがて自分で整っていく。


 朝、レオンハルトは目の下に少し影を残していた。それでも眠れたのだと答えた。


「毎回、触れなくてもよさそうですね」


「君がいると分かるだけで違う」


 彼はそう言ってから、私の手ではなく、衝立の位置を確かめた。


 朝食の後、レオンハルトはまた衝立の図面を持ってきた。


 私は前夜より、指一本ぶんだけ近い位置へ線を引いた。


 彼は何も尋ねず、その線へ定規を当てた。

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